わくわくアラスカ紀行

アラスカ、ばり寒い

龍の背

 


冬が近づいてきて、郊外の草原に龍の尾がやってきたと朝方、隣のおばあさんに聴いた。霧が深くかかり、ちょうど見えないでいたが、確かに霧の向こうに何か巨大なものがある気配を感じる。

この地域に龍が現れるなんて、何年振りだろうかと日記帳を引っ張り出して確認すると、なんと9年前の事だった。その時は湖に右後ろ脚が浸かり、水が干上がって騒ぎになった。日記には若い自分が興奮冷めやらないままに走り書きした、のたくった文字があった。

「龍が出たらしいね」

スヴェンが眠たげにパンを口に運んだ。彼はまだ寝間着のままだ。もう昼だというのに、彼の周りだけ時間がゆっくりと進んでいる。

「見物には行った?」

「いいえ、でも、見てみたいわ」

「午後から行ってきたらいい。僕は今日、店を開けるつもりがないから。なんだか手の込んだ料理を作りたい気分だから、シチューを作るんだ」

スヴェンは町外れで煙草や新聞、簡単な生活雑貨を扱う店をやっているが、年中通して、殆ど開けていない。夫として頼りないと思わなくもないが、彼はこう見えて作家でもある。日がな一日、のんびりしながら、郷里に手紙を書くようにして、小説を書いている。店の方は、退屈しのぎでやっているものなのだ。 

「一緒には行ってくれないの?」

柄にもなく、しおらしい事を言ったと少し恥ずかしく思ったが、スヴェンは気にも止めずに、「僕は遠慮しておくよ」と言った。予想通りの反応だったので、いちいちむくれることはしない。

のろのろと蛞蝓のように動くスヴェンをリビングに置いて、階段を登った。時折、猫が鳴くように軋んだ。この家も古くなってきた。生活の匂いのこもった寝室の窓を開けた。まだ暖かい、それでいて冬の冷たさを含んだ、混じり立ての絵の具のように境目のはっきりした風が吹き込んできた。今朝方の深い霧が淡くなっており、その透ける灰色の奥に巨大な山の影が浮かぶ。龍だ。天を衝く龍の巨躯が霧をスクリーンとして、僅かに揺れていた。その手前を誰か子供が離してしまったのだろう、赤い風船が無邪気に浮かんでいった。

その姿を見て、私はすぐさま龍に駆け寄っていきたい衝動に駆られた。巨大過ぎるもの。強大過ぎるもの。人間の手に負えないもの。日常を壊し尽くしてしまうもの。そんなものを目の前にした時、人は冷静ではいられない。

階段をゆっくり降りた。スヴェンは先程と全く同じ姿勢で本を読んでいた。時折、もそもそと口が動くのでパンを咀嚼しているのだろう。

「龍を見てくるね」

「うん。気をつけて」

チラリとも見ずに、スヴェンは言った。帰ってきても、彼はきっと同じ姿勢をしている筈だ。

玄関のドアを開け、雑木林へ続く道を進んだ。雑木林を抜けたところに広がる草原に龍がいると聞いている。森林に充満する土の匂いを吸い込み、柔らかな腐葉土の上を歩いた。陽光が霧に乱反射して思わぬところに光がある。

風が凪いだ。

いや、巨大すぎる龍の身体が風を防いでしまっているのだ。黒く隆起した岩石に赤々とした棘が乱立した巨大な軀がそこにあった。

龍は身動ぎひとつすることなく、そこにいた。周囲には見物客がちらほらと見えた。皆、一様にカメラを構え、巨大な龍を撮影していた。中には龍の肌に触れ、興奮している者もいた。

なだらかな丘の道のように伸び行く龍の尾が私の前に悠然と広がっている。龍の尾を大袈裟なリュックを背負った男が軽快に降りてきた。

龍の旅人だ。

誰が始めたのかはわからないが、龍の背を山の代わりにトレッキングする行為が当たり前のように普及している。龍の旅人なんて大層な名称が付けられているが、子供からお年寄りまで幅広い世代で行われている謂わばレジャーのようなものだ。

龍は巨大で、一目ではどれくらいの大きさがあるかわからず、どこに着くのかもわからないし、どれくらいの距離があるかも大まかにしかわからない。けれど、どうやらそういうところがウケたらしい。

背を歩かれる龍にとってみれば、迷惑千万な話だが、彼らは優しくおおらかな生物であるので、暴れて被害を出すこともない。ただ、ジッと人間が歩き渡るのを待っている。

「こんにちは」

男は私に気がつくと毛糸の帽子を脱いで、和かに微笑んだ。綺麗な禿頭は運動で上気したのか、茹で蛸のように赤くなっている。

「頭までどれくらいの距離でしたか」

悠然とそびえる龍を見上げて、彼にそう尋ねた。男はダウンジャケットの袖をめくり、腕時計を確認すると「7時間くらいかな」と言った。

「でも、私は龍の頂上で食事をしたり、羽休めをする鳥の写真を撮ったりしていたから、真っ直ぐ歩けばほんの5時間程度かな」

「そんなものですか」

「どうやらまだ若い龍らしいね。私が歩いた中で一番巨大だった龍は、頭から尾の先まで一週間かかったもの」

男は自慢げに胸を張った。長い旅路ほど龍の旅人界隈ではステータスになるらしい。

「頭の方はどこに続いてますか」

「どこに繋がっているかを伝えるのは、龍の旅人としては、タブーなのだけどね。貴女は龍の旅人ではないし、問題ないか」

男は隣の市の地名を答えた。意外と近い。いや、麻痺してるだけで充分に巨大だ。優に20キロ以上ある。

「興味があるなら登ってみると良い。格別だよ」

男の言葉に胸が躍った。そう言って欲しかったのかもしれない。緩慢な毎日に退屈していたところだ。ほんの少しの冒険くらい、スヴェンも文句は言うまい。

「この格好だと寒いでしょうか」

シャツにニットのカーディガンを羽織っただけの姿だ。散歩がてら見物しにきただけだから、仕方がない。男は笑いながら頷いた。

「勿論。高さもあるからね、こいつは。ダウンジャケットがベストだよ」

「ちょっと着替えてきます」

私の返答に男は驚いたように目を開いた。

「決断力のある人だ。そうだね、私はこの街を少し歩いて、家族に土産を買ってくるから、1時間後にここに集合することにしよう。一緒に登ろう。帰りは向こうからバスが出ている筈だし、晩飯時には帰ってこれるはずさ」

私は小さく頷いた。胸の奥から沸き起こる小規模な冒険への期待に酔っていた。

「自己紹介がまだだったね。ウォルトン・ロッテンベルク。大学教授をしている」

ウォルトンはそう名乗り、身綺麗な革製の名刺入れから滑らかに名刺を取り出した。出せるものなど何もないので、名刺を受け取りお辞儀をした。

「先生なのですね」

「そんな大層なものでもない。定員が空いていて、運良く潜り込めたようなものだから」

「それでもすごいことです。あ、私はマクダ・ギーゼブレヒトです」

「よろしく、マクダ。君と会えたのは僥倖だ」

「それでは、先生。また後で」

「ああ」

ウォルトンと別れ、私はスキップをしたい心持ちだった。龍の背を歩く。雲よりも高い場所を、それも偉大なる生き物の背を歩く。破格の値で買った底の薄いスニーカーが、龍の背を踏む。実感が沸かない。スピーディーに進んで行く展開に、私は私が登場するフィクション映画を観ている気になった。

「あの人に行き先だけは伝えておかないと」

スヴェンはなんと言うのだろうか。驚くだろうか。反対するだろうか。ひょっとしたら、なんの反応もなく、「行っといで」で済ましてしまうかもしれない。

夫の反応を想像し、くすくすと笑った。玄関の扉を開けて、スヴェンを探したが、彼の姿はなかった。スヴェンの定位置、ダイニングに置かれたテーブルの上には一枚のメモ用紙が置かれていた。

「夕飯の買い物に出かける。良い子牛の肉を買ってくる」

短くまとめられた文章に少し苛立った。スヴェンに対して私の予想はことごとく外れる。思い通りに動いてくれた試しなどない。いつも自由に生きている。そこに惹かれたのは事実だが、時折、何故一緒に暮らしているのかと疑問が浮かぶ。

メモ用紙の書置きの下に、「龍の背を登ってくる」と殴り書いた。そのまま寝室へと向かい、防寒に優れていそうな上着を取り出し、軽くリビング周りの清掃をしてから、ゆっくりと身支度をした。昼食がまだだったので、近所のパン屋でベーグルサンドを買って歩きながら食べた。スモークされたサーモンの塩気がオリーブの風味と合って絶品なのだ。包み紙に印字されたペリカンのイラストが可愛らしい。

約束の時間より5分ほど早く到着したが、ウォルトンは既に龍の尾の先で待っていた。手に持つ土産の入った袋をリュックサックへと詰め込んでいる。

「お待たせして申し訳ないです」

「いや、私も今来たところだよ」

「お土産には何を?」

「うん。オリーブが特産なのだね。家内にオイルと晩酌用に塩漬けを一瓶」

「良い買い物をされました」

この地域のオリーブは上質で、遠方からわざわざオイルを取り寄せるレストランもあると聴く。実そのものも特別品で、この地域のバルでは下手なつまみを注文するより、オリーブの塩漬けを頼む客の方が多い。

「それでは、登ろうか」

リュックを背負い、少しも気負わずにウォルトンは言った。龍には登り慣れているのだろう。緊張など微塵も感じさせない雰囲気だ。

ウォルトンの上気する禿頭を思い出し、ふいに微笑む。安堵を覚える風貌だ。

どんどんと岩の道とも思える龍の尾を踏み進めるウォルトンに続いて、最初の一歩を踏み出した。この一歩は私にとって小さな一歩かもしれないが、意味のある一歩だ。有名な宇宙飛行士の言葉を思い出した。

ごつごつとした龍の肌は、舗装されていない岩山のようで酷く歩き辛かった。転んだら切ってしまいそうなほどに、肌は隆起していた。しばし、ウォルトンに続き、無言で歩いた。きっかり、30分程登った頃だろうか、やけに勾配が急になった。膝に力を込めなければずり落ちてしまいそうだ。

ウォルトンは慣れた足取りで跳ねるようにして、軽快に登っていく。私はその後ろを這うようにしてついていく。龍の肌からは硫黄の香りが立ち昇っている。

「これは、可燃性だったりしますか?」

「いや、どうも、龍は溶岩や岩石を食べるみたいだから、この匂いはその成分なんじゃないだろうか。少なくとも背中でコーヒーを沸かした時、爆発は起きなかったよ」

ウォルトンは勢いよく笑った。彼なりのジョークなのかもしれない。

「それにしても、突然、急勾配になりましたね」

私は肩で息をしてウォルトンに声をかけた。

「尾っぽの尻辺りにまできたからね。一番きつい角度だ」

誰か先人が残したのだろう、長く垂れ下がったロープがあった。落下することはないだろうが、滑落の可能性はないこともない。そっとロープに触れた。

「たまに横風が吹くから。龍の守護が効かないこともある」

龍には力がある。

大過ぎる力は漏れ出す光のように、滲んだまま私達に恩恵をもたらす。雨風雪。そういった自然の力は、龍の周囲には殆ど入り込まないと言う。それを龍の守護と呼ぶ。しかし、その守護が効かないということなど初耳だ。

「効かないことなんかあるんですか」

「そりゃああるさ。龍も四六時中、気を張り詰めたくはないだろう。時折、ごう、と風を感じる」

私は触れていたロープを強く握りしめた。

「安心しなさい。これまで龍から落ちた人間は一人だっていない。酔っていたって大丈夫だ」

ウォルトンの口ぶりから、彼が何度か飲酒をしながら龍の上を歩いたことが想像できた。それはきっといい気分なのだろう。自分の覚束ない足元を思い、私はやめておこうと思った。

しばらくすると、ほんの少しだけなだらかになった。平坦とまではいかないものの、リラックスして歩けるほどだ。

ウォルトンが前方で親指を右方へ示している。言われるがままに彼の指差す方へ顔を向けた。

街が一望できた。

冷たい外気に冷やされないように暖炉に火を焼べているのか、煙をもくもくと生やす煙突が乱立する見事な風景だった。自分が住んでいる街は眺める視点を変えるだけで、まるっきり別の街に姿を変えた。あのひとつひとつの煙突の下に誰かが家族と暮らし、パンを焼き、生活を営んでいるのだと他人事のように思った。今朝までは私もあの煙突の中の一本の下、暖まった部屋で食事を作っていたと言うのに。

目の眩む高度からの景色が産む非日常感と、不安定な足場の産むヒリヒリとした現実感とが薄い膜で境界を作っていた。何度も膜を破り、そのどちらにも私は存在していた。

空気は澄みきり、吐いた息は外気のせいで白く曇った。その濁りが地上の不純物のようで、なおさら空の純粋さを感じた。

私はしばらく景色に釘付けになった。視線を逸らしたまま、龍の背を歩いていた。

ふと、我に返り、ウォルトンの姿を探した。

よく見ると、ウォルトンはしきりに龍の背に視線を送っている。何かを探すようにして。

「何か探しているのですか?」

気になってそう声をかけると、はっとしたようにして、ウォルトンはこちらを見た。照れたように頭を掻きながら、なんでもないと首を振った。

「いや、なに、しばらく前に龍の背に腕時計を落としてね」

「大変。高価なものですか?」

「なんのことはない時計だ。就職祝いに父が買ってくれた、まあ、そこそこの値打ちの時計なんだけど。なくなっても大慌てしない程度の、そんなものだ」

「それでも、探すということは、大切な物なのでは?」

言い澱むようにウォルトンは口をすぼめた。それから言いにくそうにぼそりと言葉を発した。

「三年前、父が死んだんだ。脳出血で」

普段暮らす街の遥か頭上で聴く話にしては、現実的な言葉だった。

「昔から仕事熱心な人でね。やっと定年を迎えたと思った矢先のことだった」

「それは残念なことです」

「特別、親子仲が良かったという訳ではないけれど、なんだかあの銀時計をなくしたことがとても惜しくなってしまってね。父が私に贈り物をしてくれたことなんて、記憶を辿る限りあの一度きりだ。父がいなくなった途端、あの唯一の贈り物を手元に置いておきたくなったんだ。現金なものだろう?」

自嘲するように顔を歪めるウォルトンの顔にはしっかりと後悔が浮かんでいた。

「勿論、この龍があの時の龍だという確証はないけれど、どことなく似ている気がするんだ。ひょっとしたらという希望のせいで、普段よりもゆっくり歩いている」

「私も手伝います」

「いやいや。それには及ばないよ。わざわざ手を煩わせることではないから」

「ただ歩くのも、下を見て歩くのも同じことです。手伝いますよ」

「下を見て歩くのは、勿体無くはないかい?周りに普段見ない高さのものがあると言うのに」

ウォルトンは私を気遣うようにして、そう言った。龍の旅人として、折角の景色を楽しませないのも彼の信条に反するのだろう。

「下は龍の背ですよ。これも普段見ないものです」

私は頑固にそう宣言し、龍の背に目を凝らし始めた。火山帯の地面。黒々とした黒曜石の塊。龍の背中は鈍い光を放っていた。

私の言葉にウォルトンは小さく頷くと、龍の背に目を落としながらゆっくりと歩き始めた。私の側までくると、優しい声で「ありがとう」と呟いた。

龍の背中には様々なものが落ちていた。

風で飛ばされた花の種や萎んだ風船、誰かのTシャツも見つけた。龍の守護は、本当のところ、結構いい加減なのかもしれない。

それでも、ウォルトンの時計は見つからないでいた。そもそもが巨大過ぎる龍の背中から、小さな時計を探すという不可能な行為で、ウォルトンが時計を落とした龍が、私たちが背を歩く龍だという根拠もない。それでも、私達は希望を持って龍の背中に目を凝らした。何処までも遠くに龍の背中は続いていた。

いつしか、空の色がオレンジへと変わっていた。澄んだ空から光を含んだ水分が融け出しているように見えて、美しかった。

ウォルトンは首を振りながら、「もう降りないといけない」と悲しそうに言った。

「けれど……」

私は抗おうとしたが、ウォルトンの表情は意外にも明るかった。次第に寒さが増していて、厚着をしていても、歯がカチカチと鳴った。ウォルトンはそんな私の体調の変化に気がついていた。

「無理をすることはない。もともと、もしかしての範疇だったんだ。どうも、この龍ではなかったらしいね」

ウォルトンの言葉に従って、暮れなずむ空を後にした。龍の首はどうなっているのだろうと思っていたが、龍は身体を伏せているらしく、なだらかな坂道が長らく続いているといった様子で首は伸びていた。その上を滑り落ちないよう慎重に進んだ。

龍の顔には大きな木製の梯子がかけられており、それを降った。梯子とは逆の側面には簡素な滑車が取り付けられていた。不思議に思って眺めていると、自転車やバイクを昇降させるものだとウォルトンが教えてくれた。龍の上をサイクリング。なんとも背筋の冷えない趣味だと思ったが、現にそのための器具が取り付けられているというのならば、一定の需要があるのだろう。

梯子を降りる途中、眼前に迫る龍と目が合った。彫刻のように身動ぎもせず、そこに留まっている存在だと、誰かに定められたかのようにして龍はそこにいた。

赤褐色の瞳は紫に染まる空の光を吸収しており、ステンドグラスの彩色を思わせた。顔の皮膚に手を触れてみた。岩の手触りだが、奥深くに燃えるマグマの熱を感じた。この存在は生命力だけでこの街を焼き切ることが可能だろう。

「これが龍だよ」

ウォルトンの言葉に、私はこれまで読んできた御伽噺の中の存在だった龍の背を歩いてきた事実に今更ながら気がついた。

そうだ。

私は、龍の背を歩いたのだ。

ここに臥せる強大な生物の背を。

スニーカーの中の足が熱くなった気がした。龍の体温が乗り移ったようだった。

「先生、今日は本当にありがとうございます。貴重な経験ができました。私、本当に龍の上を歩いたんですね」

私の言葉にウォルトンは満足気に微笑んだ。何から何まで世話になったが、彼の落し物は結局見つからず終わった。そのことが心残りだ。

死んだ父からの贈り物。その喪失はどれほど彼の心に穴を開けているのだろう。私の父はまだ存命で、月に一度は電話をくれる。だから、まだ彼の心持ちは本当の意味では、私には理解できていない。

「さて、せっかくだから珈琲でもご馳走しようと思ったが、もうこんな時間だ。お家の方も心配するだろうし、マクダ。君はそろそろバスに乗るのがいい」

ウォルトンは交通の多い道路を北に指差した。彼の住む街が煌々と灯りを放っている。

「私はあちらへ少し歩いたところから電車にのるつもりだ。君は反対方向に少し行ったところにあるバス停へ向かうといい」

「わかりました。本当にありがとうございました。このお礼はまた今度」

「ああ。そうだ。折角の出会いだ。また後日、うちの方においで。家の方を連れてね。妻を紹介しよう」

そう言ってウォルトンはリュックサックからボールペンとメモ帳を取り出し、几帳面な字で住所を書き、私にくれた。それから龍の上を歩いたばかりだと言うのに、軽快な様子で街の方へと歩いていった。

ウォルトンを見送った後、私はしばらく龍の顔を見上げていた。私がさっきまでその背を歩いていた生物。空を破るほど強大な生物。その顔をしっかりと心に刻み込もうと思った。カメラの類は持参した携帯電話に内蔵されたものだけで、そのカメラもこの闇の中では上手く機能しない。せめて、記憶にだけは刻み付けたいと思った。

どこかで私の名前を呼ぶ声がした。

見上げていた顔を更に上げると、龍の頭部から身を乗り出すようにして、スヴェンの姿があった。驚くことに彼は私が買い物の時などに使う、所謂、ママチャリに乗っていた。

「スヴェン!?」

「探したよ!マクダ!君のせいで今夜はシチューがお預けだ!」

「わかったから、とにかく降りてきなさいよ」

「うん。僕もね、そのつもりなんだよ。勿論。だけどね、降り方がわからないんだ。どうにかしてくれないかい?」

スヴェンは不安そうな声をあげた。蚊の鳴くような声で、彼がとてつもなく困惑していることがわかる。

「側に滑車があるでしょう?それを使うらしいわよ」

「暗くてよく見えないよ。さっきまでこの闇の中、自転車の明かりだけで龍の背のデコボコ道を走ってきたんだよ。膝が震えっぱなしさ」

私は呆れ果てながらも、携帯電話のライトを付けてみる。それでも、龍の頭部にいるスヴェンまでは優に50mはある。光は届かない。

「ああ、その手があるか」

スヴェンが腰のあたりをごそごそとやると、暫しののち、小さな白い光が目に映った。彼も携帯電話のライトを灯したのだろう。

「ここに括り付ければいいのかい?」

「知らないってば。私だって使ったことないのに」

「そんな、君、薄情だよ。おや。どうやら、正解らしい。下の方でもロープを引いてくれ。僕の腕は震えっぱなしだ」

「情けない」

「仕方ないじゃないか。龍の上がこんなに寒いだなんて聴いてない。僕はパジャマのままなんだよ」

呆れた。スヴェンは龍の背をパジャマ姿でサイクリングしたらしい。それも闇の中、ママチャリを使って。無謀としか言いようがない。この話をすれば、ウォルトンは目を丸くして驚くだろう。

尚も喚くスヴェンを無視して、ロープを引いてみる。ずっしりとした重みとロープの軋む音がして、見慣れた私の自転車が姿を見せた。馬鹿馬鹿しいピンク色のファンシーな逸品だ。

「ほら。梯子を降りてきなさい」

「わかったよ」

スヴェンが落ちないかどうか、ハラハラしながら眺めていたが、スヴェンの姿勢は割合、安定していた。久々に地に足を付けたスヴェンは安堵の溜息を長々とついて、涙目を私に向けた。

「ビックリするじゃないか。急に龍に登るだなんて」

「仕方ないじゃない。あなた、留守にしていたんだもの」

「僕がどれだけ心配して……。買ったばかりの子牛の肉をキッチンに置きっぱなしだ。きっと、ボルドーに食べられてる。あの食いしん坊は少し目を離すと肉をムシャムシャやってしまうからね」

飼い犬のボルドーはバーニーズで、躾はひと通り済んでいるが、こと肉類に対しての「待て」だけが苦手で、これまでも何度か買ったばかりの肉製品を盗み食いされている。

「あなたが私を追いかけてくるなんて、思いもしなかった」

本心から出た言葉だった。いつも私のことなんてお構いなしだから、興味もないのだろうと思っていた。

「当たり前じゃないか。君が居なかったら、じゃあ、僕は誰の為にシチューを作ればいいんだい?ボルドーかい?やだね。あいつは調理前の肉でも「絶品」って顔をするぜ。作り甲斐がないよ」

冗談めかして言うスヴェンだが、彼の言葉の中に照れのようなものを感じた。ジョークを持って精一杯の照れ隠しとしたのだろう。それが無性に嬉しかった。満たされた気持ちだった。

「君が見つかって安心したらお腹が空いてきたよ」

スヴェンが腹の辺りをさすった。私も空腹感を感じていたところだ。

「そうね。今は何時頃かしら。どこかで夕食でも食べて帰りましょう。シチューはまた明日」

携帯電話で時刻を確認しようとすると、スヴェンがそれを制した。

「ちょうどいい。龍の背中でね。時計を拾ったんだ。自転車が踏んづけてね、バランスを崩して危うく真っ逆様だった」

「え?嘘でしょ?ちょっと見せて!」

スヴェンの手のひらの中には小さな銀時計が収められていた。まさかと思い、銀時計をひっくり返す。背面に引っ掻いたような文字で、ウォルトンの名が刻まれている。

不思議なこともあるものだ。

私は驚きながらも冷静だった。

私を追ってきたスヴェンが、偶然にもウォルトンが数年前に無くした時計を拾った。その時計はこの世界で無数いる龍の背中で無くしたものだ。どの龍の背に時計があるかなど、誰にもわからない。

それでも、今、スヴェンの手の中にはウォルトンの時計が収まっている。

世界は広く、不思議なこともたくさん起こる。見ようとしないだけで、見方を変えるだけで、案外にして、すぐ側に幸せはある。誰も気が付いてないだけで、奇跡なんてものは掃いて捨てるほどあるのだ。

龍という存在も、現に目の前にある。私はその背を歩いたし、スヴェンは自転車で渡ってきた。

「ねえ、スヴェン。自転車の後ろ、載せてくれないかしら」

「構わないけど。これから引き返すなんて言うんじゃないぞ。もう僕はごめんだ。あんな怖い思いしたくないから」

「違うわよ。寄ってほしい住所があるの」

私はウォルトンにもらったメモを取り出した。彼は今頃、帰路についているだろうか。別れてから大して時間が経っていないから、ひょっとしたらまだ電車の中かもしれない。

ゆっくり、スヴェンの漕ぐ自転車に乗って、ウォルトンの家に時計を届けに行こう。時間はたっぷりとある。送り届けた後は、この街で久々にスヴェンと食事を取ろう。ウォルトンならば、この街の美味しいレストランをきっと教えてくれる筈だ。

スヴェンはまだ事態が飲み込めてないらしく、不安げな表情を浮かべている。私はひょろりとした情けない彼の背中にしがみ付いた。ウォルトンの家までの道のりで、このひょろひょろの背中越しに、龍の背の上であった不思議な出来事について話をしてやろう。

背後で突風が起きた。

静かだった龍が、ひとつ、呼吸をした。