わくわくアラスカ紀行

アラスカ、ばり寒い

鹿の角

 

俺の家には鹿の角があった。

俺の家は娯楽もない山奥にあったので、おもちゃと同じくらいの気軽さで鹿の角はそこにあった。

死んだ爺さんが昔、猟銃で撃ち殺した牡鹿の立派な角を丁寧に剥ぎ取って加工し、インテリアとして飾っていた。ある頃からか、俺はこの鹿の角に強く惹かれるようになった。

乳白色のザラついた質感といい、奇跡的な美を放つ造形といい、鹿の角は俺を魅了して止まなかった。時折、意味もなく鹿の角を握った。冷たい鹿の角に体温が奪われていくような感覚を何度も感じた。そんな俺を家族は馬鹿なことをしていると笑ったものだが、当の俺は至って真面目だった。

 

 

 

俺は深夜になると、家族が寝たことを確認してから、鹿の角を持ち出し、田舎のだだっ広い国道へ飛び出し、等間隔に立ち並ぶ矢鱈と鈍く光る街灯を睨みつけて、鹿の角を頭へと取り付ける。

そして、全速力で走り出す。風を切り、抵抗でブレる鹿の角を必死で握りしめ、走り続けた。

スタミナには自信があったが、それでも500m程を駆け抜けると息が上がった。身体中に痛いくらいの疲れが現れ、けれど、それが不快ではなかった。

鹿の角に体力を奪われている。勝手にそんな風に思っていた。

指を伝い、筋張ったプラスチックのような感触の角が俺の中の生命力をどくんどくんと吸い込んで行く。そんな感覚がたしかにあった。

走りきった際のその不自然な脱力感に魅了されている自分がいた。ねばねばとまとわりつく夏の夜の空気が、心地いい風に変わり、まだ熱いアスファルト上に身体を投げ出して横になった。

そんなことを毎夜のようにやっていた。

遠く向こうの都会の光が、深い夜空を緑色に照らして綺麗だった。

 

 

 

ある夏の日の夜のことだ。

俺はいつものように国道沿いを一頭の牡鹿となって爆走していた。緩い風が頬を撫で、むせ返るような田んぼの匂いを鹿の角で切り進んでいた。

蛇行を繰り返し、急ブレーキ。急発進。ジャンプ。直線移動。俺はまさに鹿となり、深夜の国道を駆けた。

不意に眩い光が目に入った。

高鳴るエンジン音が耳に流れ込んだ。

街灯ひとつない暗闇の先に一台の軽トラックのボディが見えた。

まさかこんな時間に道路上を跳ね回る高校生がいるとは運転手も思うまい。軽トラは速度を緩める訳もなく、俺に直進してきた。

避けなければ。

脳の奥で浮かんだその発想を、鹿の角が止めた。

何故かその時の俺にはトラックに確実に勝てるという自信が溢れていた。俺が頭に付けた鹿の角から、猛々しい牡鹿の力が俺の身体に流れ込んでくるのを感じたのだ。

突進してみよう。

俺の脳裏に浮かんだ馬鹿げた考えは咀嚼される前に俺の身体を動かした。走ってくる軽トラに向かって、全力で足を動かした。ヘッドライトが俺を照らし出し、急ブレーキをかける音とアスファルトが削られる音と焦げた臭いがした。

そして、俺は撥ねられた。

高く飛ばされて、アスファルトに落下した。痛みで息が出来なくなった。軽トラの運転手が慌てた様子で俺の方に駆け寄ってくるのがわかった。次第に意識を失っていく最中、手の中の鹿の角が砕け散っているのを見た。

魔法が解けたのだと、そう思った。

俺を浮かばせた熱病のような強さはどこかへ消えてしまっていた。

 

 

 

病院で目が覚めた。

家族の安堵と呆れが浮かぶ表情に見下ろされ、俺はベッドの中にいた。不思議なことに、俺は骨一本折らずにピンピンとしていた。骨折どころか、打撲や捻挫もなく、出血すらなかった。俺から失われたものとしては、唯一、鹿の角だけだった。

軽トラは急ブレーキをかけたとはいえ、それなりにスピードは出ていたし、撥ねられた俺は数メートルは吹き飛んだ。3日間は昏睡状態になっていた。

それだというのに、俺の身体には傷一つ付いていなかった。医者も苦笑いを浮かべるしかできなかった。

 

 

 

あの時、俺は確かに鹿になっていたし、鹿として撥ねられた。病院で目覚めた俺は鹿ではなかったし、鹿の角は失ってしまった。

だから、なんだって話なんだが、その後、都会の大学に進学した俺は入学した年に完全なる不注意で原付に撥ねられた。大した速度は出てなかったが、俺は右腕を骨折して、それは全治二か月だった。

もう俺は鹿ではないという純然たる事実を突きつけられたようで、ほんの少し悲しかった。それから、そんなことを悲しく思った自分に笑えた。

 


あれ以来、ついぞ目にしていないが、今でも、鹿の角は好きだと思う。