瑛里雄の投げる軟球がジュニアリーグにして140キロを記録した時、父は驚きのあまり父兄席から転がり落ちて顎の骨を砕いてしまった。瑛里雄がノーヒットノーランを達成した時、父は歓喜のあまりにマウンドまで乱入し瑛里雄を抱きしめ、その力の強さに危うく瑛里雄は窒息死するところだった。瑛里雄の右腕が不慮の事故で切断された時、父は失意のあまりピッチングマシーンを瑛里雄の右腕に移植してしまった。
瑛里雄の右腕が切断されるに至った事故は、トラックドライバーの過労働からの居眠り運転によるもので、父は怒りに任せてその会社を訴え、多額の賠償金を手に入れた。賠償金は全て、瑛里雄の右腕にピッチングマシーンをコンバートするための手術費に充てられた。ただ、多額の賠償金でもそんな前代未聞な手術にかかる莫大な費用には少し足らず、移植されるピッチングマシーンは取り壊されるバッティングセンターから買い取った中古のピッチングマシーンとなった。
術後すぐさまリハビリが開始し、ほんの三ヶ月も立たないうちに、瑛里雄の右腕は軟球を150キロで正確無比に投げ込むまでになった。これから訓練を積めば、160キロを記録することも夢ではなかった。移植されたピッチングマシーンのガイドラインによると、最高球速は160キロとはっきりと記載されており、父は、それが達成されなければ、メーカーを訴える所存だった。
とはいえ、問題もゼロではなかった。
まず、投球フォームである。
瑛里雄がこれまでと同じように大きく踏み込んで、右腕を振りかぶって投げようとすると、瑛里雄の小さな身体に不似合いなほど巨大なモンスターマシンによって重心が崩れ、瑛里雄はマウンド上に転がってしまった。これは訓練でどうにかできるものではないと父は一目にして理解して、フォームを変えるように瑛里雄に指導した。何通りかの調整の結果、瑛里雄の投球フォームは直立不動というところに落ち着いた。棒立ち。気を付けの姿勢のまま、右腕をぐるんぐるんと回転させることで、高速の球威を実現することとなった。
次に、日常生活の不便さである。
当然、ピッチングマシーンは球を投げること以外には適してはいなかった。だが、そもそも日常生活を快適に過ごすことが目的ならば、最初からピッチングマシーンなどを移植するはずもなかった。
父は日常生活を送るために、利き腕を変えるように瑛里雄に指示した。野球のために、利き腕を変えるような人間は瑛里雄の他にも沢山いることを殊更に強調することで、瑛里雄を納得させた。時間はかかったが、瑛里雄は左腕で箸を使うこともできるようになったし、不格好ながら文字を書けるようにもなった。元々の器用さから、ペン回しすら難なくこなすようにもなった。
最後にバッティングである。
野球には攻守が存在しており、攻撃側は必ずバットを振る必要があった。片腕がピッチングマシーンの瑛里雄には、両腕でバットを持つことは困難で、野球プレイヤーとしてこのことは致命的だった。
父はかつてないほどに悩み、悩み過ぎて会社を退職した。そして、占い師を頼ったりもしたが、ジュニアチームのコーチに相談したところ、「ピッチャーなんだから、打たれなければ役目は果たしているだろう」という極論で解決した。
つまり、瑛里雄はバッターの場合もベース横に棒立ち状態で、バットを構える必要もなく、ただその役目が終わるまで待機すれば良いという結論に至ったのである。試合放棄とも取れるその姿勢に瑛里雄自身は疑問を抱いたが、周囲の大人たちが喜んでいたので流される形で許容した。問題を解決した父は悩む必要がなくなったが、そもそも働くことが好きではなかったので、無職でいることに決めた。生活費は代わりに母がスーパーでのレジ打ちを増やすことで充足された。父の給料は元々、薄給だったために、それでもなんとか事足りた。
リハビリの後、瑛里雄はチームに復帰して、すぐにピッチャーとしてベンチ入りすることとなった。キャッチャーの九段は昔からの親友だったため、右腕がピッチングマシーンとなった瑛里雄にもすんなりと馴染んだ。瑛里雄の球速はどんどんと上がり、九段も捕球に最初こそ手こずっていたが、彼は彼で天賦の才を持ち合わせていたので、瑛里雄の球を完璧に捕らえることが出来る様になった。この才能溢れる少年バッテリーを前にして、歓喜のあまり、父とコーチは抱き合いながら涙した。そして、公式戦での連勝を確信した。
瑛里雄のチームはそれからの試合で負けることはなかった。その全ての試合で瑛里雄はノーヒットノーランを達成した。その頃には瑛里雄の球速は160キロにまで届いていた。プロの中ですら、その球速を投げられる人間など稀なうえに、瑛里雄はその球速をコンスタントに投げ続けることが可能だったうえ、コンピュータによって緻密にプログラムされた制球力により、九段の構えたキャッチャーミットへ寸分の狂いなく球が投げられたので、連勝は約束されたようなものだった。
対戦相手の多くは、瑛里雄の右腕に取り付けられたピッチングマシーンを指して、ルール違反だと声高に叫んでみせたが、野球のルールブックには腕に移植したピッチングマシーンを使用してはならないという文言は記されておらず、その主張は棄却された。
瑛里雄のチームに敗退したチームは皆、悔し涙を滲ませていたが、ルール改正には時間がかかるため、どうしようもなかった。俯いて泣く相手チームの少年達を見て、瑛里雄の胸がちくりと痛んだが、父から「お前は犠牲を払ってその力を得ているのだから、そこに自信を持ちなさい」と告げられ、不承不承頷いた。「俺は偶然トラックに撥ねられて腕を失っただけで、右腕のピッチングマシーンはその犠牲の賜みたいな言い方は辞めてほしいな」とも思ったが、父もコーチも彼の輝かしい未来に目を眩ませていたので、そこに水を差すのはためらわれた。そんな彼の背を九段とチームメイトが優しく撫でた。
瑛里雄は試合が楽しく無くなってきていた。練習は楽しかったが、今ではそこまで魅力を感じられない。以前は楽しかった九段とのピッチング練習も、今では棒立ちの姿勢のまま、自分が機械の土台になったような気持ちで投げ込むだけだ。球速はいまよりずっと遅かったが、以前の方がよっぽど楽しかった。九段との「今の球は良かった」とか「ちょっとミットから離れた」とか「フォームがずれていたぞ」とか、そういう会話がなくなってしまったのが、ことの他辛かった。
そんな気持ちではあったが、瑛里雄の球の勢いは日に日に強力になっていった。時々、プロチームのスカウトや強豪校の視察が練習場に顔をだすようになった。みな、父やコーチと同じ熱に浮かされた目をしていた。その目が好きになれなかったので、瑛里雄は彼らが現れるとすぐに練習を切り上げて更衣室に急いだ。そんな態度でも、誰も瑛里雄の球を打ち返すことが出来ないので文句は言われなかった。
日々は目まぐるしく進んでいき、地方大会の決勝戦になった。この試合に勝てば、全国大会への進出が決まる意味のある試合だったが、瑛里雄にとってはどうでもよかった。
どうせ勝つのだ。勝ってしまうのだ。
瑛里雄は勝つことが苦痛になっていた。
自分の右腕が嫌いになっていた。いっそのこと分解して使い物にならなくしてやろうと家にあったプラスドライバーでナットを外そうとしたが、ピッチングマシーンのような専用の機械に使うナットと家庭用プラスドライバーでは規格が違い過ぎてどうにもならなかった。ホームセンターに赴いて規格に合うドライバーを探してみたが、思いの外高価で、瑛里雄のお小遣いでは買うことができなかった。
試合が始まったが、案の定、相手チームの誰もが瑛里雄の球を打ち返すことが出来なかった。160キロをコンスタントに越える豪速球など、同世代の誰もが見たことすらない。回を追うに連れてやる気を失っていく相手チームの顔を見て、瑛里雄はまた憂鬱になった。早く終わって欲しいとまで思い始めた。点が取れないのなら、点だけは取られまいという意志が相手チームの守備には感じられた。事実、瑛里雄チームは点を取りきれないでいた。瑛里雄の願いとは裏腹に、延長戦の気配が俄かに漂い始めた。
けれども、関係ない。
瑛里雄がすることと言えば、自らの右腕を回転させ、驚異的な球を投げ込むことだけだ。瑛里雄は感覚のない冷たい右腕で白球を強く握りしめた。
最終回。
案の定、誰も瑛里雄の球を打てないままにゲームは進行し、両者無得点のまま最後の盤面に進んだ。先行の瑛里雄チームはこの回でも点を取れなかった。打者は塁に出るのだが、肝心の点数が取れない。相手チームの執念に気圧される形だった。そして、瑛里雄は王者の風格でマウンドに立つ。ここが、瑛里雄にとっての居場所なのだ。相手チームに代打の報せが入った。瑛里雄の球を打てないことを悟って、思い出作りとして補欠の選手を投入したのだろうとベンチに座るコーチと父兄席の父は思った。その予想通り、バッターボックスに現れたのは、他の選手と比べると一回り以上小さな選手だった。補欠になっていたのは、その小さな身体のせいだろう。申し訳ないが、この子も三振だろうなと、父はその選手を哀れに思った。その選手は、緊張のせいか、少し震えて見えた。そして、バットを構えた。瑛里雄は無慈悲とも思える速度のストレートを九段のミットに向けて投げ込んだ。
カキン。
バットの鳴る音を瑛里雄は久々に聴いた。その試合を通して、いや、これまでの試合を通して、どの選手も瑛里雄の球にバットをかすらせることすら出来なかったのに。
球はファールゾーンへと吸い込まれていく。場内の誰もがその事態を想定していなかった。一瞬の沈黙の後、大歓声が上がった。想定外のドラマに会場は著しく盛り上がった。その興奮の渦中に立つ瑛里雄は何が起きたのか分からなかった。
自分の球が打たれるなんて。
思わず自分の右腕についた無骨な機械を見やる。ボルトでも緩んでいたのか。いや、そんなはずはない。週に一度、父に連れられ近所の車整備工場でメンテナンスが行われている。緩むはずは無い。
きっと、何かの偶然だ。
そう断定して、瑛里雄はストライクゾーンに向かって、全力のストレートを投げ込んだ。
カキン。
また、聞き慣れない音がして、客席からは歓声が上がる。バットに当たり、またしてもファールゾーンへ飛んでいった白球の弾む音が、何故か近くに感じた。
二球続けて、当てられた。
これは、偶然ではない。
瑛里雄がそう思ったように、観客たちもそう思ったのだろう。一際大きな歓声が上がった。地方大会の決勝でこれほど会場が揺れ動いたことなど、前代未聞のことだろう。歓声は空気を揺らし、グラウンドすらも胎動しているようだった。
そんな筈はない。
瑛里雄は自分の機械仕掛けの右腕を見る。信じられないでいた。客席の父の顔を探すが、興奮する観客たちに紛れて父の姿は見つけられなかった。
これまで感じたことのないプレッシャーが重く降りかかってきた。空が落ちてきたのかと錯覚するほどだった。
九段が立ち上がって瑛里雄のもとに駆け寄ろうとするが、瑛里雄はそれを制した。九段に責任はない。これは、自分の問題だと瑛里雄は断定した。九段に駆け寄らせては彼にも責任を分配することになってしまう。それだけは嫌だった。背中にチームメイトの驚きと不安を感じる。
瑛里雄はこの瞬間、絶対的なグラウンドの支配者ではなくなった。ただの、ピッチャーになってしまっていた。嫌な汗が噴き出る。こんなにも、マウンドは暑かったろうか。
不安を押しやるように首を振る。そして、バッターに向き直る。九段が腰を下ろし、ミットを構え直す。彼だけは、瑛里雄が勝つことを確信していた。その信用に応えるために、瑛里雄は右腕を振り下ろす。直立不動で振り下ろす。
指先が球を離したその瞬間。瑛里雄はその球が打たれることが直感的にわかった。
この試合で一番良い球だった。一番速く、正確に投げ込めたと実感した。
それでも。
それでも、その球は小気味のいい金属音と共にバックスクリーンへと吸い込まれていった。ディレイがかかった映像のように、時間がゆっくりに過ぎていった。
沈黙。そして、瞬間。爆発が起こったかのように歓声が上がった。場内が揺れ動いた。
相手チームも、客席も、誰もがバッターに向けて称賛を送った。小さな体を揺らしながら、頬を染めた彼は遠慮げにガッツポーズを掲げた。そのジュニアリーグらしい素振りに観客はまた沸いた。
既に、瑛里雄のことを観ている人間などどこにもいなかった。負けが確定してもまだ、瑛里雄は自分の球が打たれたことを信じられないでいた。機械化された自分の右腕をあれほど、疎んでいたと言うのに。そのことがまた、瑛里雄には意外だった。
明記されてはいないからと、声高に主張してきた明らかなルール違反も、一度敗れればこのようなものだ。瑛里雄に駆け寄るチームメイトは、九段以外には誰もいない。チームメイトは泣き崩れるか、バッターの小さな身体に賞賛の浮かぶ目線を送るかだった。
そこからの記憶はない。
いつの間にか、瑛里雄はマウンドから降り、着替えを終え、球場の出口に立っていた。ピッチングマシーンから、彼を慰めるようなモーターの駆動音が鳴った。
父は怒り心頭だった。何故、打たれたのか。油断したのか。声高に瑛里雄を批判した。他人よりも有利なデバイスを使用していたのに、何故、負けるのか。
瑛里雄はただその声を真っ直ぐに受け入れるだけだった。父とコーチは興奮が冷めやらぬままにどこかに行ってしまった。これからの展開を相談でもしているのだろうか。
瑛里雄は一人、球場の出口に残された。チームメイトの姿も見えない。瑛里雄に対する怒りを抱えたり、崩れ落ちてしまいそうなほど泣いたりして、それぞれの帰路についたのだろう。
瑛里雄は空を見上げた。雲一つない空の青さに飲み込まれてしまいそうだった。いっそのこと、この巨大な青が落ちてこないかとも思った。
「なにしてるんだ?他の連中は?置いてかれたのか?」
心配するような声色が頭の上から聞こえた。
瑛里雄を覗き込むのは、瑛里雄の球をバックスクリーンへ叩き込んだ小柄な選手その人だった。よく焼けた肌と切り揃えられた髪が夏の強い陽射しに煌めいていた。
「いや、なんでもないよ。ここまでも市営バスで来たし」
「おまえさ……その腕、やっぱり痛むのか?」
瑛里雄は右腕を見下ろした。外付けの金属は、夕方の光を映して冷たく光っていた。
「痛いっていうより……重いんだよね。もう慣れたけど」
少年はこくりと頷くと、バットケースのジッパーをいじりながら言った。
「なあ、さっきの球、なんで打てたと思う?」
唐突な質問に、瑛里雄は目を瞬いた。
「君が上手いからじゃないの?」
「ちがうちがう。絶対に違う」
少年は即答した。
勝ち誇った感じでも、謙遜した感じでもない。ただ事実を述べる口調だった。
「俺んちの近くのバッティングセンターさ、潰れたんだけど。わかる?隣町の」
「いや、知らないけど」
「だよな。でも、その腕さ」
少年は、瑛里雄の右腕を指差した。
「そのバッセンにあるピッチングマシーンと、まったく同じ型なんだよね。いや、ってか俺が打ってたやつそのものなんだよな」
瑛里雄は思わず言葉を失った。
「同じ型って……どういうこと?」
「どうもこうも、同じやつなんだって。急に店自体が潰れたから、店の爺さんに聞いたら子供の腕に移植したとかわけわかんねえこと言い出すしさ。困ったんだよな、あの台が一番速かったから急になくなってどうしよって思ったんだぜ」
少年はあっけらかんと言った。
「だからおれ、あの球……ずっと打ってるんだよ。ガキの頃、いや、まあ今もガキだけど」
瑛里雄は右腕を押さえた。金属の接続部が、きゅう、と微かに鳴った。
「つまり君は、ぼくの球を……」
「うん。バッティングセンターの4番打席の球として、何百球も打ってる。今日のも、ほとんど同じだった」
瑛里雄は、返す言葉を持たなかった。
少年は続ける。
「おまえの球がどうこうじゃないよ?ただ、俺にとっては知ってる球だったってだけ」
それは、慰めではなかった。
ただの説明。事務的なくらいの事実だった。
けれど不思議と、悔しさよりも安堵に近い感情が胸に生まれた。
自分の力が認められなかったという安堵。
機械の性能が否定されなかったという安堵。
そのどちらともつかない、奇妙な気持ちだった。
少年は肩のバットケースを持ち直し、ぽつりと言った。
「俺がすごいわけじゃないぜ」
その言葉は、侮辱でも称賛でもない。
ただ、出会い頭の奇跡の正体を淡々と説明しただけだった。
瑛里雄は胸の奥が痛むのを感じながら、それでもどこか救われる気がしていた。
「そうだ、名前言ってなかったよな。俺の名前は」
少年はそこで言葉を切った。
ちょうどその時、場内アナウンスが鳴り響いた。
〈選手の皆さんは速やかに荷物をまとめ――〉
少年は「あ、やべ」とだけ呟くと、軽く手を振った。
「じゃ、またどっかで」
「え、名前……」
「いらないでしょ。どうせまた会うし」
本当に必要ないという顔だった。
それ以上訊ねる隙もなく、少年は観客の残骸みたいなざわめきの中へ消えていった。
瑛里雄は、その背中をしばらく見つめていた。
胸の奥に、ぽっかりと穴があいたようだった。
もちろん良い意味ではない。
気が晴れるわけでも、元気になるわけでもない。
ただ、妙に軽かった。
負けたのに、悔しさがどこかへ行ってしまっていた。
(……やめてもいいかもしれない)
ふと、そんな考えが落ちてきた。
それは雷のように突然ではなく、雪のように静かに気づいたら肩に積もっていた、そんな感じだった。
父が聞いたら殴り飛ばしそうな考えだ。
コーチが聞いたら泣き出すかもしれない。
けれど、それでも。
右腕の奥の金属よりずっと、人間らしい温度をもって胸に広がった。
「おーい、エリオ!」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、九段がポカリのボトルを二本ぶらさげて走ってくるところだった。
相変わらず肩幅が無駄に広い。
そして走り方が壊滅的に変だ。
「おまえ、大丈夫か? 泣いたりしてないか?」
「泣いてないよ」
「そりゃそうだよなお前は! だって人間じゃ……あ、人間だわ」
瑛里雄は九段の肩を殴る。ブラックジョークが過ぎる。九段は慌てて言葉を修正し、ポカリの一本を差し出した。瑛里雄はそれを受け取り、キャップを開けた。
九段は隣に腰を下ろし、妙に真剣な顔で言った。
「俺、悔しいとか全然思わなかった。むしろ、おまえが誰かとちゃんと勝負してるの見てさ、なんか、よかった」
「よかった?」
「そう。お前が投げた球をさ、人間が打ったんだぞ?
マシーンじゃなくて。それって、競技ってやつじゃん。俺ら、ようやく野球ができたって感じだった」
意外な言葉だった。
九段はいつもの馬鹿みたいな笑顔ではなく、ほんの少しだけ大人びた表情をしていた。
「だからさ。俺、今日めっちゃ楽しかったんだよな」
瑛里雄は、返す言葉をすぐには見つけられなかった。
右腕の内部で、小さな駆動音が鳴った。それがやけに遠く聞こえた。
「……ありがと、九段」
「おう! なんでも言えよな! 悩みとか! 恋愛相談とか!右腕の油さす場所とか!」
「最後のはお前知らないでしょ」
「知らん」
九段はけろっと笑った。
その笑顔を見ていると、自分が何か大きなものから解放されつつあるような気さえした。
瑛里雄は、ふっと息をついた。
そして、ぽつりと言った。
「野球、やめるかもしれない」
九段は驚くかと思ったが、意外にもゆっくり頷いた。
「そっか。それもまあ、悪くはないんじゃないか?」
「うん。そう思う」
「おまえが決めるなら、おれはなんでもいいぞ。やめるってんなら、おれも一緒にやめてやるよ。お前いないんならつまらんし」
その言葉が、胸の奥にやさしく沈んでいった。
泣きそうになるよりも先に、瑛里雄は笑ってしまった。
「ありがとう。でも九段は続けなよ」
「え、続けるの? 俺だけ?やだよ。しんどいし」
九段は肩をすくめて、また笑った。
それから数日、瑛里雄は、野球道具に触れないままぼんやりと日々を過ごした。
右腕の機械は、投げる相手を失ってからというもの、ただの重たい金属の塊として彼の肩にぶら下がっていた。ポケットに手も入れられなければ、布団をめくる動作すらぎこちない。野球をしないなら、この装置はただの障害物でしかなかった。
練習場にも顔を出さなかった。父やコーチからは何度も着信があったが、応じる気にはならなかった。あの日、バットに弾き返された白球の軌道よりも、あの少年の笑顔や、九段の言葉のほうが鮮明に焼き付いていた。あの打球が、すべてを変えてくれたのだと思う。
家で過ごす時間が増えるにつれて、瑛里雄はゆっくりと、自分の「これから」を考えるようになった。野球のことではなく、もっと手触りのある自分自身の人生のことを。
父とコーチの焦りや期待に寄りかかっていた日々が、まるで夢の続きのように遠のいていく。
そして、瑛里雄自身もぼんやりと悟り始めていた。この腕はもう、マウンドに立つためのものではなくなったのだ、と。
父と母は離婚した。
瑛里雄の人権を無視した所業が連盟から指摘されて、ついには刑事罰の対象にもなったのだ。2人はまだ夢から醒められない表情で判決を受け入れ、多額の慰謝料請求を受けた。
瑛里雄の腕からはピッチングマシーンは外された。野球をしないのであれば、このデバイスは兎に角、邪魔なのだ。野球をするためだけのデバイスは、野球を辞めた瑛里雄にとっては、必要のない代物なのである。
瑛里雄はリビングでソファに寝転がりながら、片腕で工業用ドリルのカタログを眺める。義手を付けてもいいが、働く母を助けるために工事現場でバイトをしたいと言う気持ちが大きい。そのために、腕をドリルにしたいと、瑛里雄は思う。その方が効率的だし、何より需要があることを瑛里雄は知っている。手術費は父とコーチからの慰謝料を充てるつもりだ。
「サッカー部入らないか?」
ワールドカップに浮かされたのか九段からは頻繁に勧誘のメッセージが届いた。それもいいなと思ったけれど、右腕にドリルを付けた自分を見て、九段はどんな反応をするだろうか。
それが無性に楽しみだった。