わくわくアラスカ紀行

アラスカ、ばり寒い

ピッチングボーイ

 

瑛里雄の投げる軟球がジュニアリーグにして140キロを記録した時、父は驚きのあまり父兄席から転がり落ちて顎の骨を砕いてしまった。瑛里雄がノーヒットノーランを達成した時、父は歓喜のあまりにマウンドまで乱入し瑛里雄を抱きしめ、その力の強さに危うく瑛里雄は窒息死するところだった。瑛里雄の右腕が不慮の事故で切断された時、父は失意のあまりピッチングマシーンを瑛里雄の右腕に移植してしまった。

瑛里雄の右腕が切断されるに至った事故は、トラックドライバーの過労働からの居眠り運転によるもので、父は怒りに任せてその会社を訴え、多額の賠償金を手に入れた。賠償金は全て、瑛里雄の右腕にピッチングマシーンをコンバートするための手術費に充てられた。ただ、多額の賠償金でもそんな前代未聞な手術にかかる莫大な費用には少し足らず、移植されるピッチングマシーンは取り壊されるバッティングセンターから買い取った中古のピッチングマシーンとなった。

術後すぐさまリハビリが開始し、ほんの三ヶ月も立たないうちに、瑛里雄の右腕は軟球を150キロで正確無比に投げ込むまでになった。これから訓練を積めば、160キロを記録することも夢ではなかった。移植されたピッチングマシーンのガイドラインによると、最高球速は160キロとはっきりと記載されており、父は、それが達成されなければ、メーカーを訴える所存だった。

とはいえ、問題もゼロではなかった。

まず、投球フォームである。

瑛里雄がこれまでと同じように大きく踏み込んで、右腕を振りかぶって投げようとすると、瑛里雄の小さな身体に不似合いなほど巨大なモンスターマシンによって重心が崩れ、瑛里雄はマウンド上に転がってしまった。これは訓練でどうにかできるものではないと父は一目にして理解して、フォームを変えるように瑛里雄に指導した。何通りかの調整の結果、瑛里雄の投球フォームは直立不動というところに落ち着いた。棒立ち。気を付けの姿勢のまま、右腕をぐるんぐるんと回転させることで、高速の球威を実現することとなった。

次に、日常生活の不便さである。

当然、ピッチングマシーンは球を投げること以外には適してはいなかった。だが、そもそも日常生活を快適に過ごすことが目的ならば、最初からピッチングマシーンなどを移植するはずもなかった。

父は日常生活を送るために、利き腕を変えるように瑛里雄に指示した。野球のために、利き腕を変えるような人間は瑛里雄の他にも沢山いることを殊更に強調することで、瑛里雄を納得させた。時間はかかったが、瑛里雄は左腕で箸を使うこともできるようになったし、不格好ながら文字を書けるようにもなった。元々の器用さから、ペン回しすら難なくこなすようにもなった。

最後にバッティングである。

野球には攻守が存在しており、攻撃側は必ずバットを振る必要があった。片腕がピッチングマシーンの瑛里雄には、両腕でバットを持つことは困難で、野球プレイヤーとしてこのことは致命的だった。

父はかつてないほどに悩み、悩み過ぎて会社を退職した。そして、占い師を頼ったりもしたが、ジュニアチームのコーチに相談したところ、「ピッチャーなんだから、打たれなければ役目は果たしているだろう」という極論で解決した。

つまり、瑛里雄はバッターの場合もベース横に棒立ち状態で、バットを構える必要もなく、ただその役目が終わるまで待機すれば良いという結論に至ったのである。試合放棄とも取れるその姿勢に瑛里雄自身は疑問を抱いたが、周囲の大人たちが喜んでいたので流される形で許容した。問題を解決した父は悩む必要がなくなったが、そもそも働くことが好きではなかったので、無職でいることに決めた。生活費は代わりに母がスーパーでのレジ打ちを増やすことで充足された。父の給料は元々、薄給だったために、それでもなんとか事足りた。

リハビリの後、瑛里雄はチームに復帰して、すぐにピッチャーとしてベンチ入りすることとなった。キャッチャーの九段は昔からの親友だったため、右腕がピッチングマシーンとなった瑛里雄にもすんなりと馴染んだ。瑛里雄の球速はどんどんと上がり、九段も捕球に最初こそ手こずっていたが、彼は彼で天賦の才を持ち合わせていたので、瑛里雄の球を完璧に捕らえることが出来る様になった。この才能溢れる少年バッテリーを前にして、歓喜のあまり、父とコーチは抱き合いながら涙した。そして、公式戦での連勝を確信した。

瑛里雄のチームはそれからの試合で負けることはなかった。その全ての試合で瑛里雄はノーヒットノーランを達成した。その頃には瑛里雄の球速は160キロにまで届いていた。プロの中ですら、その球速を投げられる人間など稀なうえに、瑛里雄はその球速をコンスタントに投げ続けることが可能だったうえ、コンピュータによって緻密にプログラムされた制球力により、九段の構えたキャッチャーミットへ寸分の狂いなく球が投げられたので、連勝は約束されたようなものだった。

対戦相手の多くは、瑛里雄の右腕に取り付けられたピッチングマシーンを指して、ルール違反だと声高に叫んでみせたが、野球のルールブックには腕に移植したピッチングマシーンを使用してはならないという文言は記されておらず、その主張は棄却された。

瑛里雄のチームに敗退したチームは皆、悔し涙を滲ませていたが、ルール改正には時間がかかるため、どうしようもなかった。俯いて泣く相手チームの少年達を見て、瑛里雄の胸がちくりと痛んだが、父から「お前は犠牲を払ってその力を得ているのだから、そこに自信を持ちなさい」と告げられ、不承不承頷いた。「俺は偶然トラックに撥ねられて腕を失っただけで、右腕のピッチングマシーンはその犠牲の賜みたいな言い方は辞めてほしいな」とも思ったが、父もコーチも彼の輝かしい未来に目を眩ませていたので、そこに水を差すのはためらわれた。そんな彼の背を九段とチームメイトが優しく撫でた。

瑛里雄は試合が楽しく無くなってきていた。練習は楽しかったが、今ではそこまで魅力を感じられない。以前は楽しかった九段とのピッチング練習も、今では棒立ちの姿勢のまま、自分が機械の土台になったような気持ちで投げ込むだけだ。球速はいまよりずっと遅かったが、以前の方がよっぽど楽しかった。九段との「今の球は良かった」とか「ちょっとミットから離れた」とか「フォームがずれていたぞ」とか、そういう会話がなくなってしまったのが、ことの他辛かった。

そんな気持ちではあったが、瑛里雄の球の勢いは日に日に強力になっていった。時々、プロチームのスカウトや強豪校の視察が練習場に顔をだすようになった。みな、父やコーチと同じ熱に浮かされた目をしていた。その目が好きになれなかったので、瑛里雄は彼らが現れるとすぐに練習を切り上げて更衣室に急いだ。そんな態度でも、誰も瑛里雄の球を打ち返すことが出来ないので文句は言われなかった。

日々は目まぐるしく進んでいき、地方大会の決勝戦になった。この試合に勝てば、全国大会への進出が決まる意味のある試合だったが、瑛里雄にとってはどうでもよかった。

どうせ勝つのだ。勝ってしまうのだ。

瑛里雄は勝つことが苦痛になっていた。

自分の右腕が嫌いになっていた。いっそのこと分解して使い物にならなくしてやろうと家にあったプラスドライバーでナットを外そうとしたが、ピッチングマシーンのような専用の機械に使うナットと家庭用プラスドライバーでは規格が違い過ぎてどうにもならなかった。ホームセンターに赴いて規格に合うドライバーを探してみたが、思いの外高価で、瑛里雄のお小遣いでは買うことができなかった。

 

 

 

試合が始まったが、案の定、相手チームの誰もが瑛里雄の球を打ち返すことが出来なかった。160キロをコンスタントに越える豪速球など、同世代の誰もが見たことすらない。回を追うに連れてやる気を失っていく相手チームの顔を見て、瑛里雄はまた憂鬱になった。早く終わって欲しいとまで思い始めた。点が取れないのなら、点だけは取られまいという意志が相手チームの守備には感じられた。事実、瑛里雄チームは点を取りきれないでいた。瑛里雄の願いとは裏腹に、延長戦の気配が俄かに漂い始めた。

けれども、関係ない。

瑛里雄がすることと言えば、自らの右腕を回転させ、驚異的な球を投げ込むことだけだ。瑛里雄は感覚のない冷たい右腕で白球を強く握りしめた。

最終回。

案の定、誰も瑛里雄の球を打てないままにゲームは進行し、両者無得点のまま最後の盤面に進んだ。先行の瑛里雄チームはこの回でも点を取れなかった。打者は塁に出るのだが、肝心の点数が取れない。相手チームの執念に気圧される形だった。そして、瑛里雄は王者の風格でマウンドに立つ。ここが、瑛里雄にとっての居場所なのだ。相手チームに代打の報せが入った。瑛里雄の球を打てないことを悟って、思い出作りとして補欠の選手を投入したのだろうとベンチに座るコーチと父兄席の父は思った。その予想通り、バッターボックスに現れたのは、他の選手と比べると一回り以上小さな選手だった。補欠になっていたのは、その小さな身体のせいだろう。申し訳ないが、この子も三振だろうなと、父はその選手を哀れに思った。その選手は、緊張のせいか、少し震えて見えた。そして、バットを構えた。瑛里雄は無慈悲とも思える速度のストレートを九段のミットに向けて投げ込んだ。

カキン。

バットの鳴る音を瑛里雄は久々に聴いた。その試合を通して、いや、これまでの試合を通して、どの選手も瑛里雄の球にバットをかすらせることすら出来なかったのに。

球はファールゾーンへと吸い込まれていく。場内の誰もがその事態を想定していなかった。一瞬の沈黙の後、大歓声が上がった。想定外のドラマに会場は著しく盛り上がった。その興奮の渦中に立つ瑛里雄は何が起きたのか分からなかった。

自分の球が打たれるなんて。

思わず自分の右腕についた無骨な機械を見やる。ボルトでも緩んでいたのか。いや、そんなはずはない。週に一度、父に連れられ近所の車整備工場でメンテナンスが行われている。緩むはずは無い。

きっと、何かの偶然だ。

そう断定して、瑛里雄はストライクゾーンに向かって、全力のストレートを投げ込んだ。

カキン。

また、聞き慣れない音がして、客席からは歓声が上がる。バットに当たり、またしてもファールゾーンへ飛んでいった白球の弾む音が、何故か近くに感じた。

二球続けて、当てられた。

これは、偶然ではない。

瑛里雄がそう思ったように、観客たちもそう思ったのだろう。一際大きな歓声が上がった。地方大会の決勝でこれほど会場が揺れ動いたことなど、前代未聞のことだろう。歓声は空気を揺らし、グラウンドすらも胎動しているようだった。

そんな筈はない。

瑛里雄は自分の機械仕掛けの右腕を見る。信じられないでいた。客席の父の顔を探すが、興奮する観客たちに紛れて父の姿は見つけられなかった。

これまで感じたことのないプレッシャーが重く降りかかってきた。空が落ちてきたのかと錯覚するほどだった。

九段が立ち上がって瑛里雄のもとに駆け寄ろうとするが、瑛里雄はそれを制した。九段に責任はない。これは、自分の問題だと瑛里雄は断定した。九段に駆け寄らせては彼にも責任を分配することになってしまう。それだけは嫌だった。背中にチームメイトの驚きと不安を感じる。

瑛里雄はこの瞬間、絶対的なグラウンドの支配者ではなくなった。ただの、ピッチャーになってしまっていた。嫌な汗が噴き出る。こんなにも、マウンドは暑かったろうか。

不安を押しやるように首を振る。そして、バッターに向き直る。九段が腰を下ろし、ミットを構え直す。彼だけは、瑛里雄が勝つことを確信していた。その信用に応えるために、瑛里雄は右腕を振り下ろす。直立不動で振り下ろす。

指先が球を離したその瞬間。瑛里雄はその球が打たれることが直感的にわかった。

この試合で一番良い球だった。一番速く、正確に投げ込めたと実感した。

それでも。

それでも、その球は小気味のいい金属音と共にバックスクリーンへと吸い込まれていった。ディレイがかかった映像のように、時間がゆっくりに過ぎていった。

沈黙。そして、瞬間。爆発が起こったかのように歓声が上がった。場内が揺れ動いた。

相手チームも、客席も、誰もがバッターに向けて称賛を送った。小さな体を揺らしながら、頬を染めた彼は遠慮げにガッツポーズを掲げた。そのジュニアリーグらしい素振りに観客はまた沸いた。

既に、瑛里雄のことを観ている人間などどこにもいなかった。負けが確定してもまだ、瑛里雄は自分の球が打たれたことを信じられないでいた。機械化された自分の右腕をあれほど、疎んでいたと言うのに。そのことがまた、瑛里雄には意外だった。

明記されてはいないからと、声高に主張してきた明らかなルール違反も、一度敗れればこのようなものだ。瑛里雄に駆け寄るチームメイトは、九段以外には誰もいない。チームメイトは泣き崩れるか、バッターの小さな身体に賞賛の浮かぶ目線を送るかだった。

そこからの記憶はない。

いつの間にか、瑛里雄はマウンドから降り、着替えを終え、球場の出口に立っていた。ピッチングマシーンから、彼を慰めるようなモーターの駆動音が鳴った。

父は怒り心頭だった。何故、打たれたのか。油断したのか。声高に瑛里雄を批判した。他人よりも有利なデバイスを使用していたのに、何故、負けるのか。

瑛里雄はただその声を真っ直ぐに受け入れるだけだった。父とコーチは興奮が冷めやらぬままにどこかに行ってしまった。これからの展開を相談でもしているのだろうか。

瑛里雄は一人、球場の出口に残された。チームメイトの姿も見えない。瑛里雄に対する怒りを抱えたり、崩れ落ちてしまいそうなほど泣いたりして、それぞれの帰路についたのだろう。

瑛里雄は空を見上げた。雲一つない空の青さに飲み込まれてしまいそうだった。いっそのこと、この巨大な青が落ちてこないかとも思った。

「なにしてるんだ?他の連中は?置いてかれたのか?」

心配するような声色が頭の上から聞こえた。

瑛里雄を覗き込むのは、瑛里雄の球をバックスクリーンへ叩き込んだ小柄な選手その人だった。よく焼けた肌と切り揃えられた髪が夏の強い陽射しに煌めいていた。

「いや、なんでもないよ。ここまでも市営バスで来たし」

「おまえさ……その腕、やっぱり痛むのか?」

瑛里雄は右腕を見下ろした。外付けの金属は、夕方の光を映して冷たく光っていた。

「痛いっていうより……重いんだよね。もう慣れたけど」

少年はこくりと頷くと、バットケースのジッパーをいじりながら言った。

「なあ、さっきの球、なんで打てたと思う?」

唐突な質問に、瑛里雄は目を瞬いた。

「君が上手いからじゃないの?」

「ちがうちがう。絶対に違う」

少年は即答した。

勝ち誇った感じでも、謙遜した感じでもない。ただ事実を述べる口調だった。

「俺んちの近くのバッティングセンターさ、潰れたんだけど。わかる?隣町の」

「いや、知らないけど」

「だよな。でも、その腕さ」

少年は、瑛里雄の右腕を指差した。

「そのバッセンにあるピッチングマシーンと、まったく同じ型なんだよね。いや、ってか俺が打ってたやつそのものなんだよな」

瑛里雄は思わず言葉を失った。

「同じ型って……どういうこと?」

「どうもこうも、同じやつなんだって。急に店自体が潰れたから、店の爺さんに聞いたら子供の腕に移植したとかわけわかんねえこと言い出すしさ。困ったんだよな、あの台が一番速かったから急になくなってどうしよって思ったんだぜ」

少年はあっけらかんと言った。

「だからおれ、あの球……ずっと打ってるんだよ。ガキの頃、いや、まあ今もガキだけど」

瑛里雄は右腕を押さえた。金属の接続部が、きゅう、と微かに鳴った。

「つまり君は、ぼくの球を……」

「うん。バッティングセンターの4番打席の球として、何百球も打ってる。今日のも、ほとんど同じだった」

瑛里雄は、返す言葉を持たなかった。

少年は続ける。

「おまえの球がどうこうじゃないよ?ただ、俺にとっては知ってる球だったってだけ」

それは、慰めではなかった。

ただの説明。事務的なくらいの事実だった。

けれど不思議と、悔しさよりも安堵に近い感情が胸に生まれた。

自分の力が認められなかったという安堵。

機械の性能が否定されなかったという安堵。

そのどちらともつかない、奇妙な気持ちだった。

少年は肩のバットケースを持ち直し、ぽつりと言った。

「俺がすごいわけじゃないぜ」

その言葉は、侮辱でも称賛でもない。

ただ、出会い頭の奇跡の正体を淡々と説明しただけだった。

瑛里雄は胸の奥が痛むのを感じながら、それでもどこか救われる気がしていた。

「そうだ、名前言ってなかったよな。俺の名前は」

少年はそこで言葉を切った。

ちょうどその時、場内アナウンスが鳴り響いた。

〈選手の皆さんは速やかに荷物をまとめ――〉

少年は「あ、やべ」とだけ呟くと、軽く手を振った。

「じゃ、またどっかで」

「え、名前……」

「いらないでしょ。どうせまた会うし」

本当に必要ないという顔だった。

それ以上訊ねる隙もなく、少年は観客の残骸みたいなざわめきの中へ消えていった。

瑛里雄は、その背中をしばらく見つめていた。

胸の奥に、ぽっかりと穴があいたようだった。

もちろん良い意味ではない。

気が晴れるわけでも、元気になるわけでもない。

ただ、妙に軽かった。

負けたのに、悔しさがどこかへ行ってしまっていた。

(……やめてもいいかもしれない)

ふと、そんな考えが落ちてきた。

それは雷のように突然ではなく、雪のように静かに気づいたら肩に積もっていた、そんな感じだった。

父が聞いたら殴り飛ばしそうな考えだ。

コーチが聞いたら泣き出すかもしれない。

けれど、それでも。

右腕の奥の金属よりずっと、人間らしい温度をもって胸に広がった。

「おーい、エリオ!」

背後から、聞き覚えのある声がした。

振り返ると、九段がポカリのボトルを二本ぶらさげて走ってくるところだった。

相変わらず肩幅が無駄に広い。

そして走り方が壊滅的に変だ。

「おまえ、大丈夫か? 泣いたりしてないか?」

「泣いてないよ」

「そりゃそうだよなお前は! だって人間じゃ……あ、人間だわ」

瑛里雄は九段の肩を殴る。ブラックジョークが過ぎる。九段は慌てて言葉を修正し、ポカリの一本を差し出した。瑛里雄はそれを受け取り、キャップを開けた。

九段は隣に腰を下ろし、妙に真剣な顔で言った。

「俺、悔しいとか全然思わなかった。むしろ、おまえが誰かとちゃんと勝負してるの見てさ、なんか、よかった」

「よかった?」

「そう。お前が投げた球をさ、人間が打ったんだぞ?

マシーンじゃなくて。それって、競技ってやつじゃん。俺ら、ようやく野球ができたって感じだった」

意外な言葉だった。

九段はいつもの馬鹿みたいな笑顔ではなく、ほんの少しだけ大人びた表情をしていた。

「だからさ。俺、今日めっちゃ楽しかったんだよな」

瑛里雄は、返す言葉をすぐには見つけられなかった。

右腕の内部で、小さな駆動音が鳴った。それがやけに遠く聞こえた。

「……ありがと、九段」

「おう! なんでも言えよな! 悩みとか! 恋愛相談とか!右腕の油さす場所とか!」

「最後のはお前知らないでしょ」

「知らん」

九段はけろっと笑った。

その笑顔を見ていると、自分が何か大きなものから解放されつつあるような気さえした。

瑛里雄は、ふっと息をついた。

そして、ぽつりと言った。

「野球、やめるかもしれない」

九段は驚くかと思ったが、意外にもゆっくり頷いた。

「そっか。それもまあ、悪くはないんじゃないか?」

「うん。そう思う」

「おまえが決めるなら、おれはなんでもいいぞ。やめるってんなら、おれも一緒にやめてやるよ。お前いないんならつまらんし」

その言葉が、胸の奥にやさしく沈んでいった。

泣きそうになるよりも先に、瑛里雄は笑ってしまった。

「ありがとう。でも九段は続けなよ」

「え、続けるの? 俺だけ?やだよ。しんどいし」

九段は肩をすくめて、また笑った。

 

 

 

それから数日、瑛里雄は、野球道具に触れないままぼんやりと日々を過ごした。

右腕の機械は、投げる相手を失ってからというもの、ただの重たい金属の塊として彼の肩にぶら下がっていた。ポケットに手も入れられなければ、布団をめくる動作すらぎこちない。野球をしないなら、この装置はただの障害物でしかなかった。

練習場にも顔を出さなかった。父やコーチからは何度も着信があったが、応じる気にはならなかった。あの日、バットに弾き返された白球の軌道よりも、あの少年の笑顔や、九段の言葉のほうが鮮明に焼き付いていた。あの打球が、すべてを変えてくれたのだと思う。

家で過ごす時間が増えるにつれて、瑛里雄はゆっくりと、自分の「これから」を考えるようになった。野球のことではなく、もっと手触りのある自分自身の人生のことを。

父とコーチの焦りや期待に寄りかかっていた日々が、まるで夢の続きのように遠のいていく。

そして、瑛里雄自身もぼんやりと悟り始めていた。この腕はもう、マウンドに立つためのものではなくなったのだ、と。

 

 

 

父と母は離婚した。

瑛里雄の人権を無視した所業が連盟から指摘されて、ついには刑事罰の対象にもなったのだ。2人はまだ夢から醒められない表情で判決を受け入れ、多額の慰謝料請求を受けた。

瑛里雄の腕からはピッチングマシーンは外された。野球をしないのであれば、このデバイスは兎に角、邪魔なのだ。野球をするためだけのデバイスは、野球を辞めた瑛里雄にとっては、必要のない代物なのである。

瑛里雄はリビングでソファに寝転がりながら、片腕で工業用ドリルのカタログを眺める。義手を付けてもいいが、働く母を助けるために工事現場でバイトをしたいと言う気持ちが大きい。そのために、腕をドリルにしたいと、瑛里雄は思う。その方が効率的だし、何より需要があることを瑛里雄は知っている。手術費は父とコーチからの慰謝料を充てるつもりだ。

「サッカー部入らないか?」

ワールドカップに浮かされたのか九段からは頻繁に勧誘のメッセージが届いた。それもいいなと思ったけれど、右腕にドリルを付けた自分を見て、九段はどんな反応をするだろうか。

それが無性に楽しみだった。

 

 

 

 

あなたは私の心の酸素

 

今日、ロペが死んだ。
"どうやって"死んだのか。そんなこと、わたしは知らないし、知りたくもない。可愛いロペの可愛くない瞬間なんて私は見たくもないし、知らないままでいい。けれど、私はロペが"何故"死んだのかはわかる。知っている。嫌なくらいに知っている。
ロペは炎上して、自殺した。
私の可愛いロペ。世界一可愛くて、凛として、強かったロペ。笑うと、綺麗な顔がクシャと歪んで、それがまた違う側面の可愛さを見せてくれた。真っ直ぐ背筋をのばして、夢の先を見ていたロペ。
素直で、馬鹿で、優しくて、構ってあげたくなって、涙脆くて、綺麗で、素敵で、礼儀正しくて、気遣いができて、不器用で、声が少し掠れていて、肌が白くて、味覚が変で、私が大好きなロペを、薄汚い有象無象のクソどもが汚した。踏みにじった。傷つけた。
不特定多数の悪意が、強いロペをぺしゃんこにした。苛烈を極める悪意の渦で、私は結局、ロペを守ることができなかった。
私の大事なロペ。
悔しかったろうな。怖かったろうな。
最後まで私は貴女の味方だったけど、多分、ロペにはそのことは伝わってないんだと思う。
私以外にもロペの味方は当然居たはずだ。それでも、私たちの声はロペには届かずで、有象無象のクソの声に負けてしまった。その事実がなおのこと悔しかった。
ロペは若手俳優との熱愛でゴシップ誌に撮られた。その若手俳優は近々、映画での主役が決定しており、ファン層が大きく、ロペを最初に非難していたのは主にそのファン層だった。それでもロペは、気丈に振る舞っていた。真摯に謝罪し、矢面に立ち、若手俳優と共に声明も出したりもした。
そんなロペを叩き潰したのが、苛烈に燃えていくその騒ぎにどんどんと燃料を投下していくファンでも何でもないただのクソ達だった。気に食わないという理由だけで、ロペの実家の住所や、ロペの家族の情報、ロペの過去を電子の海に投げ込み、ロペを憔悴させた。
ロペがその後、どういう心境で死を選んだのかなんて、想像に難くない。
怒り。悔しさ。やるせなさ。
そんな単語で言い表せない程にぐちゃぐちゃになって、そうして、死んだ。
きっと彼女は絶望して死んだ。
世界はまだ捨てたものじゃないと、私に思わせてくれた存在の彼女は、きっと世界に絶望して死んだ。
私はそれが悔しくて、悔しくて、悔しくて。
私がロペの救いの一端にもなれず、有象無象のロペを好きでもなんでもない連中の言葉に負けたことが悔しくて。
私は、業務中何度も泣いた。仕事が手につかなくなって、トイレに逃げ込んで、化粧が崩れるくらいに泣いて、それでも、ロペが死んだ不条理から目を背けられずにいた。
どうしたらいいのだろうか。
立ち上がることすら困難なほどに私は動揺していた。目眩がする。息ができない。いつからか、ロペは私にとってのこの世界そのものになっていて、彼女がいない世界など、私にとっては生きる意味のない世界と同義だ。
生きる意味を探さなければならない。
ロペのいないこの世界で、私が生き延びる意味を探さなければ、トイレの個室から出られなくなる。そのまま首を括りたい衝動に駆られた。
スマホを乱暴に操作する。淡い紫色のマニキュアで彩られた私の爪がスマホの冷たい画面を引っ掻く。
ロペ。ロペ。ロペ。
たすけて、ロペ。
私は情けなくロペの姿をスマホの中に浮かび上がらせる。画面の中で私と映るロペは笑顔だ。慣れないながらも、私の笑顔も本物だ。
この画面の中が現実で、ロペのいない世界こそが仮初なんだと、認識しようとした。
それでも、ファン友からのメッセンジャーが何件も何件も届いて、それは私を気遣うものだったが、善意が私の錯覚を邪魔した。
最期まで私達に助けを求めてくれていたら、ロペ、私はあなたを助けたのに。
何ができるかはわからない。死んでも、あなたを助けたのに。
ロペ。
私はTwitterでロペの名前を検索した。溢れかえる醜い言葉達。嫌悪に胃がせりあがり、勢いよく嘔吐した。
くだらない連中。生きていても誰一人幸せにできないカス共。私の生きる意味を、私の酸素を、ロペを殺した外道共。
ぶっ殺してやりたい。
私の胸の中に小さく殺意の炎が灯った。ドス黒い炎は勢いよく私を燃やして、私の身体に行き渡った。
息ができるようになった。
生きる意味を見つけた。
こいつらを一人残らず、ぶっ殺してやろう。
それがロペを失った私にできる、この世界を生きていく唯一の方法だった。


私はロペに誹謗中傷を送っていた複数のアカウントを辿った。多くは、ロペが自殺した瞬間にアカウントを閉じていたが、私は既にアカウント全てのリプライや、個人情報が見え隠れするツイートをスクショして保存していた。
溜まっていたスクショ画面を何度も何度も反芻した。ロペを傷つけるためだけに書き込まれた悪意の弾丸は、私にも突き刺さった。
涙を流し、嘔吐を繰り返し、挫けそうになりながらも、ロペのことを思い出し、そうして、アカウントから本人を特定するまでいった。
最初に特定したのは《おにぎり@シャケ》とかいうふざけたハンドルネームの男だった。使ったツールはTwitterだけだったが、それでも姿は割と精巧に浮かび上がった。
リア友とのリプライ。そのbio欄。卒業大学とその年度。あだ名。画像で上がる風景。その他諸々の情報を統合すると、浮かび上がってきた姿。
私はそいつらに復讐しようと心に決めた。
私だけが知っている憎悪の対象。私にしかできないことだと思った。これは、正しい行いなのだと思った。
Amazonで金属バットとバットを入れる肩がけのケースを購入した。なんの感情もなく購入ボタンを押し、クレジットカードから人を殺すための金額が引き落とされた。
Amazonから届いた金属バットの梱包をカッターナイフでザクザクやりながら、私の頭の中にはあの憎い連中の身体をカッターで切り込む想像がありありと浮かんだ。バットではなくナイフを選択した方が良かったかもしれない。それでも、鈍器には衝動を殺意に変換する機能が備わっているように感じられた。
殺すべき相手の情報。その全ては私のiPhone7のフォルダの中に確かに存在していて、殺すための器具は私の手の中にあった。
あとは、私自身が感情を殺意に直結するだけでよかった。理性というストッパーを数度、外そうとしたが、どうしても最後の最後で邪魔をされた。
冷静さが社会規範を携えて、私の目の前に立ち塞がった。私の中では殺意はマグマのように熱く滾っていたのに、ビジネスマン面したそいつが私に渾々と理屈を説いた。
酒を買い込んだ。
頭が馬鹿になる強アルコールのチューハイ缶を3本飲んだ。気分が悪くなり、嘔吐した。トイレの便座に抱きつき、何をしているのかと自問した。
私は何がしたいのだろうか。
吐瀉物の残りが口元にへばりつき、伸びた前髪が汚された。酩酊する世界を数歩歩き、シャワールームに入った。ノズルを顔に向け、勢いよく蛇口を捻った。服も脱がずに、ただ湯を浴びた。服が水を吸い、身体に重さが分散した。
シャワーを浴びながら唸った。私の「あー」とも「うー」ともつかない声は弱い水圧のシャワーにギリギリ押し除けられずに狭い風呂場に反響した。螺旋を描いて排水溝に吸い込まれていく長い髪。詰まり気味な排水溝から溢れ、足を常時浸す風呂場の水。湯気の奥で鏡の中の自分と目があった。
「殺せよ」
鏡の中の私がそう呟いた。
「殺せよ。ロペを殺したアイツらを殺せよ。お前はアイツらが誰かも、どこに住んでるのかも、全部知ってるんだろ。なにやってんだよ」
鏡の中の私は歪んだ表情でそう呟き続けた。シャワーの音が霞む。リンスの匂いが鼻についた。鏡の中の自分が消えた。
「殺せよ」
私ははっきりとそう呟いていた。
人を殺す決意をするのに必要なのはチューハイ缶3本なのだとその時知った。


会社を休んだ。
有休なんて制度、ロペの為にしか使ったことがなかった。よくよく考えてみると、今日休んだのもロペの為だった。
私の世界はロペ中心で回っている。
中心の消えた世界で、私は上手く歩くことができない。緯度も経度も無茶苦茶で360度に動き回る世界で、私は立つことができない。
ベッドの中で考えた。
ロペのことを。
ロペを殺したあいつらをどうやって殺してみせるか。
私の中に、答えははっきりと出ていた。生きてきたことを後悔させるほどに痛めつけ、ロペという存在の尊さを自覚させ、その上で殺す。バットで撃ち抜く。殺す。
緩慢にベッドから立ち上がる。バットをケースに閉じ込め、肩からかける。冷凍庫から氷を取り出して、ガリガリと齧る。
駐車場に向い、マイカーの鍵を開ける。慣れ親しんだシート位置、バックミラーの角度、ステアリングの感触。それだけで私は冷静になれた。
これから、人を殺すにはあまりにも慣れた気持ちでアクセルペダルを踏んだ。近場のセブンイレブンでアイスコーヒーを購入した。ナビにざっくりとしたターゲット宅の住所を入力した。
今日は平日だ。
ターゲットが帰宅するのを待とう。
私のNBOX(青)は緩やかに発進した。


《おにぎり@シャケ》の住んでるアパートは小綺麗な雰囲気の二階建てだった。
二階部に住んでるのは、吉田、山岡、佐藤の3人だというのは、郵便受けの表札から分かった。この中のどれかが、《おにぎり@シャケ》で、ロペを殺した一因なのだというのがわかった。
苗字なんか、正直どうだってよかった。
存在が。
ロペを殺したという存在が、私には必要だった。
私が生きるために、ロペの復讐のために、死ぬ存在が必要だというだけだった。
外見の画像は既にSNSから拾ってきており、問題はない。今日はおそらく仕事だろうから、帰ってくる姿をその画像と照らし合わせ、判断する。
どれくらい時間が経っただろうか。
判然としない。
カーステレオからのラジオで流行りの曲が何度も流れた。口ずさむことはしなかった。私の覚悟が口から歌と一緒に流れ出してしまいそうで、それが無性に怖かった。
人を殺すことに対する倫理の綻びは恐怖の対象ではなかった。ただ、私自身の在り方が歪むこと、覚悟が揺らぐことが怖くて仕方がなかった。
似ているようで本質は全く異なる。恐怖の質が異なる。
私は怪物になることは厭わないが、怪物になることを迷うようなことが起こりうることにひたすらに恐怖した。
ステアリングに寄りかかり、闇の先を見つめた。街灯の細い光に照らされて、アスファルトがてらてらと粘っこく光る。小さな蜘蛛の巣がサイドミラーとドアの隙間に見えた。家主はいない。風で吹き飛んだのだろうか。家主を伴わない寂しいあばら家としての蜘蛛の巣は、それでも美しかった。光を反射させて、破れながらも形を保っていた。
形を保っているものは美しい。
異形へと、殊更に形を失いつつ、壊れていく自分と比較して、その美しさは眩しかった。
ロペは形を保ったままに消えた。
ロペという形は結局のところ、瓦解することなく、この世から消えた。ロペの体は炎で燃やされ、灰となり、骨へと姿を変えた。それでも、ロペという形は美しいままに私の前にある。壊し尽くされてもなお、ロペは美しいままだった。
街灯の先に人影が見えた。
小さな背丈の男が疲れた様子で現れた。
あいつだ
私は確信する。
復讐の相手の顔は何度も確認した。
私が殺す男。
私が殺すべき人間。
それが、そこにいた。
彷徨う幽鬼のように車からぬるりと出た。助手席側に回り、バットをケースから取り出した。アスファルトに擦るようにして音を鳴らした。
男が私に気がついた。
夜間にバットを持つ女に警戒したのだろう、たじろぐ素振りを見せる。
「なんだよ」
厭な声だ。
不快さで鳥肌が立つのがわかる。
薄汚い、ドブ底の汚泥のような声だ。
ああ、厭だ。
「あんた、ロペがどれだけ苦しんだか知ってる?」
「は?ロペ?」
《おにぎり@シャケ》は気味の悪いものを見るかのように私を見た。ロペの名前に思い当たることなどないようだった。
頭がスッと冷えた。
「あんたが殺したんだ」
会話など無駄なことはわかっていた。
私のこの行き場のない、名前のない感情は唾棄すべき男との会話の中で消失するとは思ってもなかった。
脳漿。
汚物と大差ない脳漿を、頭蓋を割って撒き散らして初めて、その感情は収まる。この気分の悪さもその時初めて、消える。
そんなことはわかっていた。
それでも、私は会話を試みた。
ロペの死に意味はあったのか。ロペがこの世界から消える意味があったのか。この愚物から得られるとは思えなかったが、それでも、確認せずには居られなかった。
「わけわかんねえ。警察呼ぶぞお前」
「いいよ、呼べよ。その前に答えろよ。なんでロペが死なないといけなかったのか」
「やっば。本気でやばいなお前。気持ち悪い」
男は私に背を向けて歩き出した。その背中から声が聞こえた。
「知らねえよそんなやつ」
私は。
答えを得た。
私は夜を背景にして飛び上がり、金属の塊を振り下ろした。


バットの衝撃は不思議に掌に馴染んだ。胸糞悪いカスの頭部を粉砕する衝撃は赤い鮮血を撒き散らし、私を高揚させた。
どしゃりとアスファルトに倒れ込む《おにぎり@シャケ》を見下ろし、上がった息を整えた。
ロペ、やったよ。ロペを傷つけた馬鹿をひとり、傷つけてやったよ。
私の胸にロペへの贖罪じみた感情が湧き上がった。雨が強くなった。私の身体を打つ雨粒はその飛沫で息ができなくなる程の強さだった。溺れそうな雨だった。
私が殴った《おにぎり@シャケ》が呻きながら身動ぎをした。まだ生きていた。弾丸のように降る雨の中、砂利に塗れてアスファルトを這った。当然のことだったが、一発殴った程度ではどうやら人間は死なないらしい。私は虫を潰すように《おにぎり@シャケ》を踏んだ。何度も何度も踏んで、深呼吸をした。肺に水が満たされて苦しかった。澄んだ雨の夜の空気が水と一緒に肺に入り込み、それが心地よくもあった。
呻く《おにぎり@シャケ》をその場に置いて、私は路駐していたNBOXに向かい、エンジンをかけた。そのまま緩やかに《おにぎり@シャケ》の隣に車を寄せ、後部座席の扉を開いた。
持ってきていたガムテープで両手両足を封じて、《おにぎり@シャケ》を乱暴に後部座席に押し込んだ。女の私でも割と簡単にその作業が進んだのは、《おにぎり@シャケ》の体型が痩せ形のチビだったからだ。
このチビがロペを追い詰めたんだ。
私に簡単にボコられて車に詰められるこの雑魚のせいで、可愛い可愛いロペが死んだ。
無性に腹が立って、後部座席に横たわる《おにぎり@シャケ》の腹部を何度も殴った。鼻水と涙と血で塗れた顔を歪ませて、《おにぎり@シャケ》は喘いだ。妙に高い声だ。勘に触る。
繰り返し殴り続けていたせいか、《おにぎり@シャケ》が緩やかに嘔吐した。吐瀉物が私の車の後部座席を汚す。
噎せ返る酸っぱい臭いに怒りは湧かなかった。ただ、生きているんだと実感できた。この小さな弱い人間は生きていて、私のロペを殺したんだと事実が確認できた。ぶっ殺してやると強く思った。
後部座席のドアを勢いよく閉め、私は運転席に乗り込んだ。アクセルを踏むと、フロントガラスに雨粒が当たりうるさかった。
バックミラーを見ると、《おにぎり@シャケ》が泣きながら何か呻いていたが、無視した。流石に吐瀉物の臭いが気持ち悪く、窓を開けた。雨粒が勢いよく入ってきて、私の右半身を濡らした。その冷たさが現実と夢との間を繋いでいた。
国道を走らせ、何度目かのコンビニエンスの光に吸い込まれるようにして、私は駐車場に入っていった。呻く《おにぎり@シャケ》を残し、店内に入った。缶コーヒーとおにぎりを数個購入した。現金がなく、ポイントを使って購入した。このポイントはロペのLIVEのチケットを買って貯めたものだ。
車に戻ると《おにぎり@シャケ》が後部座席の窓から助けを求めようと顔を覗かせていた。私に気付いて、涙目の奥で絶望が広がった。
私は後部座席のドアを開け、思い切り《おにぎり@シャケ》の顔を蹴り付けた。私のNIKEのスニーカーは《おにぎり@シャケ》の不快な顔を思い切り吹き飛ばし、反対方向の窓にぶつけた。鼻血を垂らし、驚いた表情でこちらを見る《おにぎり@シャケ》に笑顔を見せてやった。
落ち着けよ。
大丈夫、ちゃんと殺してやるから。
胸の奥から覗かせる嗜虐性を表情筋に乗せた。
《おにぎり@シャケ》はただグズグズと嗚咽を漏らし始めた。車のエンジンをかけて、伸びる国道をひたすらに走らせた。


人気のない国道沿いに路駐した。国道と言っても山肌が間近に見えるくらいには山深い道で、車の通りは一切ない。
私は《おにぎり@シャケ》を後部座席から勢いよく引き摺り出した。アスファルトと砂利とで顔と手を擦りむいた《おにぎり@シャケ》が情けなく呻いた。その声が癇に触った。
この程度で呻くなよ。ロペはもっと辛かったんだからな。
顔を蹴り上げた。靴越しに足の甲に鈍い肉の感触が走った。不愉快だった。
助手席からロープを取り出し《おにぎり@シャケ》の手首に巻き付け、そのまま引き摺る。抵抗する動きを見せた瞬間に蹴りを入れた。尚のこと抵抗するので、指を勢いよくバッドで潰した。
闇の中に絶叫が響いた。
痛みで神経が過敏になった《おにぎり@シャケ》は顔中から汁をこぼしていた。息は荒く、上手く呼吸すらもできていなかった。手近な樹にロープで身体を縛り上げてやった。
「ごめんなさいッ…ゆる…ゆるじでッ…」
樹に縛りつけられ、私を見上げる《おにぎり@シャケ》は醜かった。潰れた鼻。細い目。エラの出た頬。美しいロペと比べて、あまりにも醜かった。
「なんでお前が生きてるんだよ」
言葉は、嗄れて砂のようだった。
私はコンビニで買ってきたシャケおにぎりを《おにぎり@シャケ》の口に無理やり詰め込んだ。米のつぶれる感覚と《おにぎり@シャケ》の漏らす鼻息とが右手に感じられて、ひたすらに不快だった。
「ふぐっ…ぶぶ…」
何度も米を吐き出し、私の右手は唾液と咀嚼された米粒の破片で汚された。地面から落ち葉の混ざった土をすくい、《おにぎり@シャケ》の口内に詰め込んだ。
「食えよ食えよ食えよ食えよ!!!!泥食えよテメェ!」
《おにぎり@シャケ》の食道から迫り上がる胃液と吐瀉物を腐葉土で塞いだ。身体を跳ね上げ、《おにぎり@シャケ》は苦しみを表現した。私はなおも腐葉土を喉奥に詰め込んだ。
「吐いてんじゃねえよ食え食え食え!!泥食え!食えよ食えよ食え!」
気管に詰まったのか、数度痙攣して《おにぎり@シャケ》が動きを止めた。喉を蹴った。腹を蹴った。血と泥と米と吐瀉物が勢いよく《おにぎり@シャケ》の口から飛び出た。
「ひゅー…ふっ…ゔぁッ…」
酸素を再び肺に入れることができた《おにぎり@シャケ》の口に再びおにぎりを詰め込んだ。腐葉土も詰め込んだ。唾を吐きかけた。
何度も何度も何度も何度も、胃が膨れ上がる目一杯、米と腐葉土を詰め込み続けた。
唐突に私は飽きた。
《おにぎり@シャケ》を痛めつけることに飽きた。
もうこれ以上、こいつに存在して欲しくなくなった。復讐の嗜虐心が、殺意に負けた。
「死ねよお前」
私は力なく放心する《おにぎり@シャケ》を見下ろした。金属バットを空高く振り上げた。
《おにぎり@シャケ》はそこまで痛めつけられていても、尚、生に執着するように怯えた表情を私に向けた。どうせ命乞いだろうが、土が詰まっていて何を言っているのかわからなかった。
どこまで、醜いんだお前は。
私は勢いよく金属バットを振り下ろした。
頭蓋の割れる音がした。脳の潰れる感覚があった。
引き千切れた肉と液体の撒き散らされる音が静かな雑木林に響いた。
生温い湿度の中に、人間の中身の臭いと腐葉土の臭いとが不快なほどに立ち昇った。
私はその場に座り込んで、大きく息を吸った。涙が溢れた。感情が昂って、コントロールが効かなくなっていた。鼻血が垂れた。
それでも、私は笑っていた。
大きな笑い声だけが、月の光も入らない暗闇の雑木林に長い時間こだましていた。

 

人を殺した次の日の朝は思いの外、目覚めが良かった。今日も天気が悪かった。関東は1日を通して雨が降り続けるそうだ。今日も人を殺そうと思った。
雨の日なら、人を殺しても罪悪感がないと、何故かそう思った。
罪悪感?
ふと、疑問に思う。
私は罪悪感を覚えているのだろうか。
自分にとって間違いではないと選択した殺人に、疑問を覚えているのか。
自分が立っている場所が酷く不安定に思えた。エアコンのリモコンが大きくなったり、小さくなったり、錯視のように見えた。目覚まし時計の秒針がやけに大きく響いた。
私は逃げるように部屋を出た。
スーツはアイロンをかけ忘れ、しわくちゃのまま。化粧だって出来ていない。それでも、私は常に移動しなければならないとそう思った。
動きを止めると死ぬマグロのように、街を回遊しなければならないと思った。
コンビニでシャケおにぎりを買って駅までの道中で食べた。梱包されていたフィルムはゴミ袋にまとめ、鞄の中に押し込んだ。
電車の中は酷く混み合っていた。軋むレールと動き続ける車窓の風景が気持ち悪かった。駅について、車両から放出される人波に乗って、私も歩き出した。
電光掲示板。改札機。人。自動販売機。人。くだらない広告。全てが癪に触った。それなのに、いつもよりも周囲に目を向ける自分に気がついた。見ると苛立つはずなのに、まるで、自分から苛立つものを探すかのように、私は周囲に目を光らせた。
横断歩道の途中に中身の入ったペットボトルが落ちていた。誰もが無視をして、過ぎ去っていく乗用車は面倒臭そうに避けて通っていた。
信号が変わって、私はそのペットボトルを拾い、鞄の中に押し込んだ。誰のものかわからないものを拾うのは気分が悪かったが、誰かに許してもらいたいという気持ちがそうさせた。
自分の中にまだ理性が残っているのかと驚いた。そもそも、人を殺すことがペットボトルを拾う程度で帳消しになるとは思えない。
ロペを傷つけたあいつらを殺すことが正しいと思う気持ちと人を殺すことが悪いことだと思う気持ちとが、何度もサイクルしていた。
その時々で、自分の感情が切り替わり、思考そのものが入れ替わっていく。
その中途半端さに酔いに似た気分の悪さを感じたが、昨日の経験を反芻すると、すっと頭が冷えた。「大丈夫だ。私は大丈夫。」
これからも殺すことができる。
途中でやめるなんて、私にはできない。
倫理観が消えていく。絶対的な自信が、胸の奥から湧いてくる。鞄の中からペットボトルを取り出した。誰かに許してもらいたくて拾ったゴミ。
私は人混みの中に勢いよくペットボトルを投げ込んだ。アスファルトの上を跳ね、スーツ姿の連中の足を潜り飛んでいくペットボトルは、あるべきところに落ち着いた。数人が非難を送るような目で私を見た。
どうでもいい。
誰にどう思われようが、どうでもいい。
ついさっきまでの償いじみた行為が滑稽に思えた。情けなく思えた。気持ち悪く思えた。
私は何も恥ずべきことなどしていない。
ロペを、大切な人間を殺した人間を、憎しみに塗れて殺しただけだ。
間違ってない。
私は、間違ってない。
街の喧騒は私を置いて、やけに速いスピードで流れて、消えることなく繰り返されていった。


ターゲットは自宅から出てこない。
住宅地には煌々と光る自販機の柔らかな青白い光だけが漏れ出すようにしてあった。霧のような雨がその光を吸収し、不思議に乱反射していた。
私は苛立った。
ターゲットの居場所はわかるのに。
殺したい人間が目の前にいるのに、手を出せない現状が歯痒かった。
私は運転席で煙草を吸った。何度もむせた。
今朝から吸い始めた紫の煙は、私の体には馴染まない。何故、急に喫煙を始めたのかはわからない。
慣れないのは銘柄が悪いのかと10個の銘柄をそれぞれ購入した。不気味なものを見るようにコンビニの店員が私を見ていたが、そんなことはどうだって良かった。
全ての銘柄を試してみて、その全てで激しく咽せた。涙でじんわりと熱くなる眼球と歪む視界の中で、煙草は私には向いてないと判断した。
カーウィンドウを開けて、一本づつ吸った煙草の箱を全て道路に投げ捨てた。雨で箱が濡れて、形を変えていく煙草をじっと見ていた。
痺れが切れた。
私はターゲットの住む家の窓に思い切り石を投げ込んだ。閑静な住宅街に鳴り響くガラスの砕ける音。一瞬の音だったが、私の鼓膜には何度も何度も繰り返されるように、音が鳴っていた。
誰かに見られるかもしれない。
そんな懸念もどうでもいいくらいに感情に浮かされた。熱病のようなその不確かな感情は、理性なんてものを一瞬で覆い尽くしてしまい、私を硝子粉砕者へと仕立て上げた。
鋭利で不規則な穴の空いたガラス窓に人影が現れた。痩せ型の男だった。男は私を見るや否や、「何考えてんだキチガイ」と叫んだ。当然だ。自宅に石を投げ込んでくる女に対しての評として、これ以上の言葉はあるまい。
私は黙ったまま、笑みを浮かべた。暗闇の中、男にその表情が届いたのかはわからないが、いや、事実届いたのだろう。男は憤怒の形相でこちらに向かってきた。
足をガラスで傷つけるだろうに、裸足で私の元までやってきて、襟元を掴みかかってきた。
「なんの怨みがあって、こんな真似するんだ」
声高に叫んだ言葉も私には水中の言葉のようにくぐもって聴こえた。
なんの怨みだ?
ロペの怨みに決まってんだろ、タコスケ。
私は左手に持っていたスタンガンのスイッチを押し込んだ。ばちん、という炸裂音と、蛋白質の焦げる厭な臭いがした。潰された蛙の死体のように、男の全身が仰反る。
スタンガンの電力もなかなか馬鹿にならない。気絶させるほどの威力はないが、それでも大の男を痙攣させ、頽れさせるほどの電力があった。
ネットの情報では、「ドラマとかでスタンガンで気絶するシーンあるけど、あんなものは嘘w」なんて匿名の投稿が散見したが、やってみればこんなものだ。
この男が電力に弱かったのか、手に持つスタンガンが強力なものだったのか、そんなことはどうでもよかった。続けて、首筋にスタンガンを押しつけ、再度スイッチを押し込む。
二度目のばちん、という音で男は完全に伸びきってしまった。
「別に一回で気絶させる必要なんてないもの」
倒れ込んだ男の腕を背面でタイラップで括り付けた。男の左右の小指同士をタイラップの白い圧力できりきりと締め上げる。
N-BOXの後部座席に慣れたように男を詰め込んだ。喧騒で住宅地からの視線を感じた。まだ、周囲の人間には何が起きたのかは理解できないだろう。
それでも、これ以上この場に留まるのはマズいということは理解できた。何気ない様子でアクセルを踏み込み、住宅街を後にした。


自分の残虐性に、生まれてしまった悪性に気付いてしまった人間は、そこから先の人生をどう生きればいいのだろうか。
次第に慣れてきた煙草をふかした。
喉の痛みに目が潤む。
ただ、その防衛反応が適切に稼働していることに、私自身がまだ壊れていないことがわかって安心した。いや、壊れてしまっていた方が良かったのかもしれない。
目の前で肉塊と化した男の死骸を見下ろして、そう思った。
思いの外、返り血を浴びてしまった。
刃物はもう使いたくない。
握った果物ナイフの柄は血と脂で滑った。
男は最期まで喚いていた。目の奥、鼓膜のある辺りに男の喘ぎが残り続けている。
そこに、不快さ以外のものを感じない私は、正真正銘の怪物なのだろう。
もう迷うことはない。
一度目の殺人の時のように、後悔を覚えることなどない。自分の覚悟が揺らぐことなどない。
自分には際立った才能があるとは思えなかったが、どうやら私には誰かを憎むという才能があったのだろう。
憎悪、復讐という悪性。
全てを破壊するまで止まらないという蛇のような悪意。
誰も私を止めることはできない。
金剛石と同じ硬度の意志で、私の殺意は実行される。
許さない。
許されないから。
「全員、ぶっ殺してやるから待ってろよ」
血に溺れた眼前の肉塊にポリタンクから灯油をかける。どうせなら、生きたまま焼いた方が良かった。止めを差してしまったことに後悔が浮かぶ。
まだ火のついたタバコの吸殻を肉塊に向けて投げた。
火花と一緒に勢いよく肉塊が炎上し、夜のしじまをオレンジ色の炎が乱した。暗闇は黒というよりも濃い紫に近い。紫色の空を立ち昇る炎が舐める。
鎌首をもたげる蛇のようだ。
蛇は私の瞳を渇かして、夜を蹂躙する。
光源に集まってきた羽虫どもを焼き切った。零れた炎が重力に則って、降る。
全てを燃やし尽くせ。
この世界を、成り立たなくしてしまえ。
人が燃える様は幻想的ですらあった。
そんな光景を幻想的と思えるのは、怪物の瞳を通してのみなのかもしれないが、私にはもうどうでもいいことだ。
わからないことに意味などない。
もう吸うこともないだろうから、炎上する屍にタバコを箱ごと投げ込んだ。


身体の節々が痛んだ。
車のシートに座り、夕陽の光に目を細めた。オレンジを背負って、烏だけが悠然と空を支配していた。
今日もまた人を殺すために会社を休んだ。
路駐した車の中でひたすらに時間の経過を待った。漫然とラジオを聴いた。
現れたのは主婦だった。
暇を持て余した主婦。
《なぎさ》というハンドルネームからは、人の悪口しか飛び出してなかった。何が彼女を熱くさせるのか。他人を貶すことに何故そこまで意義を見出せるのか。そんなことの理由は知らないし、理解もしたくないことだ。
私に理解できることは、この年増の小金持ちの女が可愛いロペを殺したということだけだ。
だから殺す。
姿を見せた《なぎさ》を低速の車両で撥ねた。低速ながらも鉄の塊に弾け飛ばされた肉の塊は数度、アスファルトにバウンドして動かなくなった。
死んではない筈だが、不安になった。
殴り殺したかったから、こんなことで死んでもらっては困る。
《なぎさ》を後部座席に詰め込んだ。
抵抗はしないだろうと、拘束はしなかった。
どれくらい走らせた頃だろうか。
《なぎさ》が目を覚ました。
車中で私を詰った。
ただの轢き逃げだと思ったらしく、ごちゃごちゃとうるさかったので、ロペの名前を出した。
思い当たることがあったのだろう、ロペの件で拉致されたことに気づき、ロペの悪口を言い始めた。
私の鼓膜を薄汚い声が揺らした。
私のイコンたるロペを穢す言葉に我慢が出来なくなった。
路肩に停めて、《なぎさ》を引き摺り出した。ガードレールの断面に思い切り額をぶつけてやった。薄い皮膜が破れ、派手に出血した。悲鳴を上げる《なぎさ》を繰り返しガードレールに押しつけた。
額が深く抉れた《なぎさ》はやっと静かになり、それから苦しそうに呻いた。
ガードレールに首を置いて、思い切り頭部に金属バットを振り下ろした。
「ごぎゃ」という音と、ガードレールで首が切れ、流血する音がした。続けて頭部にバッドを振り下ろす。再び頭蓋の砕ける音と、さらに深く首が切れる音。
ギロチンの動きのような金属バットの軌道でガードレールに接した首が抉れた。千切れるまでバットを振るおうとしたが、13回目で頭部がなくなってしまった。首が落ちるよりも前に頭部が擦り切れてなくなってしまった。
こびりつく。
音が。
人の壊れる音が、鼓膜にこびりつく。
それは、タールのように粘度が高く、積み重なるようにして、私の鼓膜に残り続けた。
その感覚はあまりにも不快で、やめてしまいたくなるけれど、私はロペが大好きだから笑ってみせた。
笑って、笑って、笑って。
そうすればもう、こびりついた音は笑い声の中で霧散してしまう。
私は笑った。
笑い続けるしか、この狂った情動を抑えられない。
どこまでも私の笑い声は響いていく。
世界に、私の怒りを響かせるのだ。
どこまでも、どこまでも。


それからも私は殺人を繰り返した。
噎せ返るほどの血を浴びて、戦国時代の武者のように人を殺した。
羅刹として、世界を闊歩した。
金属バットには毛髪やら肉片やらがこびりついて臭った。べこべこに凹んだ金属塊は死臭を撒き散らしていたが、そんなことはどうでもよかった。
凶器はこうあるべきだと、冷蔵庫の横に放置していた。
私の殺人は次第に世間を騒がせ始めた。
被害者の関連に、徐々にロペの姿が浮かび上がり始めたのだ。
《被害者はみな、自殺したアイドルを誹謗中傷していた》
そんなミッシングリングに世間が気づき始めた。
犯人像(私)には、熱狂的なロペのファンが挙げられた。正解だ。
私のプロファイリングが進もうが、私の為すべきことは変わらない。
復讐だ。
復讐を為すだけだ。
キッチンで煮込んでいたトマトスープが沸騰によって吹きこぼれる音がする。慌てて立ち上がり、火力を弱める。上がってきた水位が鍋の縁で焦され、混ざった果肉の繊維がへばりついていた。熱され、乾いた繊維は黄色がかり、鍋に刻印されたように静かだった。
お玉を使って鍋の底を探る。幸い、焦げ付いてはいないようだ。粉末のコンソメを匙で掬い、均等に鍋に振りかける。
香りが変わる。酸味の強い刺すような湯気が薄く、丸くなった。
再び、蓋をして、弱火のまま鍋を離れる。
ソファに座る。経年の劣化により、摩耗したフェルトを撫でた。
メッセンジャーの音が鳴る。
ロペのファン友達からの連絡だった。
メッセンジャーには簡潔に「話がある」とだけ示されていた。
悪い予感がした。
私の悪い予感は当たる。
会いに行けば、『決定的な何か』が起こることが理解できた。
「いつものとこで待ってる」
続け様にメッセージが飛び込んでくる。『いつものとこ』とは、私と彼女が毎度、合流するファミレスのことだろう。
ロペのライブ終わりなどに、お互いの最寄駅から同じ距離くらいのアクセスの良いファミレスで何度も語り合いを繰り広げた。思い出の場所だが、ロペの死んだ今、あの場所は落ち着かない場所になってしまった。ロペの不在が浮き彫りになる、ロペの死を顕著に感じる喪失の場所となった。
気乗りはしないが、無理やり身体を動かしてシャワーを浴びた。時間が多少余ったが、化粧をする気分になれずそのままぼんやりと教育テレビを観た。吉田兼好徒然草に関する番組だった。結構、面白く観れた。時間になったので家を出た。
駅までの道を歩く傍ら、こういう時にちょうどいいなと、残っていた煙草に火をつけた。案の定、咽せたが、それでも先日よりは幾分か慣れた。
駅のホームには人がまばらだった。
元々、人の少ない駅であることに加えて、休日の中途半端な時間に外出する人間も少ない。皆、退屈そうにスマホを弄っている。
鳩の方がよっぽど、人生を謳歌している。足元にぞろぞろと群れる鳩を一瞥した。深夜に酔っ払いが粗相したのであろう吐瀉物を嘴で突いている。
乾き切った吐瀉物を見て、人間から飛び出すものは全て、汚らしいものだと実感した。血も脳漿も、体液も、言葉ですらおぞましい。人間なんて、汚物で固められた存在なんだと実感できる。
裂くような甲高い音を鳴らし、電車がやってきた。寸分の狂いもなく、ドアが目の前に止まる。気持ちの悪いことだ。どうしたって理不尽な世界において、機械的に精巧な動作というものは不気味でしかない。
待ち合わせの駅のホームに美里の姿を確認した。彼女は缶コーヒーをラッコのように両手で持っていた。セーターの裾を余らせて、缶を包み込むようにしていた。
隙が多いなと思った。いや、むしろ、隙を多く作っているのだ。彼女の外見で、ここまで隙を作れば、男の方がどんどんと寄ってくる。そういうことを理解してやっているところが、彼女にはある。そういう態度が私は嫌いではなかった。流石に好きとは言えないが、意図された姿勢に私は努力を感じるし、それは武器として見える。
「美里」
私の声で彼女は振り向いた。
私をみて少し戸惑う仕草を見せる。
「やつれたね」
私の顔をじろじろと眺めて美里はそう評する。スマホのカメラを起動し、内カメラにして自分の顔を映す。なるほど、鏡をじっくりと見る機会がなく、気づかなかったが、私の顔は生気がなく酷くくたびれたものだった。クマは肌に切れ込みを入れたように深く、黒く濁っていた。頬も痩け、唇の色も薄まり、乾燥が目立つ。
「あー、言われてみればそうかも」
だからと言って、そんなことはもはやどうでも良かった。私が美容に気を使うのはロペと会うためだけであって、小綺麗な姿を見せる相手はもういない。
皮膚が剥がれていようが、火傷でどろどろになっていようが、特段問題はない。
「ちゃんとご飯とか食べてる?大丈夫?」
美里は私を心配するようにそう言った。
彼女の歯列矯正のフレームが、口元で光る。
「そんなに目立つかな」
「うん。酷いよ、あんた」
美里は何か言葉を飲み込んだように見えた。なんとなく何を言おうとしたのかわかる。
幽霊みたい。
そのようなことを言おうとしたのだろう。私に対する気遣いと、ロペが死んだことと併せて彼女はその言葉を飲み込んだのだろう。
そうだよ。私、幽霊なんだよ。
怨念だけでこの世界を徘徊する幽霊なんだよ。
生者と交わることができない異物なんだ。
「ファミレス、いこっか」
美里はそう促した。私は肯き、彼女の後に続いた。ロペが生きていた頃はこうして何度も彼女と歩いた。新曲の感想やライブでの彼女の輝きについて熱く語り合った。
なんでもない雑踏。塵と空気で色の変わったアスファルト。生気のない街路樹の緑。
彼女とロペの話をしながら歩く道はそんな灰色な道程でも鮮やかだった。水彩画の色彩だった。
だけど、道は変わった。
水彩の魔法は溶け、砂が舞うようにセピアだった。
「最近、またロペのニュース見るね」
「話題になってるね」
私の殺人が世の中を騒がして、面白がっているメディアが何度もロペの姿をワイドショーに流す。
ロペのライブの姿。自撮り。メンバーとの戯れの動画。
生前のロペの姿が映され、私は気分が悪くなっていた。テレビの液晶を叩き割りたくもなっていた。
もうロペはこの世にいないのに。
未来のロペは見られないのに、過去のロペの姿だけが私の目の中に何重にも何重にも折り重なる。折り重なりミルフィーユ状になったロペの断面が今日も私を苛む。
「藍。あのさ、あんた」
「ん?」
美里が何かを言おうと私の顔を見た。思い詰めたような表情だ。私は彼女の目を逸らさずに見つめた。彼女の目の奥、脳を通過してその先の景色を見るようにして見つめた。
「ごめん、やっぱいい」
口籠るようにして美里は黙る。
「うん」
それ以上、何も言わずにファミレスまでの道を歩いた。ファミレスは夕飯時にもかかわらず、空いていた。
ここのファミレスはいつも空いている。国道沿いにあるにもかかわらずだ。味が特段悪いわけでも接客が悪いわけでもない。
理由がないが、繁盛しない店というものも存在する。
ウエイトレスは私たちをボックス席に案内する。私はハンバーグのセットとドリンクバーを、美里はオムライスとドリンクバーをそれぞれ注文した。飲み物を取りに行こうと席を立つが、美里がそれを制した。
「いいよ、私がとってくる」
「あ、うん。ありがと」
「メロンソーダだよね」
「うん」
私がいつも飲むメロンソーダと氷をグラスに注ぎ、自分はアイスティーを注いで、美里がテーブルに戻ってくる。彼女は氷を使わない。極端に冷たいものが好きではないからとのことだ。
「ありがと」
メロンソーダを口に含む。作られた人工甘味料の味が広がる。
美里はアイスティーを飲みながら、私にロペ関連の殺人事件のニュースを見せてきた。
「毎日のように被害者が出てきて、誹謗中傷した連中の中には直接警察に助けを求めてる奴もいるらしいよ」
グラスの中のストローを甘噛みして、美里は薄ら笑いを浮かべた。
「実際、この件で誹謗中傷に対する法律が厳しくなるって。まあ、誹謗中傷の結果、殺されちゃうこともあるって知ったら、誰もやろうとは思わないだろうけど」
それはその通りだろう。
誹謗中傷は、あくまでも自分が安全なところから行われる。安全圏から、同調圧力、偏った正義の名の下に陰湿な刃を飛ばす。そこには実感はない。実感もなくただの悪意を人に向けて刺す。
その悪意に対して私のような怪物からの襲撃の可能性が生まれるのであれば、普通の人間なら躊躇いが生まれる。
それでもやるような人間は底抜けの馬鹿か狂人だ。
「この殺人を称賛する声もあるんだよ。誹謗中傷で大切な人を亡くした人や、辛い思いをした人達なんかは、この行為を天誅みたいに扱ったり」
私は称賛されたい訳では決してない。
これから先、誹謗中傷を減らそうという大層な理想もない。
私はただロペの為だけにバットを振るう。
そこに正義なんてない。
私にできる最善の行為が、この行為だった。ただそれだけのことだ。
最も、誹謗中傷がなくなるなんて、私はこれっぽっちも思ってない。
今、数が減ろうが、時間が経てば私の殺人は風化して、忘れられていく。ロペの死と同じで、消えてしまう。
そうすれば、いつの間にかゴキブリみたいに誹謗中傷もうじゃうじゃと数を増やしていく。何もなかったように。
そういう繰り返しで私たちの世界はおぞましく周っているんだ。
「私はどうかと思うけどね。こんな殺人、ロペは望んでないと思う」
「ロペは嬉しいと思うよ」
すらすらと続く美里の言葉に、思わず口を挟んだ。美里は驚いたように顔を上げた。
「嬉しい?本気で思ってんの?」
美里が声を荒げる。苛立っているように見える。
「当たり前でしょ」
そんなの当たり前だ。喜ばないわけがない。ロペのためにした殺人を、彼女が喜ばないわけがない。
「自分にあんな酷いこと言って、どんどん追い込んできて、何一つ知らない連中から悪意ぶつけられて何にもできないで辛くて苦しんだロペが、喜ばないわけないじゃん」
死ぬことしかできなかったロペが、奴らを恨んでいない訳がない。できることなら、奴らを全員ぶち殺したかったに決まっている。でも、ロペには出来ないはずだ。
優しくて弱いロペにはできない。
こんなことができるのは、怪物になってしまった私にしかできないんだ。
「そんな訳ないじゃん。ロペがそんなこと思う訳ないじゃん」
「思うよ。ぶっ殺して欲しいって、あいつら勝手なこと言って、あいつら全員ぶっ殺してよって思ってるに決まってんじゃん」
「は?あんたマジで言ってんの?ロペがそんなこと思うって、ほんと、正気で言ってんの?」
「美里はなんもわかってないね。ロペのことなんもわかってない。ロペなら思うよそんなの当然」
「わかってないのあんたの方でしょ。私の大好きなロペを穢すな!黙れ」
「穢す?私が?私がロペを?ふざけんな私のどこがロペを穢してるんだ、ロペのことしか考えてない私のどこがロペのこと穢してるって言うんだ」
「だってそうじゃん、ロペ、こんな殺人、喜ぶ訳ないじゃん。あんたが何を信じて、何を感じて、何を思ったか知らないけど、私の知ってるロペはそんなことしない。そんなこと思わない」
「死ぬまで追い詰められてる人間がさ、そいつら憎まないとでも思ってんの?ロペのことなんだと思ってんの?ねえ?鉄でできてるとでも思ってんの?馬鹿じゃん、はあ?ふざけんなよマジ。なんもわかってないの美里だよ、あんたなんかに好かれてロペ迷惑だよ。理解されてないって辛いだけ」
「ふざけんなよてめえ」
美里が私の頬を張った。私も怯えず美里の頬を張る。渇いた音が店内に数度響く。
いつからか上がり始めた私たちのボルテージに、他の客が興味津々といった表情で私たちのテーブルを見つめる。
お互いを睨みつけ、息を切らして私たちはテーブルに身を乗り出していた。
ウエイトレスが空気を読まずにハンバーグとオムライスを持ってテーブルに並べた。しずしずと「あの、えと、お静かにお願いします」とだけ言ってキッチンへと引っ込んでいった。
大きく息をついて、椅子に深く腰を下ろした。気怠さに襲われる。食事をする気分ではなかったが、ここから早く立ち去るためにハンバーグを片付けてしまいたかった。
「あんたでしょ」
美里は断言するように私に言った。
ファミレスのハンバーグが鉄板で焼ける音だけが響いていた。
「ねえ、あれ、あんたでしょ」
なおも美里は続ける。
私は取り立てて狼狽することもなく、ナイフとフォークでハンバーグを切り分けた。
「そうだよ。私がやってる」
ハンバーグを口に運び、なんでもないように私は言った。美里が息を呑むのがわかった。
「信じらんない」
美里の言葉を無視してハンバーグを咀嚼する。肉汁がやけに野性的な風味で気持ちが悪かった。
氷を入れていない美里のアイスティーは薄まることなく色を保ったままだ。
「なんでわかったの?」
私を睨む美里にそう尋ねてみた。純粋に不思議だった。捕まりたくない気持ちがないわけではなく、気を遣っていたわけではないが、少なくとも、証拠になりそうなものは現場には何ひとつ残していない。
私だと断言されることに、理由がない。
「あんたが一番ロペを信奉していたから」
「信奉?」
「信奉だよ。推しとかその次元じゃなくて、狂信的だったもん。ロペのこと、神様かなんかだと思ってたでしょ、あんた」
神様。
ロペは神様。
美里の言葉が私の中で浮かんで離れない。
私の中での神様の姿ってのは、イエス・キリストみたいなああいう西洋風のローブみたいな布を着たトゲトゲを頭に巻いた長髪の男性で、フリフリふわふわな衣装を着た可愛いロペでは決してない。
それでも、『ロペ=神様』って定義には幾分か納得がいくところがある。
私にとって、ロペは『推し』。大切な存在ではあるけれど、それをうまく説明することはできない。
ロペがどれくらい大切だったのか。優先順位をつけて考えてみる。
家族はどうだろうか。
家族とはそこまで仲がいい訳でもなく、勿論、憎いとかそういう極端なマイナスな心情がある訳でもない。血の繋がった私という人間と世界を繋げる存在。そういうものだ。
けれど、ロペと比べると、私の中ではその順位は下になってしまうのだ。
友人。同僚。仕事。お金。人生。恋人。
次々と頭に浮かぶ対ロペの挑戦者達はばたばたとノックアウトされていく。
そうして、最後に思い浮かんだ『世界』って概念。そいつをロペは右ストレートで可愛く沈めた。
ああ、そうか。
私、この世界にロペより大切なもの存在しないんだ。ロペのいない世界なんか、存在しないことと一緒なんだ。
じゃあ、なんだ、ロペって神様じゃん。
「美里はさ、あいつら殺したいとか思わないの?」
「思うよ!憎いもん!ロペのことなんも知らないのに、面白がって酷いこと言って」
「じゃあ、私と同じじゃない」
「全然違う!私はいくら憎くても、殺したい相手でも、本当に殺したりなんかしない」
なんでなんだろう。
美里は私と同じくらいロペのことを大切に思っているはずだし、ロペのためにあいつらを殺すことも厭わない筈だ。
なのに、どうして、こんな反応なんだろう。
「人殺し」
美里は私を詰った。
冷たくそう評した。
だけど、私の心には少しも傷が付かなかった。
私は人殺しだ。そんなことはわかっている。そうなるとわかっていて、それを成したのだから。
「私をおかしいと思う?」
私の質問に美里は目を見開いた。醜悪な生き物を見るように目を逸らそうとする動きを見た。
「異常だよ」
美里の答えは決まりきっていた。彼女の中の規範に照らし合わせて、私がそのボーダーを如何にはみ出したのか。その一点のみを評価としていた。
「私からしたらおかしいのはあんたたちの方だよ」
つまらなかった。
つまらないと同時に幻滅が産まれた。
別に理解されたい訳ではなかった。私は私の思う正義を追求して、彼女は彼女の規範に沿ってそれを否定した。
何も不思議なことではない。
そうなることが当然の結果だった。
それでも、ロペを好きな彼女、いわば同族の人間が、私の正義を須く否定するのは些かの寂しさがあった。
「ロペ死んだんだよ。殺されたんだよ。アイツらに。復讐するのがファンの在り方でしょ」
私の言葉は止まらない。
間違ったことをしている。その自覚は常に胸の内にある。それでも、抑えきれない力がそれを食い破ろうと歯を立てるのだ。
抉られ、血を流すその規範は、もはや機能しない。機能しないまま、私の中の牙持つ獣は、復讐に走る。
「どうするの?」
美里は私から目を逸らしていた。悍しい物を視界に入れたくないとばかりに、目線を下げていた。緊張からか、ストローの入っていた紙をグシャグシャにした残骸をじっと見つめていた。
「殺すよ。殺す。全員殺す。殺し尽くす。納得なんていかない。全員が全員、死ななければならない。それはもう決まったことだ。それを成すのは私だ」
「私、警察に言うからね」
美里は決定的なカードのようにスマホをチラつかせた。私の心はさらに冷え切っていく。ハンバーグを載せた鉄板からも音が消えた。
「言えばいいよ。信じてもらえるか知らないけど」
「それでも、あんたは動き辛くなる筈でしょう」
美里の手が震えていることに気が付いたが、それでも、なお、彼女の目には私への非難と軽蔑がありありと浮かんでいた。
「いいよ。捕まるまでにできるだけ多く殺してやるから。捕まっても、何年、何十年かかってもあいつら全員ぶっ殺してやるから。死刑になったって、知ったこっちゃない。幽霊になって、生まれ変わって、呪いとなって、あらゆる手段でぶっ殺してやるんだ」
私は呪詛を吐いた。
悪意の塊を、感情の行方を、目の前の美里に向けて吐き出した。
「推しを殺されて、殺し返さないお前らのあり方が私には信じられないんだよ」
目の前のハンバーグにナイフを突き立てた。肉汁が飛び散り、私の服を汚す。美里はスマホを落とした。
もう、彼女と話すことはない。テーブルの上に千円札を二枚叩きつけて席を立った。隣のテーブルの会社員が好奇の目でこちらを見つめていたので、睨みつけた。飛び蹴りを喰らわせてやりたかった。
ファミレスの自動ドアを潜ると、すっかり夜になっていた。


最初は私から声をかけた。
その時、ロペはまだロペという名前を持ってなくて、高崎美月という名前のただの女子高生だった。
高崎美月は放課後の教室で一人で机に向かっていた。誰もいない教室で、彼女は雑誌をやけに姿勢良く眺めていた。
部活途中に、忘れ物に気付いて教室に戻った私は、その時初めて高崎美月という女に気がついた。気がついたというのは、何もその瞬間、その空間に彼女がいるということに気付いたという意味ではない。クラスメイトとして、高崎美月という女を初めて認識したということだ。
それほどまでに高崎美月は平凡だった。
関わりのなかった存在。高崎美月は教室に入ってきた私に驚いた表情を見せて、それから恥ずかしそうに雑誌を机の引き出しにしまった。ちらりと見えたその雑誌は男性向けのアイドル誌のようだった。肌色の割合の多い女が表紙だった。
「ごめん、邪魔したね」
私は軽く高崎美月に声をかけ、それから自分の席から忘れ物の現国の課題を取り出した。
「ううん、別に。大丈夫」
高崎美月は私と目を合わせようとはせずに、教室の奥、時計の方を見てそう言った。風が吹いて、彼女の長い髪が舞い上がった。切れ長の目の下にホクロが見えた。それが、黒い星のようで綺麗だった。
高崎美月はそれ以上、私と話そうとはせず押し黙っていた。目線は机に落とし、居心地の悪そうに身動ぎせず座っていた。
「アイドル好きなの?」
単純に好奇で尋ねた言葉だったが、高崎美月は必要以上に動揺していた。肩がびくっと跳ね上がり、おずおずと私を見つめていた。そんな反応が返ってくるとは思ってもなくて、私の方も少し狼狽した。
「や、ごめん。単に興味で」
私は言い訳をして、その場から立ち去ろうとした。高崎美月は小さく「うん」と頷いて、「可愛い人、好きだから」と消え入りそうに呟いた。
「そっか」
私は逃げるようにして教室を出ようとした。
「村山さん、バレー、頑張ってね」
高崎美月はそう言って、再び、机から雑誌を取り出した。風がカーテンを揺らした。部活動の声が大きく響いた。
廊下を歩きながら、私は高崎美月のことを思い返した。目立たない存在。外見は可愛らしいが人見知りが激しく、大人しいので、特に親しい友達はいない。今日まで会話らしい会話なんかしたこともなかった。私は彼女のことを知らない。なのに、彼女は私の部活のことまで知っていた。
部活に戻ると、既に顧問がいて、「時間にルーズなのはダメだ」と怒られた。どの口が言うのかと理不尽に思った。
その後も、進級してクラスが変わるまで私と高崎美月が会話をすることはなかった。私と彼女、お互いに生きる場所が違う。
それでいいと思った。
私は彼女のことをその時から一度だって思い出すこともなかったし、仲良くなろうとも思わなかった。
だから、就職を機に暮らし始めたこの街で彼女の姿を見た瞬間は、本当に驚いた。
会社近くのCD屋で、その日、特別ライブが開催されていた。別段、興味もなく、人混みが煩わしいだけだった。
安っぽいスポットライトに照らされて踊るロペを見て、私は本能的に高崎美月を思い出した。外見はもちろん、立ち振る舞いも全然変わっていたのに、ロペが高崎美月であることが本能的にわかってしまった。
その瞬間まで、彼女のことなど、一切記憶の中になかったのに、ロペを見た瞬間、あの日の教室の光景がフラッシュバックした。
夢を。
夢を叶えたんだ。
オタクの前に立ち、激しく踊り、歌う彼女の姿を見てそう思った。
高崎美月からアイドルになりたいと聞いたわけじゃない。
会話もろくにしたことがない。
あの瞬間、彼女がアイドル雑誌を読んでいた。その事実から推し量っただけのものだが、確信に近い自信があった。
嬉しかった。
彼女がアイドルになっていたこと、私が彼女のことを覚えていたこと、この広い世界で夢を叶えた彼女をもう一度、見られたこと。
湧き上がる名前を知らない感情のままに、彼女のグループを検索した。お手製のパネルに記載されていたグループ名はGoogleで簡単にヒットして、メンバー情報の中にロペの名前があった。本名は当然、記載されていなかったが、彼女がロペだとすぐにわかった。
プロフィールは薄い、簡素な文字列だったが、それでも不思議と煌めいて見えた。
アイドルなんか別段、興味もなかった。
音楽ですら、適当に人気の曲を追う程度の嗜好だった。
それなのに、私は、ロペの姿に完全に魅了されてしまった。
単調なダンスミュージック。スカスカな音圧。お世辞にも上手いとは言えないダンスと歌。それでも、彼女は輝いていた。
そこにいるということ、ただそれだけが美しく世界を彩っていた。
涙が出た。
尊いものを見たと思った。
並々ならぬ努力があったんだろう。
悔しい評価があったんだろう。
だけど、彼女はそんな泥を押し除けて、ひとつの成果を出して、そこにいた。
下手くそな歌を歌い、下手くそなダンスを踊る彼女を前に私は立ち尽くし、称賛を送り続けた。


ロペのことを追いかけ始めたのはそれからのことだった。
ホームページを逐一チェックし、ライブやイベントの日程を確認し、近場のものには全て参加した。
ただ、どうしても、直接彼女と話す機会だけは躊躇ってしまった。
覚えてもらえているだろうか。
そもそも、ロペは高崎美月なのだろうか。
ブラックボックスを開けることが躊躇われていた。それでも、ファン心理には勝てず、遂に私は握手会に参加することにした。
初めての握手会の時、私の心臓は跳ね上がらんばかりに鼓動していた。ロペが、高崎美月が私のことを覚えてくれているのか、いや、そんな表面的な感情ではなかった。私だけが知ってる、ロペという偶像の過去。それを事実として、存在させたかった。
薄暗いライブハウス、汗の臭いの充満した息苦しい空間の中、私は並んでいた。他のオタクと変わらず、ロペと触れ合うことを目的として、列をなしていた。
私の順番がきて、ロペが目の前にいた。
私から話すことなどできなかった。
ただ、彼女の顔をすっと見つめた。
かつての教室での姿も、はっきりとは思い出せない。断片的に、薄く滲んだ水彩画のような記憶の中の彼女の姿。薄暗いライブハウスの中、その輪郭と現実の彼女の顔とが一致していった。
「わあ、女の子だ。嬉しい」
ロペは作り込んだ高い声で言った。
私の掌を強く握りしめ、私の顔を覗き込んで、柔らかな声でそう言った。ロペの体温が私の手の中にある。
営業用の態度だとわかったが、それこそが、彼女の努力の証なのだと思った。ファンであるならどんな人間にだって、天使として振る舞う。アイドルとしての形が、ロペとしての形が、高崎美月の中には形成されていた。
「あ、ごめんね。女の子のファンってすごい珍しいから、いきなり距離詰めちゃった」
「いや、逆に嬉しい…」
私の声は上擦っていた。やはり、彼女は私のことを覚えてはいなかった。残念だったが、それよりも彼女との会話に浮かされていた。
「背、高いね。モデルさんみたいですごい羨ましいよ」
見上げるように、再度、私の顔を見る。目が合う。綺麗なアーモンド型の眼は、薄茶色で吸い込まれそうだった。その目の下には、小さな黒い星が瞬いていた。
「バスケ部?バレー部?」
「あ、えと、バレー部…。高校の時だけだけど」
「あ、やっぱり!バレー部かあ」
ロペはくしゃりと笑顔になった。それから、少し考え込むように黙って、私の顔をもう一度じっと見た。
彼女の笑顔が張りついた。崩れるように、頬が震える。
「む、村山さん…?」
ロペの声は上擦っていた。さっきまでの営業用の天使の声ではなく、等身大の女の子の声だった。
「え、嘘、なんで?え?」
積み木が崩れ落ちたことに動揺する幼児のように、彼女は乱れた。彼女の前に立った後悔など、消えてなくなっていた。私のことを覚えていたこと、やはり、ロペは高崎美月であったこと、それら全てが喜びとして私の身体に降り注いだ。
「ファンになっちゃった」
私はそれだけ告げた。
動揺するロペの目が私に定まる。潤んでいた目が私を焦点に捉える。
「本当?」
消え入りそうな声だった。私にすがるような声だった。
自分の過去を知る人間の来訪に、彼女は怯えたのだろう。当然だと思う。
「本当だよ」
私の言葉の真偽を確かめるように投げかけられた言葉に、私は確かに本心で答えた。
本当だよ、ロペ。
私、あんたのファンになっちゃった。
噛み締めるように私の言葉を反芻して、ロペはぎこちなく笑った。
表情には不安が浮かびながらも、その笑顔は美しかった。慣れてしまったアイドルの笑顔ではなく、等身大の高崎美月の笑顔だった。私たちの背後で、スタッフの「お時間です」という声が遠く聞こえた。


駅前の喫茶店キャスケット帽を目深に被りながら、ロペはアイスココアを飲んでいた。私の姿を窺いながら、ストローの先を甘噛みしつつ、薄灰色に濁るココアを吸っていた。
CMみたいにコップの氷が、からんと鳴った。
「本当に信じられない。村山さんが、ライブにいるなんて、ってか、その、私のファンになってくれたとか…。え、うん、ドッキリとかだったりする?」
ロペは辺りをキョロキョロと見回す。カメラでも探しているのだろうか。
「違うよ、現実」
私はホットコーヒーを口にする。白い陶製のマグが、中身に熱されて、発熱した人肌程度にぬるい。
「偶然、CD屋でライブイベント見たんだ。雰囲気変わってたけど、なんとなく高崎さんってわかって、目で追ってるうちに」
「驚いた。誰にもアイドルになったこと言ってないのに。あー、まあ、元々話す友達もいなかったんだけど」
握手会の後、私に気づいたロペは別れ際に耳元でこの喫茶店の名前を挙げた。それから泣きそうな顔で「待ってて」と付け加えた。
喜びに満たされながらも、私は平静を装い会場を後にした。ロペに提示された喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文し、ロペのTwitterを遡ったり、本を読んだりして時間を潰した。1時間程した後、ロペの姿が見えた。店の入り口でキョロキョロと辺りを見渡し、その視線が私と交わった時、小さく微笑んだ。
「ごめん、お待たせ」
私の前にロペが座って、店員にアイスココアを注文した。空調の音が大きくなった気がした。季節は夏で、外気温はこの夏一番の暑さを記録していた。
アイスココアを待つ間、ロペはちらちらとこちらの様子を伺っていた。小動物みたいで可愛らしかった。
「村山さん、背、伸びた?」
「え?あ、どうだろ。高校の頃よりは多少伸びたかもしんない」
「だよねー。なんかそんな感じした」
「いやあ、実感ないよそんなの」
「追いつけないや。私、ずっと見上げてる」
掌を自分の頭のてっぺんに置いて、私と比較する。
「羨むもんかな身長って」
「いや、ほんと大事。身長あるとダンスも印象変わるし、ほら、モデルとかも出来るじゃん」
ロペは朗らかに笑う。現状で満足しない彼女の意識の高さを感じた。
「まだまだ全然だからねー。なんとかギリギリ、アイドルやれてるけど、お遊戯会みたいなレベルだし。バイトも続けてるし」
ロペはそう自嘲する。確かにロペ達のグループの知名度は高くない。Twitterのアカウントもフォロワーは1000人程度だ。星の数ほどいるアイドルという存在の中で、彼女達の光はほんの微々たるものだろう。
「なんのバイトしてるの?」
「豚カツ屋さん。千駄木にあるんだよ」
「へー。なんか意外だね。ロペの雰囲気的に」
淡いフリルのついたロペの袖が揺れた。こんな柔らかな女の子が豚カツ屋にいるのが想像できない。
「豚カツ好きなんだもん」
恥ずかしそうにロペは言った。好きな食べ物を扱う店でバイトしてるのなんて子供っぽいとても言いたげだ。そんなことないのに。
「村山さん、また食べにおいでよ。美味しいんだから本当に」
「うん。また今度ね」
私はコーヒーを啜る。店内の空調でぬるくなっていた。
「でも、いいの?私なんかとお茶とかして。あんた、アイドルでしょ?特定のファンと仲良くしてたら、ほら、他のファンに嫌われない?」
私はその懸念を直接告げた。実際、先ほどから居心地が悪い。ロペのことを知っている人間がたとえ、多くはないとしても、ライブ会場の近くで仮にもアイドルがファンと一緒にいるところを、他のファンに目撃されれば、あまり心証はよろしくないはずだ。周囲を窺うように私は小声になる。
「え、違うよ。村山さんは友達。ファンとアイドルって言うか、友達でしょ」
ロペはあっけらかんとして、そう言った。
友達という言葉が私の胸に残った。
「駄目、かな?友達とか」
私の沈黙に傷ついたのか、ロペがこちらの顔色を窺っている。目が潤み、頬が紅潮している。
いいのだろうか。
私とロペは確かにクラスメイトだったが、当時は遊んだことも、それこそ会話すらあの時の一度きりだった筈だ。
それなのに、私とロペはアイドルとファンなんて不確かな関係で再び出会った。
私の知っている友達って関係とは、まるっきり違うもののように思える。それでも、ロペは私と友達になりたいと言う。
「ううん、駄目じゃない。友達だよ、私達」
だから、私の言葉は本心というよりも、泣きそうな顔のロペを宥めるための、そういったものだったはずだ。
「本当?いいの?」
私の言葉でロペは飛び上がらんばかりに喜んだ。罪悪感に似た何かが喉の奥に迫り上がってきた。ロペは興奮冷めやらぬままに、連絡先を求めてきた。
社交辞令とかそういった打算的なものではなく、本当に私と友達になりたいようだった。スマホの画面にQRコードを表示されて、ロペのスマホに読み込ませた。
「あ、ワンちゃんだ」
私のLINEのアイコンを見てロペがはしゃいだ。一昨年死んだ実家のビーグル犬だった。アイコンになるような写真がこれといってなく、趣味と呼べるようなものもなく、それに死んだ彼のことを愛していたから、ずっとこのままだった。
その後、死んだ彼のことや、仕事のことなど、矢継ぎ早に質問され、いつの間にか、1時間以上の時間が経っていた。ロペと話せたことで浮かれていたのか、時計を確認していなかった。
「そろそろ出ようか?」
「あ、そうだね」
若干の名残惜しさを感じさせながらも、ロペは荷物を持って立ち上がる。ロペに続いて入り口へと向かった。
「私、払うよ」
会計時、当たり前のように支払いをしようとした私の腕をロペは止めた。既に財布を取り出していた。
「え、いや、大丈夫よ」
大した額じゃないし。推しに払わせるとかファンとしてあり得なくない?
「ううん。払う」
「いいから」
お互いに譲ることなく財布を振り回した。何度かの後、諦めたようにロペは財布を下ろした。
「じゃあ、割り勘」
ロペは硬貨を数枚、トレイに置いた。私もそれにならって硬貨を置いた。
「ふふ。やっと友達っぽくなった」
悪戯っぽくロペは笑った。それでも納得いかない態度の私に続ける。
「あれ?友達って、こう割り勘とかするんじゃないの?マクドナルドとかファミレスで」
ロペは不安そうにこちらの反応を伺う。その表情に思わず笑いが込み上げる。
「高校生じゃないんだから」
「えー。そうなの?こんな感じだと思ってたんだけど、違うの?わかんないよ、私、友達いないんだから」
口を尖らせてロペは呻く。恥ずかしそうに顔を背ける。甘えた、拗ねた態度が言いようもなく愛おしい。
店員からお釣りを受け取ったロペと並んで店を出た。他に用事もないので駅まで歩いた。あまり利用しない駅だったため、何度か通りを間違えたが、無事にたどり着いた。
「じゃあ、私こっちだから」
利用している路線の方へ足を向けると、喧騒の中、ロペが私を呼び止めた。
「村山さん」
目を伏せながらこちらを窺っている。よく見ると肩が震えている。
「名前で呼んでもいい?」
「え?」
「と、友達なら、名前で呼ぶよね」
ロペの顔は見てわかるくらいに赤く染まった。喧騒の中、ロペの声はやけに大きく聞こえた。
「いや、まあ、全然いいけど、名前なんか覚えてるの?」
「藍ちゃん」
私の質問にロペは即答した。ロペが私の名前を覚えていることに驚いた。迷いもなくすぐに飛び出たことがさらに私を驚かせた。それと同時に言い得ない喜びが私を満たした。
私の名前なんか知らないと思っていた。
絡みなんて全くなかったから、私のことなんか微塵も興味を持っていなかったとばかり思っていた。
「放課後、私に声かけてくれた時から、私、村山さんと友達になりたかった」
私たちの関係なんてとても希薄なものだ。ただのクラスメイト。それが、アイドルとファンなんて歪な関係になって、何年も後にこうやって出会うことがどれほど奇跡的なことか。
「何度か声かけようと思ったんだよ。本当だよ。でも、村山さん、友達いっぱいだし、私なんかが急に声かけたら迷惑かなって。で、結局、3年に上がってクラス替わっちゃって」
ロペの口から言葉が溢れ出る。水の流れのように溢れ続ける。
「変だよね、私。友達一人作れない勇気のない奴が、人前で踊ったり歌ったりのアイドルだよ」
次第に周囲の喧騒が薄れていく。ロペの言葉がだんだん大きくなっているように感じる。
「でも、勇気を持てた今なら、アイドルになれた今なら、あの時言えなかったことも言えるんだ。だからね、藍ちゃんって呼んでもいい?」
ロペの言葉に私は頷く。
ロペは頑張ったのだ。目立たない存在だった自分をここまで変えてまで頑張ったのだ。その指標になれるなら、こんな嬉しいことはない。
「友達だからね。誰がなんと言おうと私たちは友達」
ロペが嬉しそうに小指を差し出す。細く小さな折れてしまいそうな小指。私もロペにならって小指を差し出し、ロペの小指に絡める。
「指切りげんまん」
ロペは悪戯っぽく微笑んで、数度、指を上下させる。おまじないが終わると、周囲の喧騒がまた再び響き始めた。


どんな時でも腹は減る。
失意の中でも、希望の中でも、怒りの渦中においても、私の身体は生きるために最適な手段を取ろうとする。
週末を迎えて、眠り続けたベッドから起き、冷蔵庫を確認する。萎びた大根と少量のキムチだけが悲しそうにこちらを覗いていた。
使い古されたサンダルを履いて、寝巻きのままスーパーへと向かう。歩きながら、ロペに誹謗中傷を送ったアカウントのリストをスマホで確認する。
何日、何ヶ月、何年かかっても、こいつらを全員殺してやると憎しみの炎が燻った。
スーパーの調子の外れたBGMの中、やけに白く明るい照明の下を歩く。何も考えずに食材をカートに詰めていく。
レジの列に並んで、前の客の首筋を見た。この客は私が既に何人も殺していることに気付いていない。気付いた時、こんなにも無警戒に私に背後を取らせていることをどう思うのだろうか。
なんだか悲しくなってきた。
同時に強い虚しさに襲われた。
ロペが私に相談してくれなかったこと。
ロペが私に相談してさえくれていれば、ロペは死ぬことはなかったはずだ。
そんな都合のいい仮定が私を苛める。
けれど、実際は、私はロペに信頼されてなくて、本音を聞くことも、頼りにもされず、ただ彼女の死を悔やむだけだ。
私がロペのためを思って犯す殺人はすべて、何にもできなかった自分を慰めるためのものだ。
色のない世界に生きている。自分だけが異物のような感覚に襲われる。生きることが苦しい。呼吸すらもままならない。
ロペが死んでから、私はずっと息ができない。
ロペは私にとっての酸素だったから。
くだらない世界に立って、生活を送るためにはロペがいなければ駄目なのだ。
ロペ、私は世界で一番、貴女に幸せであって欲しいと願う。貴女が死んで、死んだということすら認められないけれど、私は願う。
祈る。
薄汚い世界の中で、目を覆いたくなるほどに醜悪な私の、たったひとつの純粋な願いなのだ。
買い物の帰り道、亡霊のように虚ろに歩いていると、ロペと何度か寄った公園に引き寄せられた。滑り台とブランコだけがある小さな小さな公園だ。
夜なのでもちろん誰もいない。
闇の中で揺れ続けるブランコに飛び乗った。立ち漕ぎで硬く冷たい鎖を握りしめて、膝に体重を加えて振り子運動を始めた。
夜の空気を私のブランコが何度も何度も切った。住宅街からの暖かい灯りが、薄く滲んで見える。
ロペが死んでから、私の中で蓋をしていた感情が溢れ返る。
なんでだろう。
なんで、私に相談してくれなかったんだろう。
ロペが誰かと付き合ってるってことも、追い詰められるくらいに辛い現実にいることも、私はニュースサイトの後追いでしかない。
私はロペの友達なのに。
ファンである前に、私はロペの友達だった筈なのに。
一緒にご飯にも行った。一緒に買い物にも行った。ロペの狭くて安いワンルームのマンションにも行った。apexもやってた。
それなのに、ロペは私に辛いことを何ひとつ相談してくれなかった。
「藍ちゃん、あのね」
ロペからの電話。始まりはいつもそれからだった。
藍ちゃん、あのね。
ご飯行こう?
新曲出るよ。
メンバーがムカつく。
嫌なファンいた。
あそぼう。
今度、いつ会える?
何度も何度も電話した。何度も何度も、彼女と遊んだ。
何度も、何度も。何度も、何度も。
でも、一番辛いタイミングで、助けを求めてはくれなかった。
私はロペのためなら殺人だって厭わないのに。
私の気持ちはロペには届いていなかった。いや、届いていたのかもしれない。届いていて、なお、不足かと思われたのかもしれない。
考えたくはないが、私の気持ちが迷惑で、友達と思っていたのは此方だけだったのかもしれない。
私はロペのこと、全部わかっていたつもりだけども、結局のところ、私は彼女のことを少しもわかっていなかった。
ブランコの鎖は冷たく、手のひらの皮膚が針で刺されるように痛んで、麻痺した。溜息は冬の空気で白く色づき、薄く空に浮かんだ。
魂のようだ。
私の魂が、今、空に消えていっている。
ロペを思って吐く息が私の魂なのだとしたら、後に残る汚い感情は一体、なんなんだろうか。
ブランコから飛び降りる。
鎖の軋む音が不快に大きく響いた。
その音が、私自身の身体から聞こえた気がした。


コンビニの白い常夜灯の周囲に沢山の蛾が集って、干からびたカメムシの死骸が無機質な床に落ちていた。都心にもこんなに虫がいるんだなと思って、カメムシの死骸を踏んだ。
頭がアルコールでふわふわと軽い。視界が浅くぼやける。ロペと居酒屋で食事と飲酒をして、その帰り道だった。
私の記憶よりも幾分か狭くなった雑誌コーナーの前にロペは立っていて、週刊の漫画雑誌を読んでいた。ここのコンビニは立ち読み防止のゴム紐を雑誌にかけておらず、ロペは決まって立ち読みをする。
「買えばいいのに」
「だって、呪術しか読まないし。部屋に溢れちゃうじゃん」
ロペは物を捨てられない性格だ。部屋には沢山の雑貨や本が散乱しており、その惨状はちょっと目を当てられないものだ。
「今は電子書籍とか色々あるんだよ」
「私、漫画は紙派なのだー」
戯けたように変な口調だ。ロペは時々、こんな非実在キャラクターみたいな話し方をする。
「ま、いいや。読み終わったら出てきてね」
「はーい」
ロペをその場に残して私はコンビニを出た。駐車場がなく、道路にそのまま面したコンビニの前を会社帰りのサラリーマン達が無感情に歩く。一様に暗く、疲労感が見える。道路を走る車がけたたましく排気音を垂れ流す。人の暮らす音が不愉快なほどに多い。どうにもこの猥雑さが好きになれない。
コンビニで買った安い発泡酒を開けて、ちびちびと飲む。アルコールの雑味が強く残るその飲料は、不思議なほどにこの街に馴染む。地元で飲んだ時にはあまりの飲み味の違いに驚いたものだ。
流されるようにして、しがみつくものも少ないこの街では、結局、酔っぱらったフリをして歩くのが一番良い。
星の一つも見えない濁った夜空を見上げて、ため息をついてみる。柑橘系の混ざったアルコールの匂いが広がる。
「しょうもねーな、なんか」
その時期、私は休職中だった。
特に大きな理由もないが、会社へと向かう足が動かなくなってしまった。何度も家を出ようとするが、上手くいかない。なんとか家を出ても、駅までの道中で身体が勝手に家へと戻ってしまう。
自分の力ではどうしようもならない事象だった。自分のことではないように感じられた。俯瞰した意識が、何度ももがく自身の姿を感情なく観察しているような気分だった。
その仕事に就いて3年目のことだった。まさか、自分がこんなことになるとは思ってもなかったが、会社に連絡すると呆気なく休職の手続きが進んだ。
繁忙期ではないし、落ち着いてゆっくりしなさい。
いつも無表情の上司は驚くほど柔らかな声でそう言った。
言われるがままに休職期間が始まり、うんざりするほど無為な生活が流れた。
不規則な時間に寝て、不規則な時間に起きる。食事は摂ったり摂らなかったりした。
ゲームをする以外はずっと寝て過ごした。友達は平日仕事で、誰とも話すこともなく、上り続ける太陽を呪った。
「たそがれてんじゃーん」
ロペが缶チューハイのプルタブを開けながらコンビニから出てきた。ニヤついている。私のやれやれ系の呟きとその素振りを見て、余程弄りたいと見える。
「うるさいな。呪術はどうだったの」
「ははは、推しが死んだ。きつい」
「は?マジで?嘘でしょ?死んだの?」
私とロペの共通の推しのキャラクターの死を聞かされて、私は狼狽する。
「あれだったら、藍ちゃんも読んできなよ。待ってるよ」
「いや、うん、いや、やめとく。単行本待つ」
「出たよ単行本派。ネタバレ踏んでも知らないよ」
「あんたから、かまされたよ。ついさっき」
「いつどこからかまされるかわからないもの、それがネタバレ」
ロペの機嫌は最高だ。ロペは酒が入ると極端にテンションが上がる。振り切れた感情がジェットコースターのように上下左右に揺れる。
「飲み足りないから〜飲み足りないから〜。飲み足りないから言ってんの〜?」
脈絡のないコールが突如はじまり、缶チューハイを押し付けてくる。半笑いで押しのけるが、諦めきれないように千鳥足で私にしがみついてくる。
「藍ちゃん家行く!藍ちゃん家でまだ飲む!」
もはや幼児だ。駄々をこね、缶チューハイを押し付けてくる狂った幼児になってしまった。それでもまだ、焦点の定まらない目は綺麗だ。
「このままあんた帰したほうが心配だし、それはいいけど」
「いえーい!桃鉄やろ!桃鉄!」
前回、遊んだ時にやった桃鉄がお気に入りなようで、BGMを口ずさみ始めた。酔っ払ったままやるから、1ゲームやり切ったことがない。ロペはコントローラーを握ったまま、撃沈する。
「あ、あのタクシー空いてるじゃん」
泥酔したロペを連れて電車に乗るのはしんどいので、空車表示のタクシーに向かう。
なおも、「俺の酒が飲めねーのか」状態のロペは無視して、タクシーの後部座席に詰め込む。「あー」とか叫んでるけど、これも無視する。
自宅の近所のコンビニを運転手に伝えると運転手は「よく飲んだね」と苦笑いだった。夕方のニュースとかで流れるタクシーの厄介客みたいに見られてる。「すみません」と顔を伏せながら謝る。ロペはなおも桃鉄のBGMを口ずさんでいた。
ロペの調子外れの桃鉄曲にのせて、信号の多い都内の道路を何度も停止しながら、タクシーは進んでいった。


タクシーはコンビニの駐車場に停まる。クレジットカードで支払いをして、緩慢に降車する。
「なんか買う?」
フラフラしているロペに尋ねる。さっきのコンビニで買ったお酒はまだ残っている。
「んー。納豆巻き食べたい」
「買ってくるから待ってて」
「コンビニのはしごなんて、私たち"通"だね」
ロペはなおも訳の分からない事を言っている。深夜ということもあって、弁当コーナーの陳列は穴が目立つ。納豆巻きを確認するが、パックに入ったものしかなかった。
「こっちのが美味しいけどね」と思いながら、パックの納豆巻きをレジへと持って行く。会計を終えて、コンビニを出ると、ロペは早速まとわりついてきた。
「おー。やっぱりこっちの納豆巻きの方が美味しいよねー」
レジ袋の外見からパック型だと判断したのかロペが喜ぶ。
「小さく切ってるからシェアできるしね」
ロペが同じ好みだったことが少し嬉しくて、笑みが溢れるが、バレないようにそれっぽい理由を付け加えてみる。
「えー、これ全部、私のだよ」
「太るよ」
「あはは」
ロペの気の抜けた冗談も、私の臆面ない返答も私たちの関係が深まった事の現れに感じる。私とロペは、友人と言える関係になれたのだと、心から思える。
歪にも思えるが、友人関係なんてものは、歪であることが当然だ。綺麗過ぎるものはどこか偽物くさい。
「公園いこ、公園」
「ロペ、公園好きだよね」
二人で遊んだあと、ロペは公園に寄りたがる。都会の公園には遊具なんてほとんどなくて、寂しそうなブランコか、小さな小さな滑り台があるくらいだが、ロペはそいつらを好ましく思ってるらしかった。
誰もいない深夜の公園でロペは子供のようにはしゃぎ回る。
滑り台を逆から登ろうとして、酔いに負けてそのまま滑り落ちたり、ブランコを勢いよく立ち漕ぎして、靴を思い切り遠くへ飛ばしてそのまま失くしてしまったり。
毎回、大人とは呼べない姿で暴れまくる。
ひとしきりはしゃいだ後、ロペと私はブランコに座って缶チューハイを飲む。ゆらゆらと酔いに任せてブランコを揺らす。
都会の夜空は暗いままで、星なんて見ようとしても見えない。鈍重な闇のカーテンが何層にも引かれているようだ。
「私、なんで生きてんだろーね」
思わず飛び出てしまった言葉だった。
私自身、常に感じている事だったが、言葉にしたことはなかった。
受験も頑張って、行きたい大学に通って、馬鹿らしい就職活動をなんとかクリアして、興味のないくだらない仕事して、大金が訳の分からないルールの中で税金として飛んでいき、それでも必死こいて生きてきたのに、自分の理解の及ばないところで病気になって、完全にドロップアウトだ。
そんな自分を情けないとも思うし、いつからか情けないとすら思わなくなった。このまま無為に生きることが辛くなったし、そんなことですら、どうでもよくなった。
「死んじゃ駄目だよ、藍ちゃん」
ロペはブランコを漕ぎながら、呟いた。
私の方を見ずに、ただ暗闇の中の虚空を見つめながら。
「ええ?あ、ごめん、なんかブルー入っちゃった。冗談冗談」
ロペに心配をかけまいと戯けた口調で繰り返す。ロペは変わらず夜の向こうを見つめて、ブランコを漕いだ。鎖の擦れる音だけが私たちの間に流れ続けた。
「藍ちゃんに死なれちゃうと私、困っちゃうんだよね」
「どんな風に?」
暗闇の中聞こえてくるロペの言葉に思わず食い気味で尋ねてしまう。ロペはどんな風に困るのか。私はロペにとって、どんな存在なのか。私はなんで死んじゃダメなのか。
ブランコの動きが止まった。
「遊べないでしょ。話聞いてもらえないでしょ。お酒奢ってもらえないでしょ。ライブ来てもらえないでしょ。他にも色々あるよ」
ロペはそんな理由を指折り数え始めた。
「すげえ自分本位じゃん」
「えー、仕方ないじゃん。友達に求めることって結局、自分本位になっちゃわない?」
「それはそうだけど、嘘でも世界が不幸になるとか社会の痛手とかなんかそういうことは言えない訳?」
私の言葉にロペは大声で笑った。アルコールの力で声高になった彼女の笑い声は私の中にすっと浸透した。
「あははは。わかんないもん。私、世界とか社会とかどうでもいいんだもん」
「わかんないってロペさあ」
「私にとって大事なのは藍ちゃんだけだもん。世界とかそんなの知らないよ」
ロペは靴を脱いで暗闇の中へと蹴り込んだ。大きく弧を描いて飛んでいくロペの靴は、見えなくなって、それから離れたところで地面に落ちる音がした。
「藍ちゃんのいない世界なんてぶっ壊れちゃえー」
ロペの言葉に所在なさげに浮かんでは消えていた私という意味がかっちりと私の中に嵌まり込んだ気がした。
そんな単純なことでいいんだ。
「藍ちゃんには結婚式でスピーチしてもらわないといけないからね。友人代表として」
なおもロペは続ける。もう酔いに任せて適当なことを言っているようにも思える。馬鹿馬鹿しくなってきた。
「なにそれ。いつになるんだよそんなの」
「約束だよ。だから、藍ちゃんはその約束の為に生きていて。私のために生きていてね」
「酷い約束だなー。あんたそんな唯我独尊系だっけ?」
私の言葉にロペはコロコロと笑う。目元に皺が刻まれる。手元の缶チューハイをあおって、ブランコを勢いよく漕ぎ始める。
「生きろー!無理してでも生きろー!」
酔っぱらったロペは大声で叫ぶ。住宅街にある小さな公園にロペの馬鹿馬鹿しい声が響く。
「近所迷惑だよ」
本気で止めるつもりもない小さな声でロペに伝える。案の定、ロペは叫び続ける。
多分、この時なんだと思う。
ロペが私の世界になった瞬間は。
ロペとの約束が、私がここで生きる意味になったんだと、そう確信できる。
無理してでも生きる。
ロペのために生きる。
だから、ロペの馬鹿馬鹿しい自分勝手な叫びをもう少し聴いていたくなった。

 

寝汗の不快さで目が覚めた。
天井の白熱灯の光が寝起きの目に染みる。昨夜は電気を消し忘れたまま眠ってしまったようだった。横になったまま、テーブルの上のアルコールの空き缶の山を見た。
懐かしい記憶だった。
あの日のロペの姿を久々に夢に見た。
ブランコに乗ったからだろうか、記憶が刺激されたのかもしれない。
あの時。
私に生きろと叫んだロペ。精神的に苦しむ私を雑に励ましたロペ。
時間はかかったが、あのあとなんとか社会復帰できたのは、間違いなくロペのおかげだった。
「『私のために生きて』か…」
ロペとの約束通り、私はロペのために生きてみた。息苦しい、つまらない世界の中をロペのことだけを頼りとして、必死で泳いでみせた。その指標が失われて、溺れているのが今だ。
「あんたが死んでちゃ世話ないよ、ロペ。ずるいよ、ほんと」
寝転んだまま呟いた言葉は枕に染み込んだ。会社に行くのが億劫になって、ベッドから体を起こすのをやめた。漫然と過ぎていく時間を、卓上の目覚まし時計を見つめて数えた。
休みを取ろうと連絡しようとも思うが、いつの間にか時間が経過している。内容が入ってこないままにニュースの画面を眺めた。私の殺人は定期的に繰り返されているが、それすらも私の表面を撫でるだけで、私の感情を動かすことはなかった。
空腹感を覚えるが、必要に差し迫るほどのものでもない。吐き気に似た不快感が同時にあり、それが相殺させていた。
この気分の悪さが殺人の寝覚の悪さからではないということは既に理解していた。
私は今、自分の世界そのものの綻びに苦しんでいる。
自分の信条が揺れ動くことに、気分の悪さを感じている。
ロペのための殺人が、結局のところ、自分のための殺人だとそう思い至ったことへの、世界の規範の揺れに対する不愉快さに苛まれている。
間違えている。
自分が間違えている。
その事実を護るロペというベールが消えた。覆い隠された悍しい感情、行動が、私の思考を止めている現状に苛立っている。
こんなものなのか。
私のロペに対する気持ちは。
こんなことで揺れ動くものだったのか。
私は、間違えている程度で歩みを止めてしまうのか。
煉獄への道を、破滅への一本道を、血塗れの鈍器だけを持って歩む巡礼の道を止めてしまうのか。
気分が悪い。
嫌だ。
そんなことだけは、絶対にしたくない。
間違えているとわかっていても、なお、歩む。
この道は引き返せない。
引き返せないようにできている。
ぬかるんだ道。
腐った汚泥の道。
脚を取られ、バランスを崩す道。
その道を歩く幽鬼として、私は生きている。そのためだけに生きているのに。
ロペのことを、ロペのことだけを考えていたのに。
その唯一の規範が、崩れかけている。
インターホンが鳴った。ご機嫌な音楽が不快だった。無視をしたが、続けて鳴らされた。
面倒だったが、立ち上がり、洗面所に向かった。顔を洗った後にインターホンのディスプレイを覗く。スーツ姿の男が立っていた。
ディスプレイから勢いよく離れた。逃げ場を探そうと周囲を見渡した。
「警察です」
自明のことだった。
証拠を残そうと思った訳ではないが、消そうとも思わなかった。日本の警察は優秀だ。いずれ、私にたどり着くことなど分かっていた。
それでも、まさか本当に私のもとにやってくるとは。
美里のこともあり、私の方でも一応の対策も考えてはいた。どこから逃げるか。どうやって逃げるか。どこに逃げるか。そんな事前準備も頭の中で真っ白になった。
「はは。マジでヤバい時、本当に動けないんだな」
強がる言葉しか出てこなかった。なおもディスプレイからは私の名前を呼ぶ声が流れる。玄関は完全に塞がれているらしい。
思いついて、ベランダに飛び出てみる。
階下には誰もいない。往年の刑事ドラマだと、容疑者が逃げ出さないように窓を張り込むのは常識だが、そんな時代遅れの逃走方法が効果的らしい。
急いで玄関に向かい靴を履いた。扉一枚挟んだ先で、人間の気配がする。扉を叩く音もする。
とりあえず、財布と携帯だけを持ってベランダから身を乗り出す。高々、2階程度の高さだが、飛び降りようと思うと足が竦む。幸い、下は庭になっていて、地面は土だ。アスファルトよりはマシだ。
出来る限り落ちる高さを減らすためにベランダの柵を持ち、宙吊りになる。手を離すと、ほんの一瞬の後に足に鈍い衝撃が走る。
「ッ!!」
足の衝撃と同時に目から熱い水滴が溢れ出す。どういうメカニズムしてんだ人間の身体はボケ。何度もよろけながら前進する。壁に手をつき、身体を起こす。
どこに逃げればいいのか。
当てもないままに、駆け出した。
自宅の方で騒ぎが大きくなった。流石にドアを打ち破って踏み込んではいないだろうが、大家に合鍵を持って来させたのかもしれない。早急に立ち去らなくてはならない。出来る限り大通りに出ないように人目を避けて裏路地を選んで逃げた。


何度目かの裏路地を曲がった際、路地の向こうにスーツ姿の男がいた。男は私を見つめ、こちらに近づいてきた。
「村山藍さんだよね?」
私の名前を知っている。
完全に私を私として認識して追ってきた。
胸元から警察手帳を取り出す。
「今、逃げてるよね?ちょっと同行してもらってもいい?」
警官は申し訳なさそうにしながらも、強気に踏み込んできた。その身体を勢いよく押す。
「くるなよ!」
警官は一瞬、ふらついたが、すぐに体勢を立て直して近づいてきた。
「なんで邪魔すんの?」
「邪魔?逮捕ってことですか?当たり前でしょ。今、あなた、殺人の容疑者なんですよ」
私に突き飛ばされた腹をさすりながら、警官は捕獲しようと体勢を整えた。
「私の前にあいつら逮捕しろよ」
「あいつら?誰ですか?」
「ロペ自殺に追い込んだ奴らだよ。全員!捕まえろよ!」
「被害者のことですか?彼らを捕まえる意味がありますか?」
「あいつらがロペ殺したんだよ!なんでわかんないの!捕まえろよ!捕まえて死刑にしろよ」
なんでわかってくれないんだろう。
ロペはあんな奴らに殺されていい人間じゃない。
せめて警察があいつらを全員捕まえてくれれば。せめてあいつらを全員死刑にしてくれたら。
私は簡単に自殺を選べたのに。
お前らのせいだ。
お前らのせいで、私は、殺人者なんかにならないといけなくなってしまったんだ。
「それが動機ですか?連続殺人の動機」
「お前らがロペ殺したあいつら全員捕まえて、全員死刑にしろよ。やらねえから私がやってんだろ!」
私の叫びに警官は目を背ける。醜いものを見るように、信じられないものを見るように。
なんで。
なんで、わかってくれないんだろう。
「私にはあなたの犯行動機、正直、ちょっと付いていけません」
溜息混じりで警官は呟いた。やりきれないとでも言いたげに、私の犯行をつまらないもののように扱った。
ロペの死をなんでもないことのように、扱った。
沸騰した。
血液が一気に脳に立ち昇る。
「理解できないなら、そんな部外者が私たちの邪魔すんな!!」
私は転がるようにして、その警官にあびせ蹴りを放った。身体を倒し、転倒と変わらなかったその蹴りは、運良く警官の顎に当たった。スニーカーがズレる感覚があった。
何があったか理解できず、ふらつく警官の脚に倒れながらもしがみついた。諸手狩りの要領で、両腕で警官の脚を持ち上げる。
油断はあったと思う。
殺人犯と言えど、所詮は女だという侮りが、この警官を地面に倒れ込ませている。
呻く警官の体に力が込められた。のしかかっていた私を跳ね上げようともがく。思い切り顔を引っ掻く。悲鳴と一緒に私の爪に削げた皮膚の質感が浮かんだ。
何度も掌を顔に落とした。後頭部とアスファルトが何度もぶつかる。荒い呼吸音と手の痛みだけが現実としてあった。
警官は弱っていたが、それでも最期の力で私を跳ね飛ばした。馬乗りに組み伏せられる。どれだけ力を込めても警官を押し除けることはできない。
無線を手にとり、私を取り押さえたことを仲間に伝えようとした瞬間。そこに隙が生まれた。ポケットの中で指先に触れたものを警官の眼球目掛けて突き出す。
ずぷり、と、柔らかいものを突き破る感覚があった。
警官は絶叫し、私から離れて左目を押さえていた。その手の隙間から薄く光る赤い血がこぽこぽと流れ落ちていた。
私は手の中の車の鍵を握りしめる。鍵は暖かい血でぬるぬると滑った。ふらつきながら、倒れ込んだ警官に向けて、思い切り蹴りを入れた。それから、何度も何度も警官の顔を踏んだ。体重をかけて、頭を潰し壊すように、何度も何度も踏んだ。
反応がなくなって、私はその警官が絶命したことに気付いた。
身体の奥が焼けるように熱い。度の強い酒を空腹時に流し込んだときのような、胃の底が暖かくなる現象。そのように、身体が熱い。
「逃げなきゃ」
重い体を無理矢理引き起こした。
全身がだるい。
無茶な動きの連続で身体を痛めてしまったのかもしれない。
どこまで逃げればいいのか。
否、逃げてもいいのだろうか。
私の頭にはそんな疑問が延々と流れ続けた。
捕まることは自明のことであるし、何より逃げる必要性というものが私にはあまりない。
半ば、自暴自棄に近い形での犯行である。
どうなってもいいの精神で、私は今を生きている。
ロペを死に追いやった連中を追うハンターとして、なんとか未練がましくこの世界を生きている。いや、漂っていると言った方がいいかもしれない。
浮かんでいる。
波のごとく押し寄せ、引いていく現実の中を泳ぐこともせず、ただ漂っている。
鴉の声が聞こえる。
電柱に幾羽かの鴉が止まり、波を見ている。
透明で、薄暗い、時折光る粒子の見える波を眺めている。
射干玉の闇羽が濡れて輝く。
私は漂っている。
無機質な街を波と共に、行き場のないままに。
できることなど何もない。
死んでしまったロペのために、生者である私ができることなど本当のところ、何一つないのである。
そんなことはとっくの前から理解していた。
理解していて、なお、私は殺人を犯し続けた。
怒りという感情と、悲しみという感情とが綯交ぜになったものを原動力として、漂う理由をそこに見据えていた。
雑多とした都心の街並みの中にも、神社や寺院はバグのように散見する。
こじんまりとした教会のステンドグラスの鈍い色彩を見た。
ロペは死んで、どうなったのだろうか。
仮に天国というものがあったとして、それはどんなものなのだろうか。
幽体として、煙に近い姿で、薄く光り続けるロペを思った。
きっとこういう姿だろう。
私の知っているロペは、このようにして在る。
それは、今もなおだ。
偶像として、アイコンとして、そして、友人として。
私の中には無数のロペがいる。ロペという事実が在る。
この影が消えてしまうまでは、私は歩みを止めないだろう。
私の中でロペが息を止めるまでは、私は止まらないのだろう。
人目を避けるようにして歩く。
私が捕まらないようにして歩くのは、このロペの残影を認めきれていないからだ。ロペの死を認めきれていないからだ。
もう終わってしまった世界を、私はまだ未練がましく信じ続けているのだ。
鴉はそんな私を含めた波を、悲しげな眼で見下ろし続けている。


私は逃亡している。
放浪している。
警察の目を掻い潜って、何度か在来線を乗り継いだ。自分がどこにいるのかを、私自身が把握していない。
テレビも見ていない。
スマホのニュースも見ていない。
ひょっとしたら、私の顔写真が報道されて、指名手配されているのかもしれない。
借りられなくなると不安なので、早いうちにレンタカー屋に向かった。
運転に慣れたNBOXを借りて、そのまま二県程南下した。
凶器がないと困るので大型のスポーツ用品店で金属バットとグローブと硬球を買った。怪しまれないようにという判断だが、平日に成人女性が野球道具を一式購入することは相当に怪しいことだ。
この辺りにターゲットはいただろうか。
自分で調べたターゲット情報をスマホで確認した。実家や職場、見慣れぬ番号からの着信が山程入っていたが、全て無視した。
ひょっとしたら、GPSとかで私の居場所バレてたりするのだろうか。いや、バレているんだろうな。
電源をオフにするのが、逃亡者として正しい判断なのだろう。Bluetoothに繋いで、カーステレオでロペのグループの曲を流した。
単調な音楽だ。歌詞もよくわからない。
心が動かされることはない。
それでも、私は何度もこの曲を聴いている。
何十回、何百回、何千回と、聴いている。
何千回と聴いているのに、私はロペの声を聴き分けることができない。
他のメンバーの声と混ざって、違う声に聴こえる。
私はロペが大好きなのに、ロペの声を聴き分けることすらできない。
涙が溢れて、視界が歪んだ。
「なんでなんだよ」
ロペがわからない。
友達のことがわからない。
大好きな人のことがわからない。
私がロペの声を聴き分けられていたら、ロペは私に相談してくれたのかな。
「ロペ、なんで?」
こんなにもロペのことを理解しようとしたのに、ロペのために沢山の人を殺したのに、それでも、私にはロペの声を聴き分けられない。
ロペが何処にいるのかわからない。
「なんでなんだよぉ」
泣きじゃくりながら、私は車を走らせる。
もう止まることができない。
戻ることなどできないのだ。
シャカシャカと、誰が歌っているのかわからないアイドル曲が車内に響き続けていた。


夢を見た。
ロペは純白のドレスを着ている。
この世のものとは思えない程の美しく荘厳な花嫁姿。
新郎の顔は見えない。見えないけれど、きっと幸せに微笑んでいるのだろう。
ロペが新郎に微笑みかける。
万雷の拍手が彼女たちを包む。
光が降り注ぎ、花びらが舞う。
私はその光景を一番近い場所で見ている。
ロペが私に微笑む。
私は泣きながら彼女の幸せを祈る。
祈る。
ロペが私の手を取る。
壇上のマイクまで誘導する。
「私の親友、藍ちゃんです」
ロペが私を紹介する。
大勢の視線が私に向けられ、私は少し緊張したようにスピーチを始める。
なんてことはない。
なんてことはないありふれた光景。
ただの幸せな結婚式の風景。
でも、私にとっては残酷な悪夢だった。
固いリクライニングで身体は強張っていた。首筋と背中にぐっしょりと汗をかいていた。運転席の寝心地は最悪だった。地獄だってもう少しマシな寝床を用意してくれるはずだ。
長時間の運転に疲れ、見知らぬ河川敷の側の人通りの少ない道路に路上駐車して眠っていた。泥のように眠っていた。
眠る前にコンビニで買った納豆巻きとスモークタンと酒の入った袋と、野球道具一式を抱えて外に出た。河川敷へと降りられる場所を探し、高架を目指した。高架下に降りて缶チューハイを開けた。もう今日は運転できない。
購入したバットを置いて、グローブを左手に嵌めた。握り締めた軟球を高架の壁に投げつける。数回バウンドした弱々しい白球をグローブに収める。
再び、球を投げる。
私とロペはこんな関係だったんだ。
キャッチボールにすらなってなかった。
私はただロペに自分の感情をぶつけるだけ。ロペも私に感情をぶつけるだけ。お互いに都合のいいようにして、お互いのことを考えていた。お互いを壁にして、下手くそな壁打ちを繰り返していただけだった。
私の投げた球はロペの構えたグローブを超えて、背後の壁にぶつかり、ぽてぽてと返ってくる。
それでいいと思っていた。
ただそれだけのことだった。
数回の壁打ちの後、白球は左手のグローブを通り過ぎて私の背後に転がっていき、そして、川に落ちた。
流れていく白球をゆっくりと眺める。
このまま消えていくだけの白球を眺める。
私はもう、あんなにわかっていた気になっていたロペのことが分からなくなってしまった。
白球を見送る。
このまま消えていく白球と共にロペの死を認めようとしていた。
ロペは死んだ。
私の世界は終わったのだ。
そう、終わってしまったのだ。
私は仰向けに寝転んで、眠ろうとした。
願いが叶うのなら、このまま目が覚めなければいい。
緩やかに死んでいきたい。
全て、全てがどうでもいい。
川の流れに目をやった。
白球が岸から迫り出した流木に引っかかっていた。流れていってしまいそうで、けれど、白球はそこにまだあった。
しがみつくように。
この世界にまだ執着があるように。
私に気付いて欲しそうに。
気がついたら私は川に飛び込んでいた。
白球を目指して泥臭い水をかき分けて歩んだ。
違っていたんだ。
最初から違っていたんだ。私たちは。
そんなことはわかっていた。
でも、そんなこと私は認めない。わかっていたけど、認めたくない。私たちは間違えていたけれど、それでもいい。
倒れ込むようにして白球を掴む。川に沈み込んだ。臭い水を随分と飲んだ。
息を切らして岸に上がる。水を吸った服は重く、寝転がるようにして高架を見上げる。
ねえ、ロペ。聞いてよ。
「私、あんたとキャッチボールしたかった」
高架の上を電車が通過して、私の呟きはかき消される。線路の軋む音が残っていく。
白球が掌から零れ落ちる。
力なくそれを追おうとして土の上を這う。
私は壁打ちしかできない。
ロペが受け取ってくれていると信じて、その背後に思い切り球を投げることしかできない。
本当のロペのことなんてわからない。自分勝手にしか生きられない。私が思い描くロペという偶像のことしかわからない。
自分のエゴを貫くことしかできない。
だから、私はキャッチボールを諦める。
私は私が思い描くロペのことだけを考える。
私は私の命が尽きるまで、ロペを殺したあいつらを殺し続ける。
私の酸素を奪ったあいつらを、最後の一呼吸分の酸素が続く限りにバットでぺちゃんこにして回るんだ。
それでいいよね。ロペ。
私、間違ってないよね。
「間違ってないって言ってよロペ」
壁にむかって思い切り白球を投げ込む。跳ね返った白球は今度は勢いよく川に飛び込んで、取れないくらいの深みまで行ってしまった。
私は崩れ落ちて泣いた。私の泣き声に被さるように誰かのすすり泣きの声がした気がした。

 

目的の住所についた。

音の少ないNBOXを緩やかに路上に停車させた。鼓動が高まる。疲れた身体を無理矢理動かす。命の最後の一滴になっても、私はこの身体を動かす。バックミラーを見ると、後部座席にロペの姿が見えた。彼女は私に微笑んだ。
幻覚に違いないが、そんなことどうでもいい。私は助手席の金属バットのグリップを強くにぎり、夜の空の下に出た。

 

大好きだよ、ロペ。大好き。

 

重い金属バットがアスファルトを擦る音が闇の中に響いていた。

鹿の角

 

俺の家には鹿の角があった。

俺の家は娯楽もない山奥にあったので、おもちゃと同じくらいの気軽さで鹿の角はそこにあった。

死んだ爺さんが昔、猟銃で撃ち殺した牡鹿の立派な角を丁寧に剥ぎ取って加工し、インテリアとして飾っていた。ある頃からか、俺はこの鹿の角に強く惹かれるようになった。

乳白色のザラついた質感といい、奇跡的な美を放つ造形といい、鹿の角は俺を魅了して止まなかった。時折、意味もなく鹿の角を握った。冷たい鹿の角に体温が奪われていくような感覚を何度も感じた。そんな俺を家族は馬鹿なことをしていると笑ったものだが、当の俺は至って真面目だった。

 

 

 

俺は深夜になると、家族が寝たことを確認してから、鹿の角を持ち出し、田舎のだだっ広い国道へ飛び出し、等間隔に立ち並ぶ矢鱈と鈍く光る街灯を睨みつけて、鹿の角を頭へと取り付ける。

そして、全速力で走り出す。風を切り、抵抗でブレる鹿の角を必死で握りしめ、走り続けた。

スタミナには自信があったが、それでも500m程を駆け抜けると息が上がった。身体中に痛いくらいの疲れが現れ、けれど、それが不快ではなかった。

鹿の角に体力を奪われている。勝手にそんな風に思っていた。

指を伝い、筋張ったプラスチックのような感触の角が俺の中の生命力をどくんどくんと吸い込んで行く。そんな感覚がたしかにあった。

走りきった際のその不自然な脱力感に魅了されている自分がいた。ねばねばとまとわりつく夏の夜の空気が、心地いい風に変わり、まだ熱いアスファルト上に身体を投げ出して横になった。

そんなことを毎夜のようにやっていた。

遠く向こうの都会の光が、深い夜空を緑色に照らして綺麗だった。

 

 

 

ある夏の日の夜のことだ。

俺はいつものように国道沿いを一頭の牡鹿となって爆走していた。緩い風が頬を撫で、むせ返るような田んぼの匂いを鹿の角で切り進んでいた。

蛇行を繰り返し、急ブレーキ。急発進。ジャンプ。直線移動。俺はまさに鹿となり、深夜の国道を駆けた。

不意に眩い光が目に入った。

高鳴るエンジン音が耳に流れ込んだ。

街灯ひとつない暗闇の先に一台の軽トラックのボディが見えた。

まさかこんな時間に道路上を跳ね回る高校生がいるとは運転手も思うまい。軽トラは速度を緩める訳もなく、俺に直進してきた。

避けなければ。

脳の奥で浮かんだその発想を、鹿の角が止めた。

何故かその時の俺にはトラックに確実に勝てるという自信が溢れていた。俺が頭に付けた鹿の角から、猛々しい牡鹿の力が俺の身体に流れ込んでくるのを感じたのだ。

突進してみよう。

俺の脳裏に浮かんだ馬鹿げた考えは咀嚼される前に俺の身体を動かした。走ってくる軽トラに向かって、全力で足を動かした。ヘッドライトが俺を照らし出し、急ブレーキをかける音とアスファルトが削られる音と焦げた臭いがした。

そして、俺は撥ねられた。

高く飛ばされて、アスファルトに落下した。痛みで息が出来なくなった。軽トラの運転手が慌てた様子で俺の方に駆け寄ってくるのがわかった。次第に意識を失っていく最中、手の中の鹿の角が砕け散っているのを見た。

魔法が解けたのだと、そう思った。

俺を浮かばせた熱病のような強さはどこかへ消えてしまっていた。

 

 

 

病院で目が覚めた。

家族の安堵と呆れが浮かぶ表情に見下ろされ、俺はベッドの中にいた。不思議なことに、俺は骨一本折らずにピンピンとしていた。骨折どころか、打撲や捻挫もなく、出血すらなかった。俺から失われたものとしては、唯一、鹿の角だけだった。

軽トラは急ブレーキをかけたとはいえ、それなりにスピードは出ていたし、撥ねられた俺は数メートルは吹き飛んだ。3日間は昏睡状態になっていた。

それだというのに、俺の身体には傷一つ付いていなかった。医者も苦笑いを浮かべるしかできなかった。

 

 

 

あの時、俺は確かに鹿になっていたし、鹿として撥ねられた。病院で目覚めた俺は鹿ではなかったし、鹿の角は失ってしまった。

だから、なんだって話なんだが、その後、都会の大学に進学した俺は入学した年に完全なる不注意で原付に撥ねられた。大した速度は出てなかったが、俺は右腕を骨折して、それは全治二か月だった。

もう俺は鹿ではないという純然たる事実を突きつけられたようで、ほんの少し悲しかった。それから、そんなことを悲しく思った自分に笑えた。

 


あれ以来、ついぞ目にしていないが、今でも、鹿の角は好きだと思う。

 

龍の背

 


冬が近づいてきて、郊外の草原に龍の尾がやってきたと朝方、隣のおばあさんに聴いた。霧が深くかかり、ちょうど見えないでいたが、確かに霧の向こうに何か巨大なものがある気配を感じる。

この地域に龍が現れるなんて、何年振りだろうかと日記帳を引っ張り出して確認すると、なんと9年前の事だった。その時は湖に右後ろ脚が浸かり、水が干上がって騒ぎになった。日記には若い自分が興奮冷めやらないままに走り書きした、のたくった文字があった。

「龍が出たらしいね」

スヴェンが眠たげにパンを口に運んだ。彼はまだ寝間着のままだ。もう昼だというのに、彼の周りだけ時間がゆっくりと進んでいる。

「見物には行った?」

「いいえ、でも、見てみたいわ」

「午後から行ってきたらいい。僕は今日、店を開けるつもりがないから。なんだか手の込んだ料理を作りたい気分だから、シチューを作るんだ」

スヴェンは町外れで煙草や新聞、簡単な生活雑貨を扱う店をやっているが、年中通して、殆ど開けていない。夫として頼りないと思わなくもないが、彼はこう見えて作家でもある。日がな一日、のんびりしながら、郷里に手紙を書くようにして、小説を書いている。店の方は、退屈しのぎでやっているものなのだ。 

「一緒には行ってくれないの?」

柄にもなく、しおらしい事を言ったと少し恥ずかしく思ったが、スヴェンは気にも止めずに、「僕は遠慮しておくよ」と言った。予想通りの反応だったので、いちいちむくれることはしない。

のろのろと蛞蝓のように動くスヴェンをリビングに置いて、階段を登った。時折、猫が鳴くように軋んだ。この家も古くなってきた。生活の匂いのこもった寝室の窓を開けた。まだ暖かい、それでいて冬の冷たさを含んだ、混じり立ての絵の具のように境目のはっきりした風が吹き込んできた。今朝方の深い霧が淡くなっており、その透ける灰色の奥に巨大な山の影が浮かぶ。龍だ。天を衝く龍の巨躯が霧をスクリーンとして、僅かに揺れていた。その手前を誰か子供が離してしまったのだろう、赤い風船が無邪気に浮かんでいった。

その姿を見て、私はすぐさま龍に駆け寄っていきたい衝動に駆られた。巨大過ぎるもの。強大過ぎるもの。人間の手に負えないもの。日常を壊し尽くしてしまうもの。そんなものを目の前にした時、人は冷静ではいられない。

階段をゆっくり降りた。スヴェンは先程と全く同じ姿勢で本を読んでいた。時折、もそもそと口が動くのでパンを咀嚼しているのだろう。

「龍を見てくるね」

「うん。気をつけて」

チラリとも見ずに、スヴェンは言った。帰ってきても、彼はきっと同じ姿勢をしている筈だ。

玄関のドアを開け、雑木林へ続く道を進んだ。雑木林を抜けたところに広がる草原に龍がいると聞いている。森林に充満する土の匂いを吸い込み、柔らかな腐葉土の上を歩いた。陽光が霧に乱反射して思わぬところに光がある。

風が凪いだ。

いや、巨大すぎる龍の身体が風を防いでしまっているのだ。黒く隆起した岩石に赤々とした棘が乱立した巨大な軀がそこにあった。

龍は身動ぎひとつすることなく、そこにいた。周囲には見物客がちらほらと見えた。皆、一様にカメラを構え、巨大な龍を撮影していた。中には龍の肌に触れ、興奮している者もいた。

なだらかな丘の道のように伸び行く龍の尾が私の前に悠然と広がっている。龍の尾を大袈裟なリュックを背負った男が軽快に降りてきた。

龍の旅人だ。

誰が始めたのかはわからないが、龍の背を山の代わりにトレッキングする行為が当たり前のように普及している。龍の旅人なんて大層な名称が付けられているが、子供からお年寄りまで幅広い世代で行われている謂わばレジャーのようなものだ。

龍は巨大で、一目ではどれくらいの大きさがあるかわからず、どこに着くのかもわからないし、どれくらいの距離があるかも大まかにしかわからない。けれど、どうやらそういうところがウケたらしい。

背を歩かれる龍にとってみれば、迷惑千万な話だが、彼らは優しくおおらかな生物であるので、暴れて被害を出すこともない。ただ、ジッと人間が歩き渡るのを待っている。

「こんにちは」

男は私に気がつくと毛糸の帽子を脱いで、和かに微笑んだ。綺麗な禿頭は運動で上気したのか、茹で蛸のように赤くなっている。

「頭までどれくらいの距離でしたか」

悠然とそびえる龍を見上げて、彼にそう尋ねた。男はダウンジャケットの袖をめくり、腕時計を確認すると「7時間くらいかな」と言った。

「でも、私は龍の頂上で食事をしたり、羽休めをする鳥の写真を撮ったりしていたから、真っ直ぐ歩けばほんの5時間程度かな」

「そんなものですか」

「どうやらまだ若い龍らしいね。私が歩いた中で一番巨大だった龍は、頭から尾の先まで一週間かかったもの」

男は自慢げに胸を張った。長い旅路ほど龍の旅人界隈ではステータスになるらしい。

「頭の方はどこに続いてますか」

「どこに繋がっているかを伝えるのは、龍の旅人としては、タブーなのだけどね。貴女は龍の旅人ではないし、問題ないか」

男は隣の市の地名を答えた。意外と近い。いや、麻痺してるだけで充分に巨大だ。優に20キロ以上ある。

「興味があるなら登ってみると良い。格別だよ」

男の言葉に胸が躍った。そう言って欲しかったのかもしれない。緩慢な毎日に退屈していたところだ。ほんの少しの冒険くらい、スヴェンも文句は言うまい。

「この格好だと寒いでしょうか」

シャツにニットのカーディガンを羽織っただけの姿だ。散歩がてら見物しにきただけだから、仕方がない。男は笑いながら頷いた。

「勿論。高さもあるからね、こいつは。ダウンジャケットがベストだよ」

「ちょっと着替えてきます」

私の返答に男は驚いたように目を開いた。

「決断力のある人だ。そうだね、私はこの街を少し歩いて、家族に土産を買ってくるから、1時間後にここに集合することにしよう。一緒に登ろう。帰りは向こうからバスが出ている筈だし、晩飯時には帰ってこれるはずさ」

私は小さく頷いた。胸の奥から沸き起こる小規模な冒険への期待に酔っていた。

「自己紹介がまだだったね。ウォルトン・ロッテンベルク。大学教授をしている」

ウォルトンはそう名乗り、身綺麗な革製の名刺入れから滑らかに名刺を取り出した。出せるものなど何もないので、名刺を受け取りお辞儀をした。

「先生なのですね」

「そんな大層なものでもない。定員が空いていて、運良く潜り込めたようなものだから」

「それでもすごいことです。あ、私はマクダ・ギーゼブレヒトです」

「よろしく、マクダ。君と会えたのは僥倖だ」

「それでは、先生。また後で」

「ああ」

ウォルトンと別れ、私はスキップをしたい心持ちだった。龍の背を歩く。雲よりも高い場所を、それも偉大なる生き物の背を歩く。破格の値で買った底の薄いスニーカーが、龍の背を踏む。実感が沸かない。スピーディーに進んで行く展開に、私は私が登場するフィクション映画を観ている気になった。

「あの人に行き先だけは伝えておかないと」

スヴェンはなんと言うのだろうか。驚くだろうか。反対するだろうか。ひょっとしたら、なんの反応もなく、「行っといで」で済ましてしまうかもしれない。

夫の反応を想像し、くすくすと笑った。玄関の扉を開けて、スヴェンを探したが、彼の姿はなかった。スヴェンの定位置、ダイニングに置かれたテーブルの上には一枚のメモ用紙が置かれていた。

「夕飯の買い物に出かける。良い子牛の肉を買ってくる」

短くまとめられた文章に少し苛立った。スヴェンに対して私の予想はことごとく外れる。思い通りに動いてくれた試しなどない。いつも自由に生きている。そこに惹かれたのは事実だが、時折、何故一緒に暮らしているのかと疑問が浮かぶ。

メモ用紙の書置きの下に、「龍の背を登ってくる」と殴り書いた。そのまま寝室へと向かい、防寒に優れていそうな上着を取り出し、軽くリビング周りの清掃をしてから、ゆっくりと身支度をした。昼食がまだだったので、近所のパン屋でベーグルサンドを買って歩きながら食べた。スモークされたサーモンの塩気がオリーブの風味と合って絶品なのだ。包み紙に印字されたペリカンのイラストが可愛らしい。

約束の時間より5分ほど早く到着したが、ウォルトンは既に龍の尾の先で待っていた。手に持つ土産の入った袋をリュックサックへと詰め込んでいる。

「お待たせして申し訳ないです」

「いや、私も今来たところだよ」

「お土産には何を?」

「うん。オリーブが特産なのだね。家内にオイルと晩酌用に塩漬けを一瓶」

「良い買い物をされました」

この地域のオリーブは上質で、遠方からわざわざオイルを取り寄せるレストランもあると聴く。実そのものも特別品で、この地域のバルでは下手なつまみを注文するより、オリーブの塩漬けを頼む客の方が多い。

「それでは、登ろうか」

リュックを背負い、少しも気負わずにウォルトンは言った。龍には登り慣れているのだろう。緊張など微塵も感じさせない雰囲気だ。

ウォルトンの上気する禿頭を思い出し、ふいに微笑む。安堵を覚える風貌だ。

どんどんと岩の道とも思える龍の尾を踏み進めるウォルトンに続いて、最初の一歩を踏み出した。この一歩は私にとって小さな一歩かもしれないが、意味のある一歩だ。有名な宇宙飛行士の言葉を思い出した。

ごつごつとした龍の肌は、舗装されていない岩山のようで酷く歩き辛かった。転んだら切ってしまいそうなほどに、肌は隆起していた。しばし、ウォルトンに続き、無言で歩いた。きっかり、30分程登った頃だろうか、やけに勾配が急になった。膝に力を込めなければずり落ちてしまいそうだ。

ウォルトンは慣れた足取りで跳ねるようにして、軽快に登っていく。私はその後ろを這うようにしてついていく。龍の肌からは硫黄の香りが立ち昇っている。

「これは、可燃性だったりしますか?」

「いや、どうも、龍は溶岩や岩石を食べるみたいだから、この匂いはその成分なんじゃないだろうか。少なくとも背中でコーヒーを沸かした時、爆発は起きなかったよ」

ウォルトンは勢いよく笑った。彼なりのジョークなのかもしれない。

「それにしても、突然、急勾配になりましたね」

私は肩で息をしてウォルトンに声をかけた。

「尾っぽの尻辺りにまできたからね。一番きつい角度だ」

誰か先人が残したのだろう、長く垂れ下がったロープがあった。落下することはないだろうが、滑落の可能性はないこともない。そっとロープに触れた。

「たまに横風が吹くから。龍の守護が効かないこともある」

龍には力がある。

大過ぎる力は漏れ出す光のように、滲んだまま私達に恩恵をもたらす。雨風雪。そういった自然の力は、龍の周囲には殆ど入り込まないと言う。それを龍の守護と呼ぶ。しかし、その守護が効かないということなど初耳だ。

「効かないことなんかあるんですか」

「そりゃああるさ。龍も四六時中、気を張り詰めたくはないだろう。時折、ごう、と風を感じる」

私は触れていたロープを強く握りしめた。

「安心しなさい。これまで龍から落ちた人間は一人だっていない。酔っていたって大丈夫だ」

ウォルトンの口ぶりから、彼が何度か飲酒をしながら龍の上を歩いたことが想像できた。それはきっといい気分なのだろう。自分の覚束ない足元を思い、私はやめておこうと思った。

しばらくすると、ほんの少しだけなだらかになった。平坦とまではいかないものの、リラックスして歩けるほどだ。

ウォルトンが前方で親指を右方へ示している。言われるがままに彼の指差す方へ顔を向けた。

街が一望できた。

冷たい外気に冷やされないように暖炉に火を焼べているのか、煙をもくもくと生やす煙突が乱立する見事な風景だった。自分が住んでいる街は眺める視点を変えるだけで、まるっきり別の街に姿を変えた。あのひとつひとつの煙突の下に誰かが家族と暮らし、パンを焼き、生活を営んでいるのだと他人事のように思った。今朝までは私もあの煙突の中の一本の下、暖まった部屋で食事を作っていたと言うのに。

目の眩む高度からの景色が産む非日常感と、不安定な足場の産むヒリヒリとした現実感とが薄い膜で境界を作っていた。何度も膜を破り、そのどちらにも私は存在していた。

空気は澄みきり、吐いた息は外気のせいで白く曇った。その濁りが地上の不純物のようで、なおさら空の純粋さを感じた。

私はしばらく景色に釘付けになった。視線を逸らしたまま、龍の背を歩いていた。

ふと、我に返り、ウォルトンの姿を探した。

よく見ると、ウォルトンはしきりに龍の背に視線を送っている。何かを探すようにして。

「何か探しているのですか?」

気になってそう声をかけると、はっとしたようにして、ウォルトンはこちらを見た。照れたように頭を掻きながら、なんでもないと首を振った。

「いや、なに、しばらく前に龍の背に腕時計を落としてね」

「大変。高価なものですか?」

「なんのことはない時計だ。就職祝いに父が買ってくれた、まあ、そこそこの値打ちの時計なんだけど。なくなっても大慌てしない程度の、そんなものだ」

「それでも、探すということは、大切な物なのでは?」

言い澱むようにウォルトンは口をすぼめた。それから言いにくそうにぼそりと言葉を発した。

「三年前、父が死んだんだ。脳出血で」

普段暮らす街の遥か頭上で聴く話にしては、現実的な言葉だった。

「昔から仕事熱心な人でね。やっと定年を迎えたと思った矢先のことだった」

「それは残念なことです」

「特別、親子仲が良かったという訳ではないけれど、なんだかあの銀時計をなくしたことがとても惜しくなってしまってね。父が私に贈り物をしてくれたことなんて、記憶を辿る限りあの一度きりだ。父がいなくなった途端、あの唯一の贈り物を手元に置いておきたくなったんだ。現金なものだろう?」

自嘲するように顔を歪めるウォルトンの顔にはしっかりと後悔が浮かんでいた。

「勿論、この龍があの時の龍だという確証はないけれど、どことなく似ている気がするんだ。ひょっとしたらという希望のせいで、普段よりもゆっくり歩いている」

「私も手伝います」

「いやいや。それには及ばないよ。わざわざ手を煩わせることではないから」

「ただ歩くのも、下を見て歩くのも同じことです。手伝いますよ」

「下を見て歩くのは、勿体無くはないかい?周りに普段見ない高さのものがあると言うのに」

ウォルトンは私を気遣うようにして、そう言った。龍の旅人として、折角の景色を楽しませないのも彼の信条に反するのだろう。

「下は龍の背ですよ。これも普段見ないものです」

私は頑固にそう宣言し、龍の背に目を凝らし始めた。火山帯の地面。黒々とした黒曜石の塊。龍の背中は鈍い光を放っていた。

私の言葉にウォルトンは小さく頷くと、龍の背に目を落としながらゆっくりと歩き始めた。私の側までくると、優しい声で「ありがとう」と呟いた。

龍の背中には様々なものが落ちていた。

風で飛ばされた花の種や萎んだ風船、誰かのTシャツも見つけた。龍の守護は、本当のところ、結構いい加減なのかもしれない。

それでも、ウォルトンの時計は見つからないでいた。そもそもが巨大過ぎる龍の背中から、小さな時計を探すという不可能な行為で、ウォルトンが時計を落とした龍が、私たちが背を歩く龍だという根拠もない。それでも、私達は希望を持って龍の背中に目を凝らした。何処までも遠くに龍の背中は続いていた。

いつしか、空の色がオレンジへと変わっていた。澄んだ空から光を含んだ水分が融け出しているように見えて、美しかった。

ウォルトンは首を振りながら、「もう降りないといけない」と悲しそうに言った。

「けれど……」

私は抗おうとしたが、ウォルトンの表情は意外にも明るかった。次第に寒さが増していて、厚着をしていても、歯がカチカチと鳴った。ウォルトンはそんな私の体調の変化に気がついていた。

「無理をすることはない。もともと、もしかしての範疇だったんだ。どうも、この龍ではなかったらしいね」

ウォルトンの言葉に従って、暮れなずむ空を後にした。龍の首はどうなっているのだろうと思っていたが、龍は身体を伏せているらしく、なだらかな坂道が長らく続いているといった様子で首は伸びていた。その上を滑り落ちないよう慎重に進んだ。

龍の顔には大きな木製の梯子がかけられており、それを降った。梯子とは逆の側面には簡素な滑車が取り付けられていた。不思議に思って眺めていると、自転車やバイクを昇降させるものだとウォルトンが教えてくれた。龍の上をサイクリング。なんとも背筋の冷えない趣味だと思ったが、現にそのための器具が取り付けられているというのならば、一定の需要があるのだろう。

梯子を降りる途中、眼前に迫る龍と目が合った。彫刻のように身動ぎもせず、そこに留まっている存在だと、誰かに定められたかのようにして龍はそこにいた。

赤褐色の瞳は紫に染まる空の光を吸収しており、ステンドグラスの彩色を思わせた。顔の皮膚に手を触れてみた。岩の手触りだが、奥深くに燃えるマグマの熱を感じた。この存在は生命力だけでこの街を焼き切ることが可能だろう。

「これが龍だよ」

ウォルトンの言葉に、私はこれまで読んできた御伽噺の中の存在だった龍の背を歩いてきた事実に今更ながら気がついた。

そうだ。

私は、龍の背を歩いたのだ。

ここに臥せる強大な生物の背を。

スニーカーの中の足が熱くなった気がした。龍の体温が乗り移ったようだった。

「先生、今日は本当にありがとうございます。貴重な経験ができました。私、本当に龍の上を歩いたんですね」

私の言葉にウォルトンは満足気に微笑んだ。何から何まで世話になったが、彼の落し物は結局見つからず終わった。そのことが心残りだ。

死んだ父からの贈り物。その喪失はどれほど彼の心に穴を開けているのだろう。私の父はまだ存命で、月に一度は電話をくれる。だから、まだ彼の心持ちは本当の意味では、私には理解できていない。

「さて、せっかくだから珈琲でもご馳走しようと思ったが、もうこんな時間だ。お家の方も心配するだろうし、マクダ。君はそろそろバスに乗るのがいい」

ウォルトンは交通の多い道路を北に指差した。彼の住む街が煌々と灯りを放っている。

「私はあちらへ少し歩いたところから電車にのるつもりだ。君は反対方向に少し行ったところにあるバス停へ向かうといい」

「わかりました。本当にありがとうございました。このお礼はまた今度」

「ああ。そうだ。折角の出会いだ。また後日、うちの方においで。家の方を連れてね。妻を紹介しよう」

そう言ってウォルトンはリュックサックからボールペンとメモ帳を取り出し、几帳面な字で住所を書き、私にくれた。それから龍の上を歩いたばかりだと言うのに、軽快な様子で街の方へと歩いていった。

ウォルトンを見送った後、私はしばらく龍の顔を見上げていた。私がさっきまでその背を歩いていた生物。空を破るほど強大な生物。その顔をしっかりと心に刻み込もうと思った。カメラの類は持参した携帯電話に内蔵されたものだけで、そのカメラもこの闇の中では上手く機能しない。せめて、記憶にだけは刻み付けたいと思った。

どこかで私の名前を呼ぶ声がした。

見上げていた顔を更に上げると、龍の頭部から身を乗り出すようにして、スヴェンの姿があった。驚くことに彼は私が買い物の時などに使う、所謂、ママチャリに乗っていた。

「スヴェン!?」

「探したよ!マクダ!君のせいで今夜はシチューがお預けだ!」

「わかったから、とにかく降りてきなさいよ」

「うん。僕もね、そのつもりなんだよ。勿論。だけどね、降り方がわからないんだ。どうにかしてくれないかい?」

スヴェンは不安そうな声をあげた。蚊の鳴くような声で、彼がとてつもなく困惑していることがわかる。

「側に滑車があるでしょう?それを使うらしいわよ」

「暗くてよく見えないよ。さっきまでこの闇の中、自転車の明かりだけで龍の背のデコボコ道を走ってきたんだよ。膝が震えっぱなしさ」

私は呆れ果てながらも、携帯電話のライトを付けてみる。それでも、龍の頭部にいるスヴェンまでは優に50mはある。光は届かない。

「ああ、その手があるか」

スヴェンが腰のあたりをごそごそとやると、暫しののち、小さな白い光が目に映った。彼も携帯電話のライトを灯したのだろう。

「ここに括り付ければいいのかい?」

「知らないってば。私だって使ったことないのに」

「そんな、君、薄情だよ。おや。どうやら、正解らしい。下の方でもロープを引いてくれ。僕の腕は震えっぱなしだ」

「情けない」

「仕方ないじゃないか。龍の上がこんなに寒いだなんて聴いてない。僕はパジャマのままなんだよ」

呆れた。スヴェンは龍の背をパジャマ姿でサイクリングしたらしい。それも闇の中、ママチャリを使って。無謀としか言いようがない。この話をすれば、ウォルトンは目を丸くして驚くだろう。

尚も喚くスヴェンを無視して、ロープを引いてみる。ずっしりとした重みとロープの軋む音がして、見慣れた私の自転車が姿を見せた。馬鹿馬鹿しいピンク色のファンシーな逸品だ。

「ほら。梯子を降りてきなさい」

「わかったよ」

スヴェンが落ちないかどうか、ハラハラしながら眺めていたが、スヴェンの姿勢は割合、安定していた。久々に地に足を付けたスヴェンは安堵の溜息を長々とついて、涙目を私に向けた。

「ビックリするじゃないか。急に龍に登るだなんて」

「仕方ないじゃない。あなた、留守にしていたんだもの」

「僕がどれだけ心配して……。買ったばかりの子牛の肉をキッチンに置きっぱなしだ。きっと、ボルドーに食べられてる。あの食いしん坊は少し目を離すと肉をムシャムシャやってしまうからね」

飼い犬のボルドーはバーニーズで、躾はひと通り済んでいるが、こと肉類に対しての「待て」だけが苦手で、これまでも何度か買ったばかりの肉製品を盗み食いされている。

「あなたが私を追いかけてくるなんて、思いもしなかった」

本心から出た言葉だった。いつも私のことなんてお構いなしだから、興味もないのだろうと思っていた。

「当たり前じゃないか。君が居なかったら、じゃあ、僕は誰の為にシチューを作ればいいんだい?ボルドーかい?やだね。あいつは調理前の肉でも「絶品」って顔をするぜ。作り甲斐がないよ」

冗談めかして言うスヴェンだが、彼の言葉の中に照れのようなものを感じた。ジョークを持って精一杯の照れ隠しとしたのだろう。それが無性に嬉しかった。満たされた気持ちだった。

「君が見つかって安心したらお腹が空いてきたよ」

スヴェンが腹の辺りをさすった。私も空腹感を感じていたところだ。

「そうね。今は何時頃かしら。どこかで夕食でも食べて帰りましょう。シチューはまた明日」

携帯電話で時刻を確認しようとすると、スヴェンがそれを制した。

「ちょうどいい。龍の背中でね。時計を拾ったんだ。自転車が踏んづけてね、バランスを崩して危うく真っ逆様だった」

「え?嘘でしょ?ちょっと見せて!」

スヴェンの手のひらの中には小さな銀時計が収められていた。まさかと思い、銀時計をひっくり返す。背面に引っ掻いたような文字で、ウォルトンの名が刻まれている。

不思議なこともあるものだ。

私は驚きながらも冷静だった。

私を追ってきたスヴェンが、偶然にもウォルトンが数年前に無くした時計を拾った。その時計はこの世界で無数いる龍の背中で無くしたものだ。どの龍の背に時計があるかなど、誰にもわからない。

それでも、今、スヴェンの手の中にはウォルトンの時計が収まっている。

世界は広く、不思議なこともたくさん起こる。見ようとしないだけで、見方を変えるだけで、案外にして、すぐ側に幸せはある。誰も気が付いてないだけで、奇跡なんてものは掃いて捨てるほどあるのだ。

龍という存在も、現に目の前にある。私はその背を歩いたし、スヴェンは自転車で渡ってきた。

「ねえ、スヴェン。自転車の後ろ、載せてくれないかしら」

「構わないけど。これから引き返すなんて言うんじゃないぞ。もう僕はごめんだ。あんな怖い思いしたくないから」

「違うわよ。寄ってほしい住所があるの」

私はウォルトンにもらったメモを取り出した。彼は今頃、帰路についているだろうか。別れてから大して時間が経っていないから、ひょっとしたらまだ電車の中かもしれない。

ゆっくり、スヴェンの漕ぐ自転車に乗って、ウォルトンの家に時計を届けに行こう。時間はたっぷりとある。送り届けた後は、この街で久々にスヴェンと食事を取ろう。ウォルトンならば、この街の美味しいレストランをきっと教えてくれる筈だ。

スヴェンはまだ事態が飲み込めてないらしく、不安げな表情を浮かべている。私はひょろりとした情けない彼の背中にしがみ付いた。ウォルトンの家までの道のりで、このひょろひょろの背中越しに、龍の背の上であった不思議な出来事について話をしてやろう。

背後で突風が起きた。

静かだった龍が、ひとつ、呼吸をした。

遊具修理者

 


今年の夏はかつてない程の猛暑で、ジャングルジムを作るのが困難だった。

材料の鉄とニッケル、それからプラスチックの混合物が暑さで化学反応を起こし、塑性、粘性がバラバラになり、上手く形を保てなくなった。土地開発が進み、やっと重い腰を上げた自治体が、この夏多くの幼稚園を建設し始めたことで、遊具の制作依頼が山のように舞い込んだ。新しく作ることも勿論だが、修理の依頼も矢継ぎ早に事務所へやってきた。元々あった遊具がこの夏の暑さでへばり、ぐねぐねに歪んでしまったからだ。大手の遊具メーカーの仕事は迅速で安価だが、このような不測の事態に上手く対処することが難しい。そのため、私の事務所のような小さな会社に依頼が舞い込んでくる。従業員にして僅か6人の小さな会社だ。

冷房の効いた簡素な事務所にはキーボードを叩く音が反響している。単調なリズムは白い壁に吸い込まれることもせずに、狭い12畳間にこもり続ける。デザインを担当している坂木がメガネを外し、眉間をマッサージし始めた。

「そろそろひと休みいれたらどうだ」

CGで遊具の模型を作成する作業は、いまのところ坂木にしかできない。入社して5年目になるが、彼がいなければこの会社はとうの昔に経営破綻を起こしていただろう。彼以外の職員は私も含め、遊具職人としてやってきたものだから、パソコンなんてものはいじる事ができない。しかし、CGで作成した模型があるだけで作業効率は格段に上がる。この夏の忙しさを一身に引き受けているのは間違いなく坂木だ。

「や。そんな訳にはいきませんからね。ほら、まだまだ発注が山のようです」

坂木は疲れた顔に無理に笑みを浮かべた。他の職員達はみんな、外出していて、事務所内には私と坂木しかいない。

「すまんな。来年にはもう一人デザインで募集をかけるつもりだから」

「や。正直、このクソ暑い中、外で作業する皆さんに比べたら、俺なんてまだまだっスよ。社長も午後から製作ですよね。これからまだ気温上がるらしいんで、熱中症気をつけてくださいね」

坂木は気のいい人間だ。職人気質な我々を馬鹿にせず、ちゃんと敬って自分の仕事を黙々とやってくれる。だから、彼はうちの職員から可愛がられている。

「あ、これ、今日の分です」

A4の紙に印刷された今日の午後に作る分のジャングルジムの模型を手渡された。螺旋がいくつもあり、夢の中の情景のようで目が回りそうだった。

「やけにアーティスティックだな」

「そこの園長、こだわり強そうだったので」

どこかで聴いたことのある宗教法人が運営する幼稚園からの依頼だった。掲げる思想が強く、大手の遊具メーカーから敬遠され、断られてきたのだろう。

私は電子ケトルのスイッチを入れた。今日使う分の材料は既に社用車へと詰め込んでいる。後は、指定の時間までゆるりと待ち、社員の篠原と現地で合流するだけだ。彼は今、横浜にある児童公園のジャングルジムを補修している。

電子ケトルが音を立てながら湯気を吐いた。インスタントのコーヒーをマグカップへと掬い入れていく。

「お前もどうだ?」

「いただきます」

あまり味の良くないインスタントコーヒーに湯を注ぐ。事務所の入った古い雑居ビルの一階に、今時それでやっていけるのかと心配になる生活雑貨屋がある。絵画のような老夫婦が経営しており、このインスタントコーヒーはそこで購入している。味は不評だが、不思議にこのインスタントコーヒーを飲むと目が冴える。何か非合法の成分でも含有されているのではと疑いたくもなる。

坂木のデスクにマグカップを置いてやると、彼は嬉しそうに口をつけ、眉間に皺を寄せ、それから、ひょっとこのように口をすぼめた。

「相変わらず不味いっすね」

私は頬を緩め、煙草に火をつけた。狭い部屋な上に、換気扇の調子が良くないので、煙はすぐに部屋中に充満した。煙の充たされた水槽で泳いでいるような気分になる。

坂木は不味そうにコーヒーを啜り、作業に戻った。彼のデスクトップパソコンの上に置かれた小さなサボテンがキーボードのタイプに合わせて揺れた。

「そろそろ時間だ。出るよ」

「お気をつけて」

「他の連中が帰ってきたら、冷凍庫に買っておいたアイスがあると伝えといてくれ。安っぽいが美味いんだ」

流し場に置かれた灰皿には吸い殻がこんもりと積もっている。その中央へ煙草を押し付け、火を消した。フィルターの焼ける嫌な臭いがしたので、残っていたコーヒーをマグカップから注ぎいれた。煙と共に嫌な臭いは消えた。

靴を履いて嘘のように軽い事務所の扉を開いた。見送りに立った坂木に手を振り、埃の積もった暗い階段を降りていく。どんどんと大きくなる蝉の声の中を遊覧し、強い光へと飛び出した。刺すような日差しが私の身体を襲った。逃げるように社用車へと急いだ。雑居ビルの向かいにある猫の額ほどの貸し駐車場に止まった白のセダンの鍵を開けた。案の定、車の中はサウナのように蒸した。熱帯雨林が燃えると、周囲はこんな感じだろうと物騒なことを考えた。

エンジンをかけて、車内空調をつけると、駐車場でもう一度煙草に火をつけた。ぎらぎらと肌を焼き続ける日差しと、鬱陶しいほどに垂れてくる汗に苛つき、結局、殆ど吸うことなく煙草を地面に捨てた。

 

 

 

 

 

 

閑散とした住宅街の中を進んで行くと、見るからに異物のような派手な外観の建物に巡り合った。紫色に金色。赤にピンクに、青色の壁。醜悪と呼べるセンスだ。まさかここではないだろうなとうんざりしつつも、一際大きな門の前に篠原の姿を確認した。

セダンから降りると篠原がなんとも言えない顔で建物を眺め、ぎこちなく笑みを浮かべた。私からは見えないが、私の表情もきっと彼と同じようなものだろう。

「すごいですね」

「ああ」

篠原はなんとかその言葉を絞り出したようで、ほかに形容の言葉が思い浮かばないといった様子だった。

「少なくとも、ここが幼稚園だとは誰も思わんだろうな。よくて、現代美術館だ」

私の軽口に笑みを浮かべ、腕時計を確認する。

「少し早いですが、園長に会いましょう」

この場所に出入りしているところを誰かに見られたくない。篠原の提案に賛同した。

門に付けられたインターホンを押した。インターホンにはカメレオンのオブジェが付けられていた。こんなことでは驚かなくなった自分がいた。

「はい」

「山友遊具です」

「はい、承っております。どうぞ、中に」

門をくぐると子供達の笑い声が聞こえてきた。その声に安心した。外観がどうであれ、中身がしっかりと機能しているのであれば問題ない。私たちも職務を全うできる。

「広いですね」

園庭を見渡し、篠原が言った。今は園庭の開放時間ではないのだろう、子供達の姿は見えないが、たしかに園庭はかなりの広さだった。すべり台。ブランコ。うんてい。シーソー。砂場。そして充分な運動場。都内でここまで設備のある園庭も珍しい。

私たちは来客用玄関で、しばらく待った。玄関には仏像やらガネーシャ像やらキリスト像やらが雑多に並べられていた。奥の方から袈裟姿の坊主がやってきた。風貌から信じ難いが、どうやら彼が園長のようだ。

「ああ、どうも。お待たせしました」

「時間も時間ですし、早速作業に取り掛かりたいのですが」

「ええ。そうですね。では、園庭の方に」

園長について園庭へと向かった。

「今は開放時間ではないのですね」

蝉の声にかき消されないように少し声のボリュームを上げて園長に聞いた。彼は首を振った。

「この酷暑でしょう。子供達としては外で遊びたいでしょうが、親御さんから預かる身としてはこの暑さで外に出そうとは思いませんね。今年の夏は駄目でしょう。ですので、秋に間に合うよう新しく遊具を作りたいと考えたのです」

私と篠原は納得したように頷いた。篠原の顔からは「ちゃんとしているじゃないか」という安堵が伺える。

私は園長に模型のイラストを見せた。園長は満足げに「ほう」と漏らした。

「いいですね、いいですね。非現実な形ですが、これはちゃんと成り立つのですか?」

「可能です」

「それでしたらこれでお願いします」

園長はカラーコーンで囲まれた一定の区間を示した。ここに作れということだろう。私と篠原はうなずき合い、持ってきていたバケツからよく練ったパテを取り出し、勢いよく伸ばし、螺旋を描いて広げていった。長い棒の先端にくっ付いたパテは粘性を保ちながら、水飴のように長く伸びた。

「社長。土台からやりますか?」

篠原が私の伸ばすパテを眺めて尋ねてきたが、私は首を振った。

「いや、先に上から作っていこう。この暑さだ。地面の方が温度が高い」

「そうですね。では、取り掛かります」

篠原は特別製のバーナーと冷却器を取り出し、私が伸ばし、渦巻いたパテを綺麗に固め始めた。火花が散り、温度の差から陽炎が産まれた。

「はぁ。すごいもんですね」

園長が感心したように息を漏らした。私と篠原は集中してどんどんとジャングルジムの形を作っていった。夕暮れ時とは言え、まだまだ暑く、私たちはひどく汗まみれの姿だった。

作業時間はおよそ一時間に上った。いつのまにか陽は傾き、ビル街の向こうに姿を隠そうとしていた。

沈みゆく太陽に当てられ、完成したジャングルジムが歪な長い影を地面に落とした。額に浮かんだ汗を作業着の裾で拭った。園長の顔には驚くことに汗ひとつ浮かんでいない。 

「こんなものでどうでしょうか」

私は園長の顔を見た。

「ええ、ええ。文句の付け所もありません。素晴らしい出来です。あなた方に依頼して良かった」

「まだまだ接合部が緩いので、あと一週間ほどは使用できませんが、これで完成となります。気温の方も問題ない素材配合を心がけましたので、まあ、大丈夫でしょう」

私と篠原は作業に使った器具を片付け始めた。疲れがどっと押し寄せてきた。

「お疲れでしょう。どうぞ、園内へ。冷たいものでも用意します」

外観の派手さとうって変わって、内観は当たり障りのない色彩だった。ところどころ宗教を感じさせる小物が置かれていたが、それ以外は普通のどこにでもある幼稚園だった。

私たちは案内されるままに園長室へと通された。机と椅子、教育関連の本の詰まった本棚、それと小さな冷蔵庫があるだけの簡素な部屋だった。

「お茶とフルーツ牛乳どちらにしますか」

園長は冷蔵庫の扉を開けてペットボトルの烏龍茶と紙パックを掲げた。

「お茶を」

「あ、じゃあ、フルーツ牛乳を」

そう答える篠原を肘でつつく。いい大人がクライアントの前で飲むものではない。甘党の篠原は恥ずかしそうに頬をかいた。

「私は好きでしてね、この飲み物が。いやあ、良かった。どうぞ遠慮なく」

冷蔵庫の上に並べられたコップを二つ差し出され、お茶とフルーツ牛乳をそれぞれ注がれた。

「遊具を作るって仕事はとても素晴らしいものですね」

園長は私たちを労うような口調で言った。機嫌をとるために仕方なく言っている風ではなく、本心からの言葉に思えた。

「私もこういう立場ですから、よく思うのです。子供ってのは本当に宝だと」

「ええ、そう思います」

「これから先、私たちが見ることのできない距離まで未来を生きることができる。それだけで素晴らしい。私はね、今を生きる子供たちにバトンを渡したいんです。後の世界は君たちに任せるよ。そう言って死んでいきたい。その為に必要なことは沢山あります。それこそ山のように」

フルーツ牛乳を袈裟姿のまま飲む園長は傍目に異様に写った。それでも、彼の悟った顔、何かに安堵する顔は私に荘厳な印象を与えた。

「遊具は子供の想像力を豊かにします。子供たちの身体を作ります。友情を育みます。次世代の彼らの財産となるものを鍛え上げてくれるもの。そんな遊具を作るあなた方の職業は、とても素晴らしいものです。私なんかよりもよっぽど尊いものです」

園長は自分の言葉を反芻するように私たちに言い聞かせた。篠原は嬉しそうに園長の言葉に耳を傾けている。私は園長の言葉を耳にしながら、少し違うことを考えた。

遊具とは何か。

子供の想像力を育み、それでいて怪我をしないように配慮されている。園長の言葉通りではあるが、同時に遊具には子供達が失敗をしないようバレないよう陰から支える姿という点もあると思っている。

その姿はどこか親に似ている。

私は丈瑠の顔を思い浮かべた。

「またいつでもいらしてください。今度は子供たちが遊具で遊んでいる姿を是非ご覧になってくださいね」

別れ際、園長はそう言って手を振った。私たちは深く頭を下げながら、幼稚園を後にした。

「自信がつきました。自分のこれまでは無駄なものではなかったっていう」

篠原の声は嬉しそうに弾んでいた。あそこまで肯定してもらえれば、たしかに気分がいいことだろう。

「流石に教職者の言葉は重かったな」

「ですね」

すっかりと日が暮れ、一定の間隔で草臥れたサラリーマンが帰路につく住宅街を社用車がゆっくりと進んだ。名残惜しむように耳の奥に子供たちの笑い声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 


盆を過ぎ、連日の猛暑が多少和らいだ頃、千枝に呼び出され、約束の喫茶店に入った。昼時だったのでランチの客がまばらに入っていた。主婦や女子学生ばかりで、作業着姿の私は少し浮いていた。

千枝の姿はすぐにわかった。店の奥の方の席で不機嫌そうに腕を組んでいる。先月会った頃には肩まであった髪がかなり短くなっている。化粧も濃い気がする。

「若作りか?」

私の軽口に千枝はきっと鋭い目を向けた。射竦められるようにすごすごと席に着いた。彼女は猛禽に似ている。

「冗談だよ」

「何か適当に注文して。お代は私が持つから」

私を無視して一息で言葉を並べて行く。私から少しでも早く離れたいといった様子だ。

ここまで関係が冷え切ったのはいつからだろうか。結婚し、子供が生まれ、家庭を守るためにそれまで以上に熱心に仕事に取り組んだ。長年勤めた会社を退職し、独立までした。勿論、子育てにも意欲的だった筈だ。息子である丈瑠には目一杯の愛情を注いだつもりだ。

父として、経営者としてのこれまでの歳月を否定するつもりはない。しかし、どうやら私は夫としては失格だったようだ。

すれ違い、自転車のタイヤのように磨耗していく千枝との関係をついぞ修復することもできず、私たちは離婚した。子供を育む遊具を作る私が、家庭を上手く築くことができていないのはなんとも皮肉なものだと笑える。

離婚してからは、月に一度、丈瑠と会う機会を貰っている。そのスパンも私としては長すぎるもので、それだけの時間しか与えてくれない千枝に不満は募っていく。その不満はいつの頃からか、憎しみと呼べるものにまで育ってしまった。私から丈瑠を奪う千枝が憎くて憎くて仕方がない。

「食事を摂ってもいいか。まだ昼を食べていない」

「好きにしたら。要件を伝えたら私は帰るけれど」

取りつく島もないな。千枝の不愉快そうな表情を見て、彼女はどんな風に笑うんだったか思い出せないでいた。

私は店員を呼び寄せ、卵サンドとアイスコーヒーを注文した。先にアイスコーヒーがやってきた。千枝の手元にはホットコーヒーの器が置かれていたが、湯気はもうすっかりと消えてしまっていた。

私を無視し続け、押し黙ったままの千枝から目を逸らし、卵サンドを口に運ぶ。もにょもにょとした潰したゆで卵とマヨネーズ、そして粗い黒胡椒が口の中で混ざり合う。悪くはないがどこか気取った味だ。味付けはもっと雑でいい。上品な味をアイスコーヒーで流し込み、千枝に話を振る。

「で?なんの用だ?丈瑠との外出は来週の筈だろう」

「もう丈瑠と会うのやめて」

時間が止まった。

私は間抜け面でサンドイッチを口に運ぶその動きのまま、固まっていた。アイスコーヒーのグラスについた結露がゆっくりと落ち、再び、時間は流れ始めた。

「冗談だろ」

食べかけたサンドイッチをプレートに戻し、椅子に座りなおす。千枝は私の顔を見ずに溜息をついた。

「会わないでって言ってんの」

あまりにも子供っぽい物言いに頭が痛くなった。離婚の際、親権に関してごねなかったのは、千枝が月に一度必ず丈瑠と会うことを約束してくれたからの筈だ。今更、その協定を破るのは狡い。

「私さ、再婚するの。職場の上司と。で、彼も丈瑠のこと自分の息子として扱ってくれるみたいでね。だから、あなた、すごく邪魔なの。今の私たちにとって」

千枝が再婚すると聞いても少しも心が動かなかった。しかし、丈瑠に新たに父親ができるとなると倒れこみそうなほどの目眩がした。

千枝は残ったコーヒーを一気に飲み干すと、鞄から財布を取り出そうとした。このまま、言い逃げのようにして、私と連絡を断つつもりのようだ。別にそれはいい。この女が今さらどこの誰と結ばれようが、私にはなんの興味もない。それでも、丈瑠と会えなくなる、丈瑠と縁が切れてしまうとなると話は別だ。

「そんなこと許されるとでも思ってるのか」

俺の丈瑠取ってんじゃねえよ。

俺から丈瑠取るんじゃねえ。

お前は丈瑠の母親かもしれないけど、俺は丈瑠の父親だぞ。

俺から丈瑠取ってんじゃねえ。

丈瑠との関係を根こそぎ奪っていく千枝に対する怒りが膨れ上がった。私は父親としてなんら間違ったことはしていない。家事も仕事も育児も問題なくやった筈だ。夫として最悪だとしても、父親としてはなんにも間違えちゃいない。

それなのに、俺から丈瑠を取るんじゃねえ。

腹の底からどす黒い感情が湧き上がってきた。身勝手な言い分を付けつける千枝に私の身体はわなわなと震え始めた。

「もう決めたことだから」

そう言い終わると千枝は立ち上がり、紙幣を机に置いて去ろうとした。その腕を咄嗟に掴んだが、大きく振り払われた。

「触らないで」

汚らしいものでも触ったように私の触れた腕を払う。大きく舌打ちをして私を睨みつけた。

「一方的すぎるだろう。俺の気持ちも考えてくれ」

「考えたくもないわ」

必死に絞り出した言葉を千枝は嘲笑うようにして一蹴した。私が千枝に憎しみを感じるように、千枝もまた私に憎しみを抱くようになっていたらしい。知らぬ間に関係は取り返しのつかないまでに悪化していた。

「ふざけるなよ。そちらの都合ばかり押し付けられて、納得なんてできるはずがないだろう」

私の大声に店内の客が好奇の目をこちらに向けた。千枝は不快そうに周りを睨みつけ、舌打ちをした。私はこの女のどこに惚れたと言うのだろうか。

「いい加減にしてよ。私たち幸せになろうとしてるんじゃない。丈瑠だって、それを望んでる筈でしょ。丈瑠のこと考えてよ」

私は声を上げようとして、そして、結局そうすることはなかった。

《丈瑠のことを考えて》

この女が最後に発する言葉はいつもそれだ。子供のことを考えろ。親の都合で振り回される子供が不憫だ。そういう含意があるのだろうが、この場合、その親に自分は当てはまっていない。私と千枝の問題のはずなのに、いつのまにかこの女は責任を私にだけ当てはめるようになった。あたかも自分は丈瑠の側だとでも言いたげにだ。

私は常々、丈瑠のことを考えて生きている。この不快な女と違って、丈瑠は私の血の通った息子だ。我が子だ。何故、お前だけが丈瑠の側にいるんだ。

「わかった。そうすればいいさ」

話しても無駄だということは10年ほどの付き合いから分かっている。この女はこうと決めたら絶対に譲らない。自分が正義だと、間違えることはないと傲慢にも思っている。

この女がその提案をしてきた段階で、いくつかの法律が味方をしないと、私に勝ち目はない。それには準備が必要だ。日本が法治国家ではないのならば、いっそのこと殴り殺してしまいたい。

「そう。納得してもらえて何よりだわ。じゃあ、ここは私が持ちますから」

「ただ、来週の外出だけはちゃんとやってもらう。丈瑠とこれで会えなくなると言うなら、最後にきちんと会っておきたい」

私の最大限の譲歩ですら、千枝は煩わしそうに顔をしかめた。どこまでつけあがるつもりなんだろう、この女は。私は無言で千枝を睨みつけた。千枝は大きく舌打ちをした。

「わかったわ。じゃあ、来週以降、二度と私たちに関わらないでちょうだい。それでいいでしょう」

それだけ言ってのけると、千枝は一度も振り返ることなく早足で店を後にした。喉の奥に酸っぱいものがせり上がってくるのを感じて、煙草を吸おうとしたが、店内は禁煙だった。それを見越して千枝はここを指定したのだろう。あの女はどこまでも私に嫌がらせをしたいらしい。

頭痛がした。

酷く惨めな気分だった。

いっそのこと今ここで殺された方がマシだとも思えた。自分の身体の一部を無理矢理に引きちぎられる激痛を思った。それほどまでに私は丈瑠を愛しているのだと、全世界に叫び散らしたかった。

店員が気まずそうにこちらをチラチラと見てくるが、どうでもいい。しばらく立ち上がれそうもない。千枝のいた位置のテーブルに彼女がこぼしたであろうコーヒーの染みが残っていた。その染みにすら、憎悪が湧いてきたので、おしぼりを染みに投げて覆い隠した。

 

 

 

 

 

 

「パパ」

駅の改札を元気よく抜けて、丈瑠が駆け寄ってきた。ハーフパンツから伸びる細い脚の先には先月買ってやったスニーカーが履かれていた。千枝に捨てられているとばかり思っていたが、丈瑠が私のあげた物を身につけているのを見て、言いようのない喜びが身体を満たした。

「おいおい。一人で電車に乗ったのか?」

「そうだよ。ママは付いてくるってうるさかったけど、僕もう9歳だからね。一人で電車くらい乗れるよ」

丈瑠は自慢げに私の顔を見上げる。約束の時間を少しオーバーしていたのは、丈瑠が迷いながら乗り換えをしたからだろう。そのいじらしさが無性に愛しかった。

私はくしゃくしゃと丈瑠の頭を撫でた。汗で濡れた髪は不思議にサラサラとしていた。くすぐったそうに身体をよじる丈瑠を抱え上げ、駐車場へと向かった。

車の助手席に乗り込んだ丈瑠は慣れた様子でシートベルトを締める。リュックサックを抱え、大人ぶった顔つきでサイドミラーを見ている。エンジンをかけ、動物園へと車を進めた。

「学校の宿題はどうだ?」

「そんなのもうとっくに終わらせてるよ」

「そうか。パパは最後までやらない派だったな」

「駄目だよ。《けーかくせー》がないなあ」

「難しい言葉知ってるな」

「こんなの《じょーしき》だよ」

使い慣れず、平仮名で表記されそうな舌ったらずな口調で丈瑠は話し続けた。私に最近の出来事を話したくてたまらないといった様子で、それが無性に嬉しかった。丈瑠の話をよく聞くためにカーステレオのボリュームを最小にした。

「今日は動物園に行くけど、それでもいいか?」

「楽しみだよ。ゾウ見たい、ゾウ」

無邪気にはしゃぐ丈瑠は今日以降会うことがないと千枝から聞かされているのだろうか。いや、聞かされていて、このはしゃぎようはおかしい。わざわざ、最後だと聞いて、浮かない顔の丈瑠なんか見たくなかったし、それはそれで良かった。

しばらくすると車は動物園に着いた。夏休み期間であるし、賑わいを見越していたが、どうにも駐車場には隙間が多い。この猛暑だ。わざわざ、屋外に家族で来る人間の方が奇特なのかもしれない。見ると、木陰にブルーシートを敷いてぐったりとした子供が父親に恨みがましい目を向けている。父親の方は、死んだような顔でチビチビとスポーツドリンクを飲んでいる。

動物園に入って、しばらくの間動物を眺めた。しかし、動物達も暑さでバテているのか、ほとんど木陰から出てくることがなかった。

キリンだけが大きすぎる自分の姿を隠すことができずにじりじりと焼かれていた。若いカップルだろうか、キリンの前で写真を撮っている。あんな時代が私と千枝にもあったのだろうか。

動物園を出て、車へと向かう。並んで歩く丈瑠の歩幅が少し遅れていることに気づいた。どことなく元気がないようにも思える。疲れたのだろうか。それとも退屈だっただろうか。かつて千枝とのデートの時もこんな風に彼女の顔つきから想像し、あたふたとしたものだ。

「楽しくなかったか?動物園」

「楽しかったけど、暑かった」

暑かった。当然の事だ。やはり無理をさせていたようだ。そんなことにも気が回らなかった自分が恥ずかしかった。

「そうだな。それもそうだ。どこかで冷たいものでも食べるか」

「アイス。アイスが食べたい」

丈瑠は目を輝かせていた。

「アイスか。どこで食べられるんだろうな」

私は携帯を駆使して、近所でアイスクリームが食べられる店を探した。売店やコンビニを除くと、アイスクリームが食べられる店は多くはない。チェーン店のカフェにパフェがあることに思い至り、車を走らせた。

 

 

 

 

 

 

茶店を出て、丈瑠に次の行き先を訪ねた。どこか高いレストランにでも行こうと思っていた。

「パパのジャングルジムで遊びたい」

丈瑠の言葉にハンドルを握る手が強張った。思いもよらない回答だった。

「ええ?なんだ、本当にそんなのでいいのか?遊園地でも美味い飯屋でも、映画館だって連れてってやるぞ」

「ううん。パパの作った遊具で遊びたい」

丈瑠は真っ直ぐと私の目を見た。少し潤んで見えた。日光で焼けたのか目は赤く充血し、今にも泣き出しそうだった。

その視線に気圧された。その目を見つめ続けていると、言葉が詰まり、身動きが取れなくなっていた。

「わかった。じゃあ、ちょっとお願いしてみる」

本来ならあり得ないことだが、私は先日の幼稚園にコールした。息子のために園庭のジャングルジムをお貸しください。こんな私的なお願いをするのは勿論タブーであるし、そもそも常識はずれである。

電話口の声は意外にも園長のものだった。受付のような人がいるものだと思っていた。突然の電話に園長は驚いていたが、それでもその声色には歓迎の意が滲み出ていた。

「勿論。大歓迎ですよ。お待ちしています」

手身近に要件を伝えると園長は快諾してくれた。許諾されたことに驚きはあったが、あの園長なら許してくれるだろうという確信めいたものもあった。だからこそ彼に電話をしたのだ。

一週間ほど前の曖昧な記憶を頼りに住宅街を走らせた。少し眠たいような柔らかな疲労感があった。

「この間の絵の大会でね、僕の絵が銀賞を取ったんだ。蝉がたくさんいる大きな木の絵なんだけど、色ぬりにこだわったんだ。木の皮なんか写真と見間違うくらいに上手く塗れたんだよ。だから、本当は金賞だって取れたはずなんだけど、多分ね、審査員の人が蝉嫌いだったんだと思う。カブトムシを描けばよかったかな」

丈瑠は調子を取り戻していた。いつもと変わらぬ様子で自慢げに最近の話をしてくれる。私は相槌をうちながら、大きくなった彼の背丈を横目に味わった。

幼稚園に着いたのは午後4時を少し回ったくらいの時間だった。日差しは弱まる様子を見せないまま、私たちを刺した。

丈瑠は幼稚園の外観に目を奪われていた。悪趣味な配色も彼にとってはおもちゃ箱のようで親しみが持てたのかもしれない。目を輝かせて感嘆の声を上げている。

「ああ、いらっしゃい。お久しぶりです」

「本日は私的な連絡を入れてしまい、本当に申し訳ありません」

「いえいえ、構いませんよ。是非、遊んでいってください」

インターホンを鳴らし、出てきた園長にお礼を言った。丈瑠も私の真似をして頭を下げた。園長が目を細めて丈瑠を撫でた。

「お父さんの仕事を見学したかったんだね」

「……うん」

「思い切り遊んでくるといい」

園長の言葉を聞くと、丈瑠は勢いよく園庭へと駆けていった。園庭には誰もいなかった。

「今は歌の時間です」

教室からは賛美歌のような調子をしたピアノの伴奏が響いた。その後で、精密な音程とは程遠い叫び声に似た歌が賑やかに聞こえてきた。

「今日でね、丈瑠と会うのは最後なんですよ」

園長は私の言葉に小さく息を呑み、それから複雑な表情になった。私の顔を見つめ、それから小さくうなずいた。

「最期とわかっていて会うというのは、突然の別れよりもきっと辛いことでしょう」

「本当はあいつがでかくなるまで見ていたかった。色んな話を聞いてやりたかった。だけど、駄目なんですよ。もう今日しか残っていない。私はあいつに何を残してやれるんだろう」

「あなたが作ったもの、あなたがやっている仕事を見せる。それがどれだけあの子の心に残るか。時間は少ないかもしれませんが、伝わることはあると思いますよ」

園長はそう言うと私に丈瑠の下に向かうよう合図をした。それから、園内へと戻っていった。

ジャングルジムに登る丈瑠の姿が風景画のようで、その背後の夕焼けが目に焼き付いた。

「当たり前のようにある遊具だろ」

私は自虐的に呟いた。いくら拘りを持とうとも、結局のところ、ジャングルジムは遊具だ。世の中にありふれて、溢れかえる。こんなものを作っている父に子供は憧れなどしない。

「でも、このジャングルジム変な形だよ。こんなの見たことない」

「まあ、そうなんだけどな。でも、それだけだ」

丈瑠はジャングルジムを下りて、私に近づいてきた。言いたいことがありそうに、しかし、その言葉を見つけられないでいた。

「すごいよ。すごい」

語彙はなく、感嘆の形容詞だけの言葉が、嬉しくもあったが無性に情けなくなった。こんな時、自分がパイロットだったら、野球選手だったら、息子はもっと具体的に感想をくれる筈だ。

「ジャングルジムがないと、高鬼ごっこがつまらなくなるよ。それに、えーっと、山登りごっこもできない」

丈瑠は言葉を探すように目を左右に動かした。その姿が愛おしく、頭を優しく撫でた。

「僕はパパの仕事、すごいと思うよ」

丈瑠はそれだけ言うと再びジャングルジムに登り始めた。それから、私の上から最近あった事をまた話し始めた。私は相槌を打ちながら、丈瑠の姿をしっかりと刻みつけた。

「ねぇ、パパ」

ジャングルジムのてっぺんから私を見下ろし、丈瑠が小さく呟いた。オレンジ色の陽が逆光で、丈瑠の顔を見えなくしていた。

「パパはいつまでも僕のパパだよね」

ジャングルジムを握る手のひらに力がこもった。はっとして、丈瑠の表情を覗き見ようとしたが、丈瑠の顔は逆光で黒い影法師のような姿になっていた。

「パパのことは大好きだよ。でも、ママのことも僕は大好きなんだ。パパもママもどっちも好きで、どっちが好きなんて僕には選べないんだけど、それでももう僕はパパと会っちゃいけないんだって」

やはり千枝は丈瑠に会うのは今日で最後だと伝えていたのだ。私の胸に沸き起こったのは、千枝への怒りではなく、丈瑠への申し訳なさだった。丈瑠は今日が最期と知りながら、私に気を遣って知らないふりをしていたのだ。

「僕、やだなあ。パパと会えなくなるの、僕、やだなあ」

丈瑠はジャングルジムのてっぺんにしゃがみこみ、すすり泣いていた。私は丈瑠に手を伸ばすことができないでいた。ただ泣き続ける息子を眺め、立ち尽くすだけであった。

私は何をやっているんだろう。

ジャングルジムが親に似ているだと、おこがましいにも程がある。私たちの関係が潰れないように、憎みあわないように、自分の気持ちを押し込めて耐えていたのは丈瑠だ。ぐちゃぐちゃに絡み合った利害と権利のジャングルジムの中を縫うように動き回っているのは子供達だ。

私は一体、何をやっているんだろう。

夕暮れが落ちて、薄闇がゆっくりとなだれ落ちて、丈瑠のすすり泣く声が響き渡るように聞こえた。蝉も子供達の声も、何もかもがなくなったように、住宅街は静かだった。

 

 

 

 

 

 

泣き疲れて眠ってしまった丈瑠を助手席に載せて、千枝の下まで送り届けるため車を走らせた。いっそのこと、このままどこか遠いところに車を走らせてやろうかと思った。遠い町で丈瑠と二人、暮らしていくことができれば、どれだけ幸せなことだろう。しかし、同時に私は気付いていた。そんなことを丈瑠は望んでいるわけではない。丈瑠が望んでいるのは、私と千枝がもう一度丈瑠のもとに戻ってくることだけだ。そしてそれは、決してありえないことだった。

約束の駅前に千枝は不機嫌そうに立っていた。私から眠る丈瑠を受け取ると、「じゃあ」とだけ言って改札へ消えていった。その後ろ姿をしばらくの間、眺め続けていた。

 

 

 

 

 

 

朝、目が覚めてテレビの電源を入れた。休日の朝は何もやることがない。冷蔵庫を開いてビールを取り出した。テレビからは天気予報が流れてくる。週明けからこの暑さは引いて、次第に秋の気候へと移るらしい。

天気予報士は「いざ秋になると思うと、少し物寂しいものですね」と名残惜しそうに言った。

全くもってその通りだとよく冷えたビールを飲んだ。パッケージには紅葉の絵が描かれていた。夏が終わった。

台風一過

 


窓ガラスを勢いよく雨が叩く。どこか遠くで何かが転がるような大きな音がした。窓から見える空はおどろおどろしい灰色で、渦を巻くような雲だった。

今朝方、都内に上陸した台風は大型で、現在破壊の限りを尽くしながら北へと抜けていこうとしている。本来ならこの進路は通らなかったのだが、今朝になって突然の進路変更となり、都内は大混乱だ。昨日、おとといの快晴が嘘のように、窓の外は世界の終わりと言った様相だ。

私は温くなった珈琲を一気に飲み干して、ノートパソコンを軽快に叩いた。文字列が増えては消え、増えては消えを繰り返し、結局のところ、差し引きゼロのままになった。

「奈津実君。君ね、人の事務所でカタカタカタカタ。迷惑だとは思わないのかい」

刑部禅一郎は革張りのソファーに寝転がって、ぷかぷかと煙草を吹かしている。ゆったりとした白いシャツにテーパードのかかったスラックスを履き、その長身をソファーから投げ出している。そんな不安定な体勢のまま、器用にも不機嫌そうに私の方を睨みつけている。

「仕方ないじゃないか。締め切りが近いんだ。それに客も来なければ、外はこの大荒れの台風様だぜ。僕のカタカタなんて気にならないだろう」

「台風のゴウゴウはね、風情があっていいんだが、君のカタカタはね、どうも不快なんだ。情緒もへったくれもありゃしないよ」

私は不満げに睨み続ける10年来の友人を無視して、再びノートパソコンに目を落とした。進捗は芳しくない。締め切りに間に合わないことはないだろうが、それでも、ギリギリのスケジュールになることは明らかだ。今夜が勝負どころと言ったところか。

「あー、君、無視を決め込んだね。誰が君のためにこの事務所を小説執筆スペースとして貸してあげていると思っているんだ。そうさ、僕さ。この僕だぞ。感謝こそされど、無視なんてされる覚えはない。この厚顔無恥め」

刑部は足をバタつかせて、不満を露わにした。子供のような奴だ。溜息をつきながら、刑部のもとに近づく。

「なんだよ、どうかしたのか」

「退屈なんだ。構ってくれ」

「もう30近いくせに何を言っているんだ。ほら、テレビでも見ていろ」

私はローテーブルに置かれたテレビのリモコンを操作し、ワイドショーを付けてやった。ワイドショーからは都内で多発する連続通り魔の情報を伝えていた。昨夜、また被害があったらしい。刑部は口を尖らせて「つまんないなあ」とブツブツ言っている。

私は大きく伸びをし、再びノートパソコンに向かい合った。また、外から何かが転がる大きな音がした。窓からは「刑部探偵事務所」と馬鹿馬鹿しく印字された看板が見える。暴風に晒され、情けなく揺れている。剥がれやしないだろうな。少し、心配になった。

キーボードを叩きながら、綺麗に整頓された事務所を眺めた。白い壁。ファイルや書類、書籍がびっちりと並べられた本棚。冷蔵庫。煙が登る灰皿が置かれたテーブル。テレビ。そして、刑部が寝転がるソファー。

驚くほどに簡素な事務所だ。事務所と言うくらいならもう少し飾り付けてもいいだろうが、それは、ここが探偵事務所だからという理由で説明が足りるかもしれない。

刑部探偵事務所。

私の大学時代からの友人、刑部禅一郎が経営している探偵事務所。普段は猫探しや浮気調査のような世間一般的な探偵業を適当にこなして、生計を立てているが、偶に捜査に行き詰まった警察関係者から依頼が入る少し珍しい探偵事務所だ。

そうなったのは、この自由気ままな刑部禅一郎という男の人となりに原因がある。傲慢不遜。破天荒。クソガキ。自由人。天上天下唯我独尊。刑部を評する言葉たちである。

大学時代から事件があらば、素人のくせに我が物顔で現場に乗り込み、しっちゃかめっちゃかにかき回し、それでちゃっかり事件を解決してしまう。そんな刑部の評判(悪名)は広がり、いつの間にやら名探偵と呼ばれるまでになっていた。

私は当時から友人としてその被害を被ってきた。今は彼が解決した事件を脚色し、推理小説として出版する売れない推理小説家である。自宅が近いこともあり、こうして月に数回、顔を出しにくる。

「ねえ、奈津実君、君の小説。今回はどんな展開なんだい」

刑部はテレビから視線を逸らし、大きく欠伸をした。もう飽きてしまったらしい。

「今回はニューヨークへ旅行へ行った探偵がね、連続絞殺事件に直面し、金髪美人とのアバンチュールを楽しみながら格好良く解決するのさ」

私は今作の大まかな設定を伝えた。私から話を聞くと、刑部の顔はみるみる曇っていった。

「ニューヨークだって?君んとこのバカ探偵には荷が重そうだよ。駄目だ駄目だ。あんな間抜けには無理だ。だいたい、彼は英語がてんで駄目な筈だろう?シリーズ2作目にそう書いてあったよ」

「何?それは本当か?」

刑部の言葉に手の動きが止まる。

「おいおい。自分の小説の設定すら忘れちゃっているのか、この大先生は。大御所だねえ。担当さんに迷惑がかかるよ、いっそ筆を折りたまえ」

嘲笑うように刑部は両手をあげた。私は立ち上がり、本棚までツカツカ歩いて行った。そこから、丁寧に分けられた私の作品の2作目を取り、パラパラとページをめくる。

「バス乗り場のシーンだよ」

「なになに?『前の席の外国人が何か話しているが、私には英語がてんで理解できない。隣に座る坂本に通訳を頼んだ』本当だ…!なんだこの野郎。探偵のくせに英語もできないのか。馬鹿野郎」

「子が親を選べないように、小説もその創造主を選べないのだなあ。可哀想なこと」

「どうする?通訳役を追加するか?いや、ダメだな。ラブシーンがコメディになるぞ」

「バカ探偵と金髪美人の歯の浮くようなやり取りを謎の通訳が介するなんて、間抜けだもんなあ」

「じゃあ、探偵は通信教育で英語を習ったってことで…」

「無理やりすぎて読者は大笑いだ」

「チクショウ。なら、金髪美人が日本語を話せる。しかも行動を共にする彼女が通訳役だ。これならどうだ」

「及第点。多少無理はあるけど、まあ、理屈は通っている。良かったね、奈津実君。今回もギリギリ助かったじゃないか」

刑部は上機嫌にソファーで寝返りを打った。鼻歌まで歌っている。私が失敗するのが愉快で堪らないと言った様子だ。

しかし、私は知っている。散々にこき下ろしてはいるが、彼が私の著作を全て発売日に購入して、さらにはその日のうちに読んでいることを。付け加えるなら、作者である私よりも読み込んでおり、設定から何からまで完全に網羅していることを。アララ、付箋まで貼っている。私はバレないようにだらしなく頬を緩め、本棚に本を戻した。

その時、窓ガラスが大きく音を立てた。驚いて刑部の顔を見ると、彼も何事かと窓の方を見ている。窓ガラスの外はちょっとしたベランダのようになっている。よく見ると、何かヘンテコな形をしたものが転がっているのがわかる。私は窓を開けて、吹き込んでくる雨粒でビショビショになりながらその異物を手にとってみる。招き猫だった。

「おい、刑部。見てみろよ。招き猫が飛び込んできたぞ。相当大きいぞ、この台風様は」

「ちょっと、奈津実君。そんな濡れた格好で歩き回らないでくれ。君は野良犬より汚いんだから。汁が飛ぶ」

罵詈雑言を飛ばしてくる刑部を無視し、タオルを物色する。汁とはなんだ汁とは。人を虫のように扱いやがって。

洗濯物の山からタオルを引きずり出し、髪を拭くついでに招き猫も拭いてやった。

「しかし、招き猫がベランダに飛び込んでくる。こいつはまた、ミステリな日常、いや、日常の謎とでも呼べる出来事じゃないか」

私はワクワクした気持ちで招き猫を刑部に放った。意外にも招き猫は軽く、力を込めなくても簡単に飛んだ。まあ、そうでもなければ、台風だとしても、ベランダに飛び込んでくることなどあり得ないか。

「推理合戦でも原稿の休憩がてらやってみるか」

私は浮かれて提案したが、刑部は退屈そうに招き猫を撫でるだけだった。

「サボりたいだけと見えるね。真面目にしなさい。こんなものはね、奈津実君。台風が来てるっての言うのに店先に出しぱなっしにしていた間抜けな定食屋からでも飛び込んできたものさ」

「なんで定食屋だってわかるんだい」

「作家なんだからつまらん雑学くらい沢山知ってる筈だろう。招き猫が左手を挙げている。商売繁昌の福を招く印だ。明日、近くの定食屋を当たって、のれんの上がってない店に届けるといい。それがその間抜けな定食屋の筈だからね」

「おいおい。商売繁昌だから定食屋って、かなり杜撰な推理だぞ。それになんだ?のれんの上がってない店って」

「台風が来てるってのに招き猫を店の中にしまわない間抜けだ。のれんもしまうまい。吹き飛ばされている筈だ」

「雑だなぁ。ロマンを感じない」

「現実とは概ねそういうものだ。君もいい加減推理小説家なんてあこぎな真似はやめて、市役所にでも務めるといい」

探偵事務所を経営している馬鹿に言われたくはない。

「おや、また何か飛んで来てるね」

刑部は窓を指差した。見ると確かに窓ガラスに一枚の紙がぺったり貼りついている。雨でびしょ濡れだが、なんとか読むことができる。ピザ屋のチラシだった。よく見ると、端に割引券が付いていた。

「ピザの割引券だ」

今度は雨に濡れないよう小さく開いた窓からチラシを取った。刑部は興味なさそうにそのチラシを手に取り、携帯電話を取り出した。

「ピザでも取ろうか」

「腹が減っているのか?僕が作るぞ」

私の趣味は料理だ。それなりに味に自信もあるし、刑部もそのことは知っている筈だ。

「駄目だ。僕はピザが食べたくなったんだ」

「いや、しかし、この台風の中、届けさせるのも悪いだろ」

「僕がピザと言えばピザなんだ。僕はもうお腹ペコペコのペコちゃんだ! 文句があるなら君は冷蔵庫のチキンラーメンでも食えばいい。ただし、僕は優雅にピザを食べさせてもらうけどね」

駄目だ。悪い癖が出た。

こうなると刑部は自分の意見を曲げない。

「バイト君も可哀想だが、ピザ屋でバイトすることを選ぶからこうなるのだ。僕なら迷わず探偵事務所でバイトをする。何故なら探偵が一番偉い。誰かに傅く必要がない唯一の職だ」

もう既にコールを終えたらしく、刑部は電話口でミックスピザのLサイズを注文していた。どうせあのピザの会計は私になる。損するのも嫌なので、私は何も言わないことに決めた。

「そうだ。奈津実君。冷蔵庫の中にビールが入ってるぜ。この僕に感謝しながら飲むといい」

刑部は思い出したように立ち上がり、冷蔵庫を勢いよく開けた。

「なんだ。珍しいな」

刑部は下戸だ。アルコールは全く口にしない。その刑部が冷蔵庫にビールを用意するなどどういうことだろうか。

「大家さんがね、お歳暮の余りをくだすったんだ。僕は飲めないからね、断ろうとしたんだが、ほら、うちには君という迷惑者がいるじゃないか。特に理由もないのに訪ねてくる暇人が。だから、この僕が親しみを持ってビールを冷やしておいてあげたのさ。友を思う僕の懐の深さを刮目せよ」

たかがビールで大袈裟だなと思うが、わざわざ私のために保管してくれていたらしい。ありがたく頂戴する。

タブを開けるとガスの音と黄金色の恵みが溢れて来た。私は満面の笑みでそれを口にする。美味い。やはり、執筆中のビールほど美味いものはない。

「苦くないかい?」

「苦いさ」

「そうかい。苦くないなら一口貰おうとしたんだけどね。苦いならいいや。おっと、また何かが飛んで来たね。どうも僕の事務所は異界と繋がっていると見える」

そう言って刑部はベランダへと向かう。窓を開けるとちょうど勢いよく雨が吹き込んできて彼は一気に濡れてしまった。

「今度からは下僕にやらせよう」

不機嫌そうに言っているが、下僕とはまさか、私のことではあるまいな。

「なんだ。花じゃないか。面白くもない」

刑部は手のひらから数個の花を落とした。

「面白くないとは言えないだろう。すごくヘンテコな漂流物だ」

「作家先生にとっては物語的で魅力かもしれないがね、こんなものは品性のかけらもないシロモノさ」

「バカ言え。これはあれだ。ある男が婚約者の誕生日に買ったものだ。この雨だ。どこの花屋も閉まっているはずだ。なのに、彼は婚約者のために都内中を走り回っているんだぜ」

「君ね、今時そんな古臭いメロドラマみたいなことする酔狂な奴がいると思うかい?この調子じゃあ次回作もきっと売れないだろうね。アバンチュールなんて書けやしないよ」

私は刑部を無視して、この雨の中走り回る男の姿を思い描いた。

「この台風の中、恋人に花を届けようとしてるんだ。何故かって?今日しか彼女の誕生日はないからさ。彼にとって台風なんてものは意味のない障害なんだ。ロマンチックじゃないか」

「びしょ濡れの濡れ鼠がインターホンを押して、ボロボロの花束を手渡して来るんだろ。それはラブロマンスとは程遠い。ホラーだぜ、ホラー」

「だったら、お前の推理を聞かせてみろよ。この花はどこからやってきたんだよ」

「パチンコ屋だろう」

「パチンコ屋?」

「この間、近くにパチンコ屋が新装開店したんだ。新装開店というと、例のどでかい花輪が届くだろう。あれはね、縁起物だから、しばらくの間飾るものなんだ。パチンコ屋はね、たとえ台風だろうが大雪だろうが基本的にオープンしているものだ。客がそんな時でもやってくるからね。つまりは、その花輪が風に乗ってこんなところまで飛んできたって訳さ」

刑部の推理に私はがっかりした。二度にわたってミステリな日常が台無しだ。私は熱心にノートパソコンに向かい合った。くそう。私が最高のミステリを生み出してやるからな。

「おや、また何か入り込んで来たな」

刑部は愉快そうに私の顔を見る。濡れたくないのだろう。私に取りに行けと指示を出す。私は三度、ベランダに舞い戻った。そこにはなんの変哲も無いただのレインコートがあった。

「あーあ、最後の最後に大外れだ。ただのレインコートだよ」

私は残念の表情で刑部に向き合った。しかし、刑部の表情は意外にも興味深そうなものだった。

「レインコートだと?そいつは妙だな」

さっきまでのやる気のなさとはうって変わって、刑部は体を起き上がらせている。

「おいおい。台風だぞ。レインコートなんて誰もが着ているだろう」

「君は本気で言っているのか。いくら台風でも、着ているレインコートを引っぺがす強風があると思うかい?」

「それはそうだが……。レインコートを干していたんだろう。そしてそれが飛ばされた。何も不思議じゃ無い」

「干していた。勿論、そうだろう。しかし、そうなると尚更不可思議じゃないか?昨日、一昨日、この都内は快晴だっただろう。いつレインコートが濡れる機会があるって言うんだ」

「今朝使ったのかもしれない」

「はぁ……。とことん間抜けだ、君は。そこまで行くとオロカだよ、愚鈍な亀も君よりはマシな脳みそをしているはずだ。どこの世界に雨が降っているのに、外に洗濯物を干す馬鹿がいるんだ」

「じゃあ、それ以外にどういうことが考えられるんだ」

「そうだね。昨日、一昨日は快晴だった。そして、雨は今朝から降った。レインコートは干されていたものが飛んできた。この要素から考えられるのは、《昨日、一昨日の間に、雨以外の理由で、レインコートが汚れ、洗濯をする必要があった》という理由だ」

刑部のただならぬ様子に私は息を飲んで見守った。まだ答えを出せないでいる私に、刑部は顎でテレビを指した。テレビではまだ通り魔のニュースをやっていた。

「おいおい……。まさか、お前」

「雨の降っていない日にレインコートが汚れる。それは例えば、《返り血》だったりはしないか?」

刑部の言葉は私に大きなショックを与えた。確かに。確かに理屈は通るかもしれない。

通り魔が返り血予防、もしくは顔を隠すためにレインコートを着て犯行を犯し、返り血のついたレインコートを洗濯して、干した。その時は雨も降っていなかった。しかし、今朝になって進路を変えやってきた台風に干されたレインコートが飛ばされ、今、ここのベランダにたどり着いた。無理のある推理といえばそれまでだが、納得はいく。

「さて、どうしたものか」

刑部はレインコートをつまみ上げ言った。

「このまま、警察に提出するのが一番いいが、そうだな、もう少し推理してみれば天才名探偵の僕になら、犯人の居場所まで明らかになるに違いない」

「おい、無茶を言うんじゃ」

ピンポーン。

私の忠告を遮るように、インターホンが鳴った。

「ピザの配達に参りました〜」

「おや、グッドタイミングだ。本格的な推理の前にまずは腹ごしらえだ」

ドアを開け、ピザ屋の店員を迎えいれようとした刑部の手が止まった。店員があまりにもびしょ濡れだったからだ。

「ねえ、君。馬鹿なのかい?なんでなんの装備のない剥き出しのまま配達に来ているんだ?なんだかこちらが凄く気にしてしまうじゃないか。やめてほしいなあ、そういう抗議のやり方」

刑部は頭を掻きながら店員に不満を言った。

「いや〜、参りました。配達途中で、スーツ姿の男性が花束を撒き散らしまして、すごい焦ってましたから、きっと大切な人との約束があるんでしょうなあ。でね、その花が僕のレインコートに入ってしまって、それを取ろうとレインコートを脱いだら風で飛ばされてしまいまして……って、おや?そのレインコートは僕の」

「みなまで言うな!!!!!!!!!!」

絶叫だった。

事務所内に反響する刑部の怒声。彼の肩はわなわなと震えている。

「つまり、あれかい?僕の推理は全然全く合っていなかったということかい?この名探偵である僕の推理が。しかもよりによって、この愚鈍な亀の推理がひとつ正解しているじゃないか。いい加減にしろ、しまい目には泣くぞ」

「えーと……なんのことでしょうか」

店員はあまりの剣幕に怯えてしまっている。私は彼にピザの代金を支払い、刑部をなだめようとした。

「まあまあ、ただのお遊びの推理ゲームにそこまでムキになるなよ」

「黙れ!凡夫!あー、なんてことだ。奈津実君に負けるなんて。僕は奈津実君以下だ。それはつまり、カタツムリと同程度だ。マイマイカブリに食べられてしまう。こんな屈辱あってたまるか」

タツムリって……。仮にも友人になんてことを言うんだこいつは。

「おや、その招き猫は当店のものでは?」

黙っていればいいのに、店員はソファに置かれた招き猫を指差す。

「なんだと?!これ以上僕の推理を否定するのか君は!!なんでピザ屋が招き猫なんて飾るんだ。恥を知れ。ナポリを思え」

店員の首を摑みかからんばかりの勢いで刑部は暴れている。

「そ、そんな。だって、当店の名前が『まねきピザ』なんですもの。仕方ないじゃないですか」

「うるさいうるさい。改名しろ。それか店を畳め。奈津実君、君、推理作家ならショベルカーの免許くらい持っているだろう。今すぐこのピザ屋とうちのベランダを解体したまえ。諸悪の根源を絶つぞ」

「お前は推理作家をなんだと思っているんだ」

「今に見ていろ。僕はこれから探偵修行に出かけるぞ。そこらかしこの殺人事件に顔を突っ込んで、全部解決してやる。流しの名探偵だ。奈津実君、しばらく留守にするからな」

「頼むから他の人に迷惑をかけるのはやめてくれ。な?落ち着いてピザでも食べよう。お前は腹が空いているだけだ」

「黙れ!敗北の胃にそんな脂っこいものが収まるか!一人で食っちまえ。そして醜く太れ、奈津実君のバカ」

事務所には刑部の怒声が響き渡っていた。

 

 

 

台風一過。

台風は過ぎ去り、雲の隙間から優しげな太陽の日差しが覗いている。私は目を細めながらビールを啜った。

しかし、どうやら。

「ふざけるな。僕は今すぐ割腹自殺をしてやるぞ。三島由紀夫の再来だ。道を開けろ。市ヶ谷駐屯地はどちらだ?」

「落ち着いてくださいお客さん」

「うるさい!僕は今とてつもない恥を感じているのだ。それが君にはわかっていない。くそう。僕の推理は完璧なんだ。それをお前が台無しにしたんだ。チクショウ」

こちらの台風はまだ過ぎ去るのに時間がかかりそうだ。

玄関口で店員に摑みかかる刑部から目を逸らし、私はミックスピザに手をつけた。

テレビには通り魔が逮捕されたニュースが流れている。

 

 

 

「平和だなあ」

私を撮ってくれる誰か

 


橋下が中東で死んだという報告を受けた。

紛争地帯に馬鹿みたいにズカズカ突っ込んで、現地の若者にピストルだかライフルだかでズトズドやられて呆気なく死んだらしい。橋下が学生時代、動物園の清掃員のバイトをして貯めて買った一眼レフのカメラは粉々になっていたらしい。

その話を俺は池袋の狭苦しい居酒屋のテーブルで大学の同級生の吉田から聞いた。吉田は似合ってもないパーマにツーブロックを入れて、完全に焼きそばパンになった頭で恥ずかしげもなく煙草を吸っていた。

「結局、あいつは何がしたかったんだろうな」

吉田は俺が頼んだチキン南蛮にめちゃくちゃタルタルソースを付けて食っていた。店内は金曜の夜ということもあって混み合っていて、注文したドリンクがなかなか運ばれて来ず、吉田は結構イライラしているように思えた。

「大学卒業してさ、結構いい会社入ったわけじゃん。まあ、向いてるかとかそんなんは別にしてよ。で、それなりの期間勤めてたじゃん。6年とかだっけ?そんでいきなり辞めて、カメラマンになるって海外飛び回って、で、結局モノにならないで、わけわからん死に方してさ、なんなの、マジ」

元々、吉田はあまり橋下のことが好きではないことは知っていたが、それにしても散々なこき下ろし方だった。

「そんな言い方もないだろう」

一応そんな風に注意はするが、俺だって橋下とそこまで仲が良かったわけではないし、橋下が就職を決めた時、「なんであいつがあんないいとこ決めてんだ馬鹿」って嫉妬したこともある。吉田も、好きだった同じサークルの女の子と橋下が卒業間際に付き合ってから、特に橋下を嫌うようになっていた。

死人のことをとやかく言うことは気持ちのいいことではないと考えていたが、案外にして悪口はすらすらと出てくる。死人に口なしと言うけれど、これは正しいのかもしれない。

「橋下って戦場を撮ってたんだな」

「いや、戦場に限ったって訳じゃないな。下品な写真やら、風景の写真も撮ってたって聞くし。結局、中途半端だったってことだろ」

吉田は顔を赤くしてビールジョッキを傾けた。手首につけたガラス製の数珠が照明に照らされて微かに光った。

「まあ、橋下の話はもういいじゃん。それより最近どうよ」

自分から振った話題のくせに、吉田はそう切り上げて職場の後輩の話を始めた。今度、二人でビアガーデンに行く約束をしたその可愛らしい後輩の話をぼんやりと聞いて、中東で死んだ橋下の顔を頭の隅に追いやった。

はっきりとは思い出せない橋下の顔が水を多く含ませた水彩絵の具のようにぼやけた。

銃で撃たれて死ぬ。

この国で生きている俺たちにとって、想像もつかない死に方をした橋下の最期に見た光景はどんなものだったのだろうか。

ほんの少しの感傷と好奇を残して、橋下の死は消費された。

 

 

 

動物園に行きたい。

休日の朝、突然そんなことを言い出した加代に連れられて、上野にまで足を運んだ。仕事の疲れが取れていないし、動物に興味があるわけでもなく、あまり乗り気ではなかった。それでもわざわざ付いてきたのは、先日の橋下のことがあったからかもしれない。

「なんで動物園?」

早起きして作った弁当を持ち、電車の優先座席に座った加代がこちらを見上げた。

「パンダの赤ちゃん産まれたんだって。見とかないと」

加代は自分の腹を優しく撫でていた。その所作に母親の慈愛が宿って見えた。

少し、怖かった。

三ヶ月ほど前に懐妊し、その瞬間から妻から母へとパチリとスイッチが切り替わった加代は日毎に俺の知っている加代ではなくなっていく。子を身ごもった瞬間から母親を意識する女性と、まだ父親になることを実感できない自分との違いをまざまざと見せつけられている気がする。

「そういうのってご利益あるの?」

「どうだろう。でも、なんか良くない?愛される子になって欲しいし」

加代の言葉にゾッとしたが、気づかれないよう振る舞った。

俺は蜘蛛が嫌いだ。

嫌悪感を抱き、見ただけで潰しにかかるほどに嫌いだ。先日、リビングに出現した時、いつものようにティッシュを持って潰そうとした。

「やめて!」

ヒステリックとも呼べる金切り声を上げて、加代が俺の手からティッシュを奪った。鬼のような顔で俺を睨んでいた。

「殺生は駄目だよ」

「いや、でも」

「駄目なの。神様が怒るでしょ。親の行いで子供に迷惑かけられない」

加代の顔は菩薩のように柔らかくなった。

遠い過去の母の顔を思い出した。

何も言えなくなり、手に持ったティッシュをそのままゴミ箱に捨てた。

最近の加代からはそんな圧力を感じる。本人はそのつもりがないだろうし、父親であることを強要されているわけでもない。しかし、ただ完璧にあろうとする姿に準備不足の自分が責められている気になってしまう。

勿論、俺も子供ができて嬉しいのだが、それでも加代は全てが早すぎるのだ。納得も覚悟も、準備も。

その状態で急に具体的な話をされると恐怖が先に現れてしまう。俺には想像力がまだ追いついていない。俺はいつの間に大人になったのだろう。就職にしろ、結婚にしろ、大人だと確信を得るにはどちらも不足だった。それは勝手にベルトコンベアの上を流されていく荷物に似ている。

それでも、子供ができることだけは別だ。父になるのだ。大人でないわけがない。いまだ実感を伴わず、そうあるべきと言いたげな社会のルールに付いていくことができていない。

俺が父になんてなっていいのだろうか。

「着いたよ、降りないの?」

加代の声に我に帰った。電車は緩やかにスピードを落としている。

「ああ、ごめん。ボーッとしてた」

慌ててリュックサックを抱えてホームに降りた。むわっとした熱気がホームのアスファルトから上がってきた。

改札口を探し、辺りを見回す加代を一歩後ろから眺める。腹回りの緩い白いワンピースを着ている。子供っぽいデザインで、年齢的にキツイと思っていたが、こうして後ろから見ると、小柄な体型によく似合っている。

「日傘とか持ってきた?暑いよ、今日」

「大丈夫。準備万端」

何をどうしたらそんなに物が入るのか、小さなポーチから折りたたみの日傘と凍ったスポーツドリンクを取り出して、ニコニコと微笑んだ。

「ビール買ってく?」

「園内ってお酒大丈夫なの?」

なんとなくダメな気がする。少なくとも、動物園で酒を飲んでいる大人を俺はみたことがない。

「じゃあ、コンビニで飲み干して。それから行こう。私、飲まないけど」

「俺がただ酒を一気飲みするだけなのか」

「楽しそうじゃない」

加代はご機嫌だ。

外出に付き合ったことが余程嬉しいらしい。俺も、加代が笑っているなら問題ない。日頃からヒステリックを起こす性格ではないし、胸に溜め込むタイプでもない。ただ、妊娠してからの変化が先日のように、影響を与えるかもしれない。そうではないという根拠のようなものを感じて、少しだけ安心した。

駅の改札を抜け、しばらく歩くと濃い動物の匂いがした。脇にあったコンビニで言われた通りに缶ビールの350mlを購入して飲んだ。うっすらと額に浮かんだ汗の分の水分を補給できた。

喉の奥から鼻にかけて抜けるように感じるアルコールの風味とホップの苦味が心地よかった。加代は幅の広い帽子を深く被り直して、俺がビールを飲む姿をスマホで撮影していた。

「何がおもしろいの」

クスクス笑う加代に尋ねた。

「別に〜。急いで飲んでて可笑しいから」

「待たせてると思ってるんだよ」

缶ビールを垂直に傾けて、喉奥に流し込んだ。ビールはアルコール度数が低い割にすぐに酔いがまわる。若干揺れる視界を心地よく思い、動物園へと向かう。

受付で紙幣を二枚手渡し、案内に従い、園内に入る。途端、さっきまで漏れ出ていた動物の臭いを強く感じた。

パンフレットを団扇代わりに使い、パタパタと扇ぐ。熱い風がアルコールに火照った身体から汗を噴きださせる。

「パンダから見ていく?」

「ん。でも、今の時間じゃ混んでるから他を見てからにしよう」

そう言って歩き始めた加代に付いて、少し後ろを緩慢に歩いた。水はけの良い土がスニーカーの裏をじゃりじゃりとなぞる。色とりどりの極楽鳥を横目に、猿の鳴き声を耳に聴く。遥か先に黄土色の長いシルエットが見えた。キリンだ。キリンが高くそびえ立つ塔のように首を伸ばし、草を食んでいる。

自分を見上げる人々の視線をなんでもないことのように無視し、野生を忘れ、緩慢に食事を続ける。黒く深い目の中にサバンナは映っていない。ただ、箱庭に過ぎない檻と代わり映えのしない景色だけが彼の一生の風景なのだ。

「大きいね」

まるでキリンを初めて見たような様子で感嘆の声を上げる加代にスマホのカメラを向けた。非常口のマークのポーズを取る加代。理由はわからないが、昔からカメラを向けるとこのポーズを取る。キリンをバックに非常口のマークの小柄な女が映った滑稽な一枚だった。コンパスのようなシルエットのキリンの中央に加代がいる。

「脚が細いな」

俺の言葉に加代は最近太ってきたと言う脚を隠す。キリンの脚について言ったのだが、睨みつけてくる加代に笑いかけた。

「イヤミな奴め」

「そろそろ、パンダを見に行かないか」

話を変えるようにパンダの展示場の方向に向かって進む。展示場に近づくにつれて、どこからともなく人の群れができてきた。嬌声を上げて集まる集団に加わり、列が進むのを待つ。

潰れる勢いで群れる一団を見てミツバチボールを思い出した。天敵であるスズメバチを大勢の仲間で押さえ込み、身体を震わせ熱を発して蒸し殺す、あのミツバチボールのことだ。幸いにして、誰も蒸し殺されてはいないが、パンダを見るためだけにこんな思いをするなんて馬鹿な行為だと思った。

「見える?」

「見えるよ」

「嘘だろ」

つま先を伸ばし、加代がぴょこぴょこと跳ねる。小柄な加代にはこの人混みからパンダの姿を見ることなど出来ないはずだ。

「見える見える。ほら、小さな玉みたいにころころしてる」

見るとガラスの奥にビー玉サイズの白い毛玉がちらりと映る。あれをパンダと呼べるのか。

「かわい〜」

加代はそれでも満足そうに笑っている。他の人間がするように夢中になってスマホでシャッターを切っている。本来の目的であるパンダの赤ちゃんは現在、面会謝絶だそうだ。

加代に習ってスマホを構えてみる。小さな画面の中に溢れんばかりの人と、その向こうの小さな箱庭に転がる毛玉が映り込んだ。

かしゃり。と空間を裂く音が一瞬、静止を産んで、それから、緩やかに喧騒が続く。今、俺は画面の中に時間を留めた。

「撮れた?」

「毛玉なら撮れたよ」

「もっと前に行かなきゃ駄目ね」

加代は人混みの中をスイスイと泳いでいく。見失いそうになりながら、彼女の白いワンピースを必死に追った。

無理をした甲斐があり、なんとかパンダをパンダと認識できる距離にまで来た。加代はさっきからスマホを構えっぱなしだ。

しかし、俺はどうにももう写真を撮ろうとは思えなくなっていた。橋下だったらどんな風に写真を撮っただろうか。少なくとも、今、俺が撮ったパンダがパンダと認識できない写真では満足しないのだろう。

シャッターを切り続ける加代の旋毛を眺め続けた。

 

 

 

動物園からの帰り、自宅の最寄駅の中華料理店でチャーハンを食べた。加代はレバニラ炒めを食べていた。中華料理店を出て、家までの道をゆっくり歩いた。

自宅マンションのエントランスの床に蛾の死体が転がっていた。鱗粉が血液のように流れ落ちていた。

目線をあげると、郵便受けから茶封筒が半分出てきているのに気がついた。郵便物は滅多にないので、珍しいこともあるものだと手に取った。宛名は橋下の名前だった。どきりとした。

動揺を悟られないようにすぐに鞄の中にしまった。しかし、その様子に気がついたのか、加代が背後から覗き見てきた。

「誰から?」

「ああ、大学の友達」

「ふうん。開けてみたら?」

促されるままに封を切った。

中には一枚の便箋と写真が同封されていた。便箋は手書きではなく、印刷されたものだった。

 


「はじめまして。

橋下の母です。突然のお便りで驚かれたかと思いますが、息子の意思に従って送付させていただきました。

息子は死にました。

アラブで紛争に巻き込まれ、死にました。

本人の選んだ道なので、そこに後悔はないと思いますが、息子は常々、「もし、俺が死んだら友達とか世話になった人に俺の撮った写真を送ってくれ。リストにしてるから」と言っていました。

母として、息子の言葉を遺言と思って、このように郵送させていただきました。

申し訳ありませんでした」

 


簡素な文面だった。手紙を描き慣れてはいないのだろう。橋下の母の文章は稚拙で評価できるものではなかった。しかし、だからこそ、どうしても書かなければならなかった信念のようなものが伝わってきた。

「大学の時の友達がさ、戦場でカメラマンやってたんだ。で、そいつが最近死んだんだ」

訳がわからない顔で手紙を覗き込む加代に説明した。不吉なことを今の時期に言うなと怒られるかと思ったが、そんな様子はなかった。

「そう」

神妙な顔で俯いた。

「あなた、あまり友達のこと話さないから。珍しいよね」

「俺もびっくりしてるんだよ」

代わり映えのしない日常にバグのような報せが入ってくる。それは非日常と呼んでも差し障りがないだろう。訃報にしろ吉報にしろ、自分達だけで完結した生活に割り込んでくる報せには慣れそうにない。

手紙を封筒にしまい、写真を手に取った。

写真には日本ではない何処か、恐らくはアジア圏の少年の姿が映っていた。少年は強張った表情で下手くそに笑っていた。道着なのだろうか、酷くシミのついた薄い服を着て何か構えを取っている。

写真の右隅には小さな傷のような文字で橋下のサインと「カンフー少年」と書かれていた。タイトルのセンスのなさに溜息が漏れてしまった。

「売れないはずだ」

自由を求めて足掻き続けた橋下の面白みのない真面目さを垣間見てしまった。

写真自体も決して出来のいいものはなかった。被写体はガチガチに緊張してしまっているし、構図も凡庸。何を撮りたいのかもわからない。何よりブレてしまっている。

どうしようもない駄作とは言えないけれど、ただ切り取っただけという印象だった。

それでも橋下は俺とは違う人生を歩んだのだと突きつけられた。自分で選んで、自分で進んで、自分で死んだのだ。それが形となって俺の手のひらの中にある。

自分の人生を振り返った。

特に努力もせず、なんとなく選んだ高校に進学し、なんとなく選んだ大学に進学し、運良く入った会社で忙殺される。仕事帰りに磯丸水産でホッケとハイボールを適当に飲んで、酔って寝る毎日だ。

俺にこんな写真が撮れるんだろうか。

いや、そもそも写真を撮ろうと思い至るだろうか。橋下が何を思ってカメラを手に取ったのか。それを知りたいと思った。

橋下が動物園でバイトをしているとき、目の前で草を食むキリンやゾウ、丁寧に切り分けられた肉を貪るライオンを見て何を感じたのか。戦場を駆ける野生動物と動物園の飼いならされた動物との違いを橋下は知っていたのだろうか。俺の知っている世界よりもさらに広くまでを見渡すことができた橋下に少し嫉妬した。

爆撃の音。硝煙の臭い。家族を殺された者の慟哭。砂を舞い上げる熱い風。

そのどれもが、俺の知らないものばかりだ。

橋下は俺の知らない世界を見ていて、その風景と時間とを手のひらの小さな機械で切り取って留めていた。

その不器用な写真の中に橋下の姿を見た。

ぼやけて記憶から薄まっている橋下のことを思い出そうとした。

初めて会った時。駄目だ。思い出せない。いつからか当たり前の顔してそこにいた。サークルでの思い出。駄目だ。橋下と特に印象深い体験をした覚えはない。授業もバイトも被ることはなかった。時折、構内で見かけて、お互いの仲のいい奴らと群れている時に軽く挨拶をするくらいだった。

霧のような記憶の中、ひとつだけ濃い色をした記憶があった。

同級生の、こいつも殆ど喋ったことがない、確か堀田とかいう名前の男が、デモに参加したんだ。一時期、世間を賑わせた憲法改正反対運動に嬉々として名乗りを上げていた。

そもそも政治に興味を持たなかった俺と友人達は過激化する活動に冷めた目を送っていた。何をそこまで熱心になれるのか。何を成し遂げたいのか。何も分からなかった。堀田が自分たちとは違う生き物だと思えた。SNSで熱弁を振るう堀田のアカウントをブロックした距離を置こうとした。

連日の活動の中、堀田が逮捕された。

警備の警察官を殴ったのだ。

堀田の手には木製のプラカードがあり、警察官は不運にもその巨大な木で頭を殴られ死亡した。世間は一気に加熱した。デモ運動を非難する声。堀田を非難する声。警察官を哀れむ声。連日、ワイドショーは騒ぎ続けた。

騒ぎ続けた結果、堀田は自殺した。首を吊って死んだ。

友人達は誰も葬式に行かなかった。そもそも誰も呼ばれもしなかった。

そんな中、橋下だけが参加したことを誰かから聞いた。呼ばれもしないのに、斎場に現れ、涙を流し、線香をあげたらしい。

橋下は「友達の最期くらい誰だって行くだろう」と理由を聞かれるたびに憤りながら答えていた。人を殺した堀田のことをまだ友達と呼べるのかと不謹慎にも感心したことを覚えている。

その日は久々な快晴だった。

学割の証明をもらいに構内にいた俺はその帰りに喫煙所に寄った。そこで橋下に会った。橋下は煙草を咥えながらカメラをいじっていた。フォーカスを合わせる動きをし、灰皿の側の噴水にレンズを向けていた。その背中に声を投げた。

「お前、堀田の葬式行ったんだって?」

突然の不躾な質問に橋下は顔をしかめて振り向いた。

「えーと、福島だっけ?」

橋下は俺の顔を見て、なんとか名前を呼んだ。お互い友人の友人という不確かな関係だったので、はっきり名前を覚えられているとは思わなかった。意外だった。

「堀田の家族どうだった」

「ん……。まあ、良い顔はしなかったな、やっぱり」

押し潰されたように低く橋下は唸った。

「呼ばれてないし、何より、恥ずかしかったんだろうな」

「まあ、人殺しだしな」

俺はわざと悪い言葉を使った。その時はまだ、世間に漂う正義感ってやつに浮かされていたし、そもそも、堀田のことを嫌っていたからだ。

「そうだな。あれは良くないことだ。誤解されたくないんだけど、俺は堀田のことを肯定するつもりはないよ。過程はどうあれ、結果としてあいつは人殺しだ」

橋下は意外にも侮蔑のこもった声色でそう漏らした。俺はずっと橋下は堀田のシンパなのだと思っていた。だからこそ、葬式にも参加したし、追求されると怒ったりしたのだと思っていた。

「好奇心か?あまり褒められたもんじゃないぞ」

「うん。好奇心って言えば好奇心からだな。良くないことだとは思ってるよ。人の気持ちを考えた行動じゃなかった」

「わかってるならなんで」

「俺、写真家になりたいんだよ」

突然の言葉に俺は面食らった。

その頃橋下は大手の企業に内定を決めていたことを俺は知っていた。誰もが憧れる有名企業に入りながらそんな世迷いごとを抜かす橋下に苛立ちを覚えた。

「だったら就活なんてやらなければよかっただろう」

その言葉は100%の嫉妬を持って発せられた。痛いところを突かれたように橋下は頷いた。

「俺はそのことをどこか恥ずかしいことみたいに思ってたみたいだ。無理だ。できるはずがない。そもそも何がやりたくて目指しているのか。揺るぎない確固たるものを持ってない」

俺と橋下は仲が良かったわけではない。だからこそ、その時そんな深くまで話をしたのだろう。橋下の言葉は嘘偽りなく、剥き出しのゼリーのように繊細に本心だった。

「堀田の葬式でさ、めちゃくちゃ対応悪くてさ、まあ、もちろん当たり前の話なんだけど。それでも、俺が感じたのは実の親ですら人を殺した子供に恥を感じていたってところなんだよ。もう、それを忘れてしまいたい。なかったことにしてしまいたい。終わらせるための儀式みたいな空気が漂っていたよ」

橋下はカメラを撫でた。メタリックな黒いボディが鈍く光った。

「俺は終わらせてやんねえぞ。そう思ったね。死んだ人、殺した人、残された人。それぞれに人生とか大切な人とかたくさんあった筈だ。それを一瞬の娯楽みたいに「終わりました、はい終了」って流してたまるかよ」

射竦められるような鋭い目だった。何かを憎んでいるわけでも、何かに怒ってるわけでもない。信念に突き動かされた目だった。

「俺は消費されていく今をどうにか永遠に留めたいんだ」

ゆっくりと言葉を紡ぐように橋下は言った。自分の言葉を確かめるように、自分の中に刻み込むように。

「誰もが忘れていくんだ。どんなに悲惨な事件も勇敢な行動でも、その瞬間は大きく取り上げても、いずれは消えていく。消費されていく。そうはさせない。誰かにとっての大切な今を、そう簡単に消費させてたまるか。俺がここに留めてやる」

「……ご立派なことだが、結局は野次馬根性だろう。それに……。内定を辞退するわけでもない」

俺の言葉に橋下はうつむくようにして笑った。聞こえのいい言葉を並べ立てる橋下に嗜虐的な気持ちになった。

「そうだな。それっぽい言葉を使ってるけど、結局俺はまだそれを選択できてない」

「どうするつもりだよ」

「今は無理だな。まだそこまでの覚悟がない。ひょっとしたらこの気持ちも磨耗して消えちゃうかもしれない。でも、もし、いつか俺が会社を辞めてカメラマンになったって噂を聞いたら、福島は俺が決断をしたって思ってくれ」

憑き物が落ちたように淡々と自らの理想を語る橋下に、俺は内心焦っていた。

なんでこいつはここまで自分の意思を持っているんだ。怖くないのだろうか。自分が矮小で凡庸であることをわざわざ突きつけられにいく行為を嬉々として選択しようとしている。

「自分の人生を生きている奴を撮りたい。不条理が壊したそんな奴らの人生を刻み込んでやりたい」

橋下はどこか遠くを見つめていた。

短く切り揃えた髪の毛に何処からか飛んで来ていた蒲公英の綿毛が付いていた。

「それが俺の生き方になるといいな」

橋下は自嘲気味に言った。しかし、その表情は晴れ晴れとしていた。

「お前も撮ってみたい」

カメラを俺に向ける。銃口を突きつけられたような寒気がした。俺の人生がその場で終わってしまう、否定される気分になった。

「やめてくれ。今の俺は駄目だよ。全然駄目だ。なんにもできない」

逃げるようにしてレンズの動線から外れた。ちっぽけな自分が見透かされたようで、それが怖かった。

「じゃあ、約束だ。俺がいつかカメラマンになって、お前が自分の人生を生きているって胸張って言えるようになった時、俺はお前を撮るよ」

悪戯っぽく笑う橋下はもう既にカメラを降ろしていた。その姿に安堵と同時に期待に似た感情が産まれた。

橋下を通して、いつか未来の俺が生き生きと自分らしく過ごしている光景を見た。そうあってほしいと思えた。

「何年後の話だよ」

「さあ、数年後、数十年後、もしかしたら来ないかもしれない」

そう言って橋下は立ち上がった。煙草を吸う俺を残してその場を後にした。

「じゃあ、またな。福島。お前と話せて良かったよ」

社交辞令に過ぎない言葉だったが、橋下のその言葉がやけに嬉しかった。

 

 

 

固い地盤から掘り起こされる化石のようにして、橋下との会話が思い起こされていく。

なんだ、俺は橋下が写真を撮る理由を聞いていたじゃないか。ただ、忘れていただけだ。いや、もしかしたら、この記憶は今の俺が都合のいいように勝手に捏造して作り上げただけなのかもしれない。しかし、今の俺がそのように思っているということに意味がある。

橋下は消費されていく何かを留めたいとカメラを取った。ただ時間の中で磨耗し、砂となって消えるものをピンで固定するように、形にして残していきたいと。

「お前も撮ってみたい」

冗談ぽく笑う橋下の顔を思い出した。その顔はこれまでの靄のかかった淡いものではなく、ビビッドな写真のように鮮明だった。

俺はきっとまだ、橋下に撮ってもらえるようなモデルではないのだろう。あの頃と何も変わっていない。決断を自分でできず、流されていくだけの人生。そして、橋下が死んだ今、俺を撮ってくれる人間は完全にこの世界からいなくなったのだ。

涙が出た。

自分でも理由はわからないのだが、涙が出た。何度も言うが、俺は橋下と親しかった訳ではない。そもそも、彼の死を初めて聞いた時、俺はそれを囃し立てた筈だ。彼の死を娯楽として消費したのだ。それなのに、何故。

「なんでなんだろ」

俺は止めることができない涙を抑えて、嗚咽した。封筒は手のひらの汗でぐちゃぐちゃになってしまった。この世界に俺の頑張りを認めてくれる人間が誰も居なくなったと思った。

かしゃり。

スマホの撮影音が聞こえた。

加代が俺にスマホのカメラを向けていた。

「ごめん、泣いてるなんて珍しかったから」

呆気にとられながら、スマホを覗き込む加代の姿をじっと見た。

この世界で俺を撮ってくれる人間が橋下以外にいた。俺はまだ何にも決断ができていないけれど、きっとこれから先、どこかのタイミングで変わることができるのだろう。小さな変化だろうが大きな変化だろうが、それは確かに変化だ。

その瞬間を撮ってくれる誰かがいる。それだけで心強いのは錯覚だろうか。

加代の手を握る。そのまま、彼女の腹を撫でる。

「動かないな」

「まだ三ヶ月なんだから、蹴ったりしないわよ」

加代は呆れたように微笑んだ。

蹴り返してこなくとも、今、ここに俺の子供がいるのだろう。これまで少しも認めることができなかった事実がやけにすんなりと胸に入ってきた。

「子供服って、どこに売ってるんだ?」

俺の突然の言葉に加代は面食らったようだったが、しかし、すぐに破顔した。嬉しそうに俺の手を取った。

「気が早いよ。まだ男の子か女の子かもわからないのに」

 

 

 

吉田にメールをした。

橋下から便りが届いていなかったか、中にはどんな写真が入っていたのかを聞いた。

案の定、吉田にも封筒は届いていたらしい。

ただ、気味が悪いと封を開けずに捨てたらしかった。吉田のもとに届いた写真には何が映っていたのか。

それが無性に気になった。