わくわくアラスカ紀行

アラスカ、ばり寒い

あなたは私の心の酸素

 

今日、ロペが死んだ。
"どうやって"死んだのか。そんなこと、わたしは知らないし、知りたくもない。可愛いロペの可愛くない瞬間なんて私は見たくもないし、知らないままでいい。けれど、私はロペが"何故"死んだのかはわかる。知っている。嫌なくらいに知っている。
ロペは炎上して、自殺した。
私の可愛いロペ。世界一可愛くて、凛として、強かったロペ。笑うと、綺麗な顔がクシャと歪んで、それがまた違う側面の可愛さを見せてくれた。真っ直ぐ背筋をのばして、夢の先を見ていたロペ。
素直で、馬鹿で、優しくて、構ってあげたくなって、涙脆くて、綺麗で、素敵で、礼儀正しくて、気遣いができて、不器用で、声が少し掠れていて、肌が白くて、味覚が変で、私が大好きなロペを、薄汚い有象無象のクソどもが汚した。踏みにじった。傷つけた。
不特定多数の悪意が、強いロペをぺしゃんこにした。苛烈を極める悪意の渦で、私は結局、ロペを守ることができなかった。
私の大事なロペ。
悔しかったろうな。怖かったろうな。
最後まで私は貴女の味方だったけど、多分、ロペにはそのことは伝わってないんだと思う。
私以外にもロペの味方は当然居たはずだ。それでも、私たちの声はロペには届かずで、有象無象のクソの声に負けてしまった。その事実がなおのこと悔しかった。
ロペは若手俳優との熱愛でゴシップ誌に撮られた。その若手俳優は近々、映画での主役が決定しており、ファン層が大きく、ロペを最初に非難していたのは主にそのファン層だった。それでもロペは、気丈に振る舞っていた。真摯に謝罪し、矢面に立ち、若手俳優と共に声明も出したりもした。
そんなロペを叩き潰したのが、苛烈に燃えていくその騒ぎにどんどんと燃料を投下していくファンでも何でもないただのクソ達だった。気に食わないという理由だけで、ロペの実家の住所や、ロペの家族の情報、ロペの過去を電子の海に投げ込み、ロペを憔悴させた。
ロペがその後、どういう心境で死を選んだのかなんて、想像に難くない。
怒り。悔しさ。やるせなさ。
そんな単語で言い表せない程にぐちゃぐちゃになって、そうして、死んだ。
きっと彼女は絶望して死んだ。
世界はまだ捨てたものじゃないと、私に思わせてくれた存在の彼女は、きっと世界に絶望して死んだ。
私はそれが悔しくて、悔しくて、悔しくて。
私がロペの救いの一端にもなれず、有象無象のロペを好きでもなんでもない連中の言葉に負けたことが悔しくて。
私は、業務中何度も泣いた。仕事が手につかなくなって、トイレに逃げ込んで、化粧が崩れるくらいに泣いて、それでも、ロペが死んだ不条理から目を背けられずにいた。
どうしたらいいのだろうか。
立ち上がることすら困難なほどに私は動揺していた。目眩がする。息ができない。いつからか、ロペは私にとってのこの世界そのものになっていて、彼女がいない世界など、私にとっては生きる意味のない世界と同義だ。
生きる意味を探さなければならない。
ロペのいないこの世界で、私が生き延びる意味を探さなければ、トイレの個室から出られなくなる。そのまま首を括りたい衝動に駆られた。
スマホを乱暴に操作する。淡い紫色のマニキュアで彩られた私の爪がスマホの冷たい画面を引っ掻く。
ロペ。ロペ。ロペ。
たすけて、ロペ。
私は情けなくロペの姿をスマホの中に浮かび上がらせる。画面の中で私と映るロペは笑顔だ。慣れないながらも、私の笑顔も本物だ。
この画面の中が現実で、ロペのいない世界こそが仮初なんだと、認識しようとした。
それでも、ファン友からのメッセンジャーが何件も何件も届いて、それは私を気遣うものだったが、善意が私の錯覚を邪魔した。
最期まで私達に助けを求めてくれていたら、ロペ、私はあなたを助けたのに。
何ができるかはわからない。死んでも、あなたを助けたのに。
ロペ。
私はTwitterでロペの名前を検索した。溢れかえる醜い言葉達。嫌悪に胃がせりあがり、勢いよく嘔吐した。
くだらない連中。生きていても誰一人幸せにできないカス共。私の生きる意味を、私の酸素を、ロペを殺した外道共。
ぶっ殺してやりたい。
私の胸の中に小さく殺意の炎が灯った。ドス黒い炎は勢いよく私を燃やして、私の身体に行き渡った。
息ができるようになった。
生きる意味を見つけた。
こいつらを一人残らず、ぶっ殺してやろう。
それがロペを失った私にできる、この世界を生きていく唯一の方法だった。


私はロペに誹謗中傷を送っていた複数のアカウントを辿った。多くは、ロペが自殺した瞬間にアカウントを閉じていたが、私は既にアカウント全てのリプライや、個人情報が見え隠れするツイートをスクショして保存していた。
溜まっていたスクショ画面を何度も何度も反芻した。ロペを傷つけるためだけに書き込まれた悪意の弾丸は、私にも突き刺さった。
涙を流し、嘔吐を繰り返し、挫けそうになりながらも、ロペのことを思い出し、そうして、アカウントから本人を特定するまでいった。
最初に特定したのは《おにぎり@シャケ》とかいうふざけたハンドルネームの男だった。使ったツールはTwitterだけだったが、それでも姿は割と精巧に浮かび上がった。
リア友とのリプライ。そのbio欄。卒業大学とその年度。あだ名。画像で上がる風景。その他諸々の情報を統合すると、浮かび上がってきた姿。
私はそいつらに復讐しようと心に決めた。
私だけが知っている憎悪の対象。私にしかできないことだと思った。これは、正しい行いなのだと思った。
Amazonで金属バットとバットを入れる肩がけのケースを購入した。なんの感情もなく購入ボタンを押し、クレジットカードから人を殺すための金額が引き落とされた。
Amazonから届いた金属バットの梱包をカッターナイフでザクザクやりながら、私の頭の中にはあの憎い連中の身体をカッターで切り込む想像がありありと浮かんだ。バットではなくナイフを選択した方が良かったかもしれない。それでも、鈍器には衝動を殺意に変換する機能が備わっているように感じられた。
殺すべき相手の情報。その全ては私のiPhone7のフォルダの中に確かに存在していて、殺すための器具は私の手の中にあった。
あとは、私自身が感情を殺意に直結するだけでよかった。理性というストッパーを数度、外そうとしたが、どうしても最後の最後で邪魔をされた。
冷静さが社会規範を携えて、私の目の前に立ち塞がった。私の中では殺意はマグマのように熱く滾っていたのに、ビジネスマン面したそいつが私に渾々と理屈を説いた。
酒を買い込んだ。
頭が馬鹿になる強アルコールのチューハイ缶を3本飲んだ。気分が悪くなり、嘔吐した。トイレの便座に抱きつき、何をしているのかと自問した。
私は何がしたいのだろうか。
吐瀉物の残りが口元にへばりつき、伸びた前髪が汚された。酩酊する世界を数歩歩き、シャワールームに入った。ノズルを顔に向け、勢いよく蛇口を捻った。服も脱がずに、ただ湯を浴びた。服が水を吸い、身体に重さが分散した。
シャワーを浴びながら唸った。私の「あー」とも「うー」ともつかない声は弱い水圧のシャワーにギリギリ押し除けられずに狭い風呂場に反響した。螺旋を描いて排水溝に吸い込まれていく長い髪。詰まり気味な排水溝から溢れ、足を常時浸す風呂場の水。湯気の奥で鏡の中の自分と目があった。
「殺せよ」
鏡の中の私がそう呟いた。
「殺せよ。ロペを殺したアイツらを殺せよ。お前はアイツらが誰かも、どこに住んでるのかも、全部知ってるんだろ。なにやってんだよ」
鏡の中の私は歪んだ表情でそう呟き続けた。シャワーの音が霞む。リンスの匂いが鼻についた。鏡の中の自分が消えた。
「殺せよ」
私ははっきりとそう呟いていた。
人を殺す決意をするのに必要なのはチューハイ缶3本なのだとその時知った。


会社を休んだ。
有休なんて制度、ロペの為にしか使ったことがなかった。よくよく考えてみると、今日休んだのもロペの為だった。
私の世界はロペ中心で回っている。
中心の消えた世界で、私は上手く歩くことができない。緯度も経度も無茶苦茶で360度に動き回る世界で、私は立つことができない。
ベッドの中で考えた。
ロペのことを。
ロペを殺したあいつらをどうやって殺してみせるか。
私の中に、答えははっきりと出ていた。生きてきたことを後悔させるほどに痛めつけ、ロペという存在の尊さを自覚させ、その上で殺す。バットで撃ち抜く。殺す。
緩慢にベッドから立ち上がる。バットをケースに閉じ込め、肩からかける。冷凍庫から氷を取り出して、ガリガリと齧る。
駐車場に向い、マイカーの鍵を開ける。慣れ親しんだシート位置、バックミラーの角度、ステアリングの感触。それだけで私は冷静になれた。
これから、人を殺すにはあまりにも慣れた気持ちでアクセルペダルを踏んだ。近場のセブンイレブンでアイスコーヒーを購入した。ナビにざっくりとしたターゲット宅の住所を入力した。
今日は平日だ。
ターゲットが帰宅するのを待とう。
私のNBOX(青)は緩やかに発進した。


《おにぎり@シャケ》の住んでるアパートは小綺麗な雰囲気の二階建てだった。
二階部に住んでるのは、吉田、山岡、佐藤の3人だというのは、郵便受けの表札から分かった。この中のどれかが、《おにぎり@シャケ》で、ロペを殺した一因なのだというのがわかった。
苗字なんか、正直どうだってよかった。
存在が。
ロペを殺したという存在が、私には必要だった。
私が生きるために、ロペの復讐のために、死ぬ存在が必要だというだけだった。
外見の画像は既にSNSから拾ってきており、問題はない。今日はおそらく仕事だろうから、帰ってくる姿をその画像と照らし合わせ、判断する。
どれくらい時間が経っただろうか。
判然としない。
カーステレオからのラジオで流行りの曲が何度も流れた。口ずさむことはしなかった。私の覚悟が口から歌と一緒に流れ出してしまいそうで、それが無性に怖かった。
人を殺すことに対する倫理の綻びは恐怖の対象ではなかった。ただ、私自身の在り方が歪むこと、覚悟が揺らぐことが怖くて仕方がなかった。
似ているようで本質は全く異なる。恐怖の質が異なる。
私は怪物になることは厭わないが、怪物になることを迷うようなことが起こりうることにひたすらに恐怖した。
ステアリングに寄りかかり、闇の先を見つめた。街灯の細い光に照らされて、アスファルトがてらてらと粘っこく光る。小さな蜘蛛の巣がサイドミラーとドアの隙間に見えた。家主はいない。風で吹き飛んだのだろうか。家主を伴わない寂しいあばら家としての蜘蛛の巣は、それでも美しかった。光を反射させて、破れながらも形を保っていた。
形を保っているものは美しい。
異形へと、殊更に形を失いつつ、壊れていく自分と比較して、その美しさは眩しかった。
ロペは形を保ったままに消えた。
ロペという形は結局のところ、瓦解することなく、この世から消えた。ロペの体は炎で燃やされ、灰となり、骨へと姿を変えた。それでも、ロペという形は美しいままに私の前にある。壊し尽くされてもなお、ロペは美しいままだった。
街灯の先に人影が見えた。
小さな背丈の男が疲れた様子で現れた。
あいつだ
私は確信する。
復讐の相手の顔は何度も確認した。
私が殺す男。
私が殺すべき人間。
それが、そこにいた。
彷徨う幽鬼のように車からぬるりと出た。助手席側に回り、バットをケースから取り出した。アスファルトに擦るようにして音を鳴らした。
男が私に気がついた。
夜間にバットを持つ女に警戒したのだろう、たじろぐ素振りを見せる。
「なんだよ」
厭な声だ。
不快さで鳥肌が立つのがわかる。
薄汚い、ドブ底の汚泥のような声だ。
ああ、厭だ。
「あんた、ロペがどれだけ苦しんだか知ってる?」
「は?ロペ?」
《おにぎり@シャケ》は気味の悪いものを見るかのように私を見た。ロペの名前に思い当たることなどないようだった。
頭がスッと冷えた。
「あんたが殺したんだ」
会話など無駄なことはわかっていた。
私のこの行き場のない、名前のない感情は唾棄すべき男との会話の中で消失するとは思ってもなかった。
脳漿。
汚物と大差ない脳漿を、頭蓋を割って撒き散らして初めて、その感情は収まる。この気分の悪さもその時初めて、消える。
そんなことはわかっていた。
それでも、私は会話を試みた。
ロペの死に意味はあったのか。ロペがこの世界から消える意味があったのか。この愚物から得られるとは思えなかったが、それでも、確認せずには居られなかった。
「わけわかんねえ。警察呼ぶぞお前」
「いいよ、呼べよ。その前に答えろよ。なんでロペが死なないといけなかったのか」
「やっば。本気でやばいなお前。気持ち悪い」
男は私に背を向けて歩き出した。その背中から声が聞こえた。
「知らねえよそんなやつ」
私は。
答えを得た。
私は夜を背景にして飛び上がり、金属の塊を振り下ろした。


バットの衝撃は不思議に掌に馴染んだ。胸糞悪いカスの頭部を粉砕する衝撃は赤い鮮血を撒き散らし、私を高揚させた。
どしゃりとアスファルトに倒れ込む《おにぎり@シャケ》を見下ろし、上がった息を整えた。
ロペ、やったよ。ロペを傷つけた馬鹿をひとり、傷つけてやったよ。
私の胸にロペへの贖罪じみた感情が湧き上がった。雨が強くなった。私の身体を打つ雨粒はその飛沫で息ができなくなる程の強さだった。溺れそうな雨だった。
私が殴った《おにぎり@シャケ》が呻きながら身動ぎをした。まだ生きていた。弾丸のように降る雨の中、砂利に塗れてアスファルトを這った。当然のことだったが、一発殴った程度ではどうやら人間は死なないらしい。私は虫を潰すように《おにぎり@シャケ》を踏んだ。何度も何度も踏んで、深呼吸をした。肺に水が満たされて苦しかった。澄んだ雨の夜の空気が水と一緒に肺に入り込み、それが心地よくもあった。
呻く《おにぎり@シャケ》をその場に置いて、私は路駐していたNBOXに向かい、エンジンをかけた。そのまま緩やかに《おにぎり@シャケ》の隣に車を寄せ、後部座席の扉を開いた。
持ってきていたガムテープで両手両足を封じて、《おにぎり@シャケ》を乱暴に後部座席に押し込んだ。女の私でも割と簡単にその作業が進んだのは、《おにぎり@シャケ》の体型が痩せ形のチビだったからだ。
このチビがロペを追い詰めたんだ。
私に簡単にボコられて車に詰められるこの雑魚のせいで、可愛い可愛いロペが死んだ。
無性に腹が立って、後部座席に横たわる《おにぎり@シャケ》の腹部を何度も殴った。鼻水と涙と血で塗れた顔を歪ませて、《おにぎり@シャケ》は喘いだ。妙に高い声だ。勘に触る。
繰り返し殴り続けていたせいか、《おにぎり@シャケ》が緩やかに嘔吐した。吐瀉物が私の車の後部座席を汚す。
噎せ返る酸っぱい臭いに怒りは湧かなかった。ただ、生きているんだと実感できた。この小さな弱い人間は生きていて、私のロペを殺したんだと事実が確認できた。ぶっ殺してやると強く思った。
後部座席のドアを勢いよく閉め、私は運転席に乗り込んだ。アクセルを踏むと、フロントガラスに雨粒が当たりうるさかった。
バックミラーを見ると、《おにぎり@シャケ》が泣きながら何か呻いていたが、無視した。流石に吐瀉物の臭いが気持ち悪く、窓を開けた。雨粒が勢いよく入ってきて、私の右半身を濡らした。その冷たさが現実と夢との間を繋いでいた。
国道を走らせ、何度目かのコンビニエンスの光に吸い込まれるようにして、私は駐車場に入っていった。呻く《おにぎり@シャケ》を残し、店内に入った。缶コーヒーとおにぎりを数個購入した。現金がなく、ポイントを使って購入した。このポイントはロペのLIVEのチケットを買って貯めたものだ。
車に戻ると《おにぎり@シャケ》が後部座席の窓から助けを求めようと顔を覗かせていた。私に気付いて、涙目の奥で絶望が広がった。
私は後部座席のドアを開け、思い切り《おにぎり@シャケ》の顔を蹴り付けた。私のNIKEのスニーカーは《おにぎり@シャケ》の不快な顔を思い切り吹き飛ばし、反対方向の窓にぶつけた。鼻血を垂らし、驚いた表情でこちらを見る《おにぎり@シャケ》に笑顔を見せてやった。
落ち着けよ。
大丈夫、ちゃんと殺してやるから。
胸の奥から覗かせる嗜虐性を表情筋に乗せた。
《おにぎり@シャケ》はただグズグズと嗚咽を漏らし始めた。車のエンジンをかけて、伸びる国道をひたすらに走らせた。


人気のない国道沿いに路駐した。国道と言っても山肌が間近に見えるくらいには山深い道で、車の通りは一切ない。
私は《おにぎり@シャケ》を後部座席から勢いよく引き摺り出した。アスファルトと砂利とで顔と手を擦りむいた《おにぎり@シャケ》が情けなく呻いた。その声が癇に触った。
この程度で呻くなよ。ロペはもっと辛かったんだからな。
顔を蹴り上げた。靴越しに足の甲に鈍い肉の感触が走った。不愉快だった。
助手席からロープを取り出し《おにぎり@シャケ》の手首に巻き付け、そのまま引き摺る。抵抗する動きを見せた瞬間に蹴りを入れた。尚のこと抵抗するので、指を勢いよくバッドで潰した。
闇の中に絶叫が響いた。
痛みで神経が過敏になった《おにぎり@シャケ》は顔中から汁をこぼしていた。息は荒く、上手く呼吸すらもできていなかった。手近な樹にロープで身体を縛り上げてやった。
「ごめんなさいッ…ゆる…ゆるじでッ…」
樹に縛りつけられ、私を見上げる《おにぎり@シャケ》は醜かった。潰れた鼻。細い目。エラの出た頬。美しいロペと比べて、あまりにも醜かった。
「なんでお前が生きてるんだよ」
言葉は、嗄れて砂のようだった。
私はコンビニで買ってきたシャケおにぎりを《おにぎり@シャケ》の口に無理やり詰め込んだ。米のつぶれる感覚と《おにぎり@シャケ》の漏らす鼻息とが右手に感じられて、ひたすらに不快だった。
「ふぐっ…ぶぶ…」
何度も米を吐き出し、私の右手は唾液と咀嚼された米粒の破片で汚された。地面から落ち葉の混ざった土をすくい、《おにぎり@シャケ》の口内に詰め込んだ。
「食えよ食えよ食えよ食えよ!!!!泥食えよテメェ!」
《おにぎり@シャケ》の食道から迫り上がる胃液と吐瀉物を腐葉土で塞いだ。身体を跳ね上げ、《おにぎり@シャケ》は苦しみを表現した。私はなおも腐葉土を喉奥に詰め込んだ。
「吐いてんじゃねえよ食え食え食え!!泥食え!食えよ食えよ食え!」
気管に詰まったのか、数度痙攣して《おにぎり@シャケ》が動きを止めた。喉を蹴った。腹を蹴った。血と泥と米と吐瀉物が勢いよく《おにぎり@シャケ》の口から飛び出た。
「ひゅー…ふっ…ゔぁッ…」
酸素を再び肺に入れることができた《おにぎり@シャケ》の口に再びおにぎりを詰め込んだ。腐葉土も詰め込んだ。唾を吐きかけた。
何度も何度も何度も何度も、胃が膨れ上がる目一杯、米と腐葉土を詰め込み続けた。
唐突に私は飽きた。
《おにぎり@シャケ》を痛めつけることに飽きた。
もうこれ以上、こいつに存在して欲しくなくなった。復讐の嗜虐心が、殺意に負けた。
「死ねよお前」
私は力なく放心する《おにぎり@シャケ》を見下ろした。金属バットを空高く振り上げた。
《おにぎり@シャケ》はそこまで痛めつけられていても、尚、生に執着するように怯えた表情を私に向けた。どうせ命乞いだろうが、土が詰まっていて何を言っているのかわからなかった。
どこまで、醜いんだお前は。
私は勢いよく金属バットを振り下ろした。
頭蓋の割れる音がした。脳の潰れる感覚があった。
引き千切れた肉と液体の撒き散らされる音が静かな雑木林に響いた。
生温い湿度の中に、人間の中身の臭いと腐葉土の臭いとが不快なほどに立ち昇った。
私はその場に座り込んで、大きく息を吸った。涙が溢れた。感情が昂って、コントロールが効かなくなっていた。鼻血が垂れた。
それでも、私は笑っていた。
大きな笑い声だけが、月の光も入らない暗闇の雑木林に長い時間こだましていた。

 

人を殺した次の日の朝は思いの外、目覚めが良かった。今日も天気が悪かった。関東は1日を通して雨が降り続けるそうだ。今日も人を殺そうと思った。
雨の日なら、人を殺しても罪悪感がないと、何故かそう思った。
罪悪感?
ふと、疑問に思う。
私は罪悪感を覚えているのだろうか。
自分にとって間違いではないと選択した殺人に、疑問を覚えているのか。
自分が立っている場所が酷く不安定に思えた。エアコンのリモコンが大きくなったり、小さくなったり、錯視のように見えた。目覚まし時計の秒針がやけに大きく響いた。
私は逃げるように部屋を出た。
スーツはアイロンをかけ忘れ、しわくちゃのまま。化粧だって出来ていない。それでも、私は常に移動しなければならないとそう思った。
動きを止めると死ぬマグロのように、街を回遊しなければならないと思った。
コンビニでシャケおにぎりを買って駅までの道中で食べた。梱包されていたフィルムはゴミ袋にまとめ、鞄の中に押し込んだ。
電車の中は酷く混み合っていた。軋むレールと動き続ける車窓の風景が気持ち悪かった。駅について、車両から放出される人波に乗って、私も歩き出した。
電光掲示板。改札機。人。自動販売機。人。くだらない広告。全てが癪に触った。それなのに、いつもよりも周囲に目を向ける自分に気がついた。見ると苛立つはずなのに、まるで、自分から苛立つものを探すかのように、私は周囲に目を光らせた。
横断歩道の途中に中身の入ったペットボトルが落ちていた。誰もが無視をして、過ぎ去っていく乗用車は面倒臭そうに避けて通っていた。
信号が変わって、私はそのペットボトルを拾い、鞄の中に押し込んだ。誰のものかわからないものを拾うのは気分が悪かったが、誰かに許してもらいたいという気持ちがそうさせた。
自分の中にまだ理性が残っているのかと驚いた。そもそも、人を殺すことがペットボトルを拾う程度で帳消しになるとは思えない。
ロペを傷つけたあいつらを殺すことが正しいと思う気持ちと人を殺すことが悪いことだと思う気持ちとが、何度もサイクルしていた。
その時々で、自分の感情が切り替わり、思考そのものが入れ替わっていく。
その中途半端さに酔いに似た気分の悪さを感じたが、昨日の経験を反芻すると、すっと頭が冷えた。「大丈夫だ。私は大丈夫。」
これからも殺すことができる。
途中でやめるなんて、私にはできない。
倫理観が消えていく。絶対的な自信が、胸の奥から湧いてくる。鞄の中からペットボトルを取り出した。誰かに許してもらいたくて拾ったゴミ。
私は人混みの中に勢いよくペットボトルを投げ込んだ。アスファルトの上を跳ね、スーツ姿の連中の足を潜り飛んでいくペットボトルは、あるべきところに落ち着いた。数人が非難を送るような目で私を見た。
どうでもいい。
誰にどう思われようが、どうでもいい。
ついさっきまでの償いじみた行為が滑稽に思えた。情けなく思えた。気持ち悪く思えた。
私は何も恥ずべきことなどしていない。
ロペを、大切な人間を殺した人間を、憎しみに塗れて殺しただけだ。
間違ってない。
私は、間違ってない。
街の喧騒は私を置いて、やけに速いスピードで流れて、消えることなく繰り返されていった。


ターゲットは自宅から出てこない。
住宅地には煌々と光る自販機の柔らかな青白い光だけが漏れ出すようにしてあった。霧のような雨がその光を吸収し、不思議に乱反射していた。
私は苛立った。
ターゲットの居場所はわかるのに。
殺したい人間が目の前にいるのに、手を出せない現状が歯痒かった。
私は運転席で煙草を吸った。何度もむせた。
今朝から吸い始めた紫の煙は、私の体には馴染まない。何故、急に喫煙を始めたのかはわからない。
慣れないのは銘柄が悪いのかと10個の銘柄をそれぞれ購入した。不気味なものを見るようにコンビニの店員が私を見ていたが、そんなことはどうだって良かった。
全ての銘柄を試してみて、その全てで激しく咽せた。涙でじんわりと熱くなる眼球と歪む視界の中で、煙草は私には向いてないと判断した。
カーウィンドウを開けて、一本づつ吸った煙草の箱を全て道路に投げ捨てた。雨で箱が濡れて、形を変えていく煙草をじっと見ていた。
痺れが切れた。
私はターゲットの住む家の窓に思い切り石を投げ込んだ。閑静な住宅街に鳴り響くガラスの砕ける音。一瞬の音だったが、私の鼓膜には何度も何度も繰り返されるように、音が鳴っていた。
誰かに見られるかもしれない。
そんな懸念もどうでもいいくらいに感情に浮かされた。熱病のようなその不確かな感情は、理性なんてものを一瞬で覆い尽くしてしまい、私を硝子粉砕者へと仕立て上げた。
鋭利で不規則な穴の空いたガラス窓に人影が現れた。痩せ型の男だった。男は私を見るや否や、「何考えてんだキチガイ」と叫んだ。当然だ。自宅に石を投げ込んでくる女に対しての評として、これ以上の言葉はあるまい。
私は黙ったまま、笑みを浮かべた。暗闇の中、男にその表情が届いたのかはわからないが、いや、事実届いたのだろう。男は憤怒の形相でこちらに向かってきた。
足をガラスで傷つけるだろうに、裸足で私の元までやってきて、襟元を掴みかかってきた。
「なんの怨みがあって、こんな真似するんだ」
声高に叫んだ言葉も私には水中の言葉のようにくぐもって聴こえた。
なんの怨みだ?
ロペの怨みに決まってんだろ、タコスケ。
私は左手に持っていたスタンガンのスイッチを押し込んだ。ばちん、という炸裂音と、蛋白質の焦げる厭な臭いがした。潰された蛙の死体のように、男の全身が仰反る。
スタンガンの電力もなかなか馬鹿にならない。気絶させるほどの威力はないが、それでも大の男を痙攣させ、頽れさせるほどの電力があった。
ネットの情報では、「ドラマとかでスタンガンで気絶するシーンあるけど、あんなものは嘘w」なんて匿名の投稿が散見したが、やってみればこんなものだ。
この男が電力に弱かったのか、手に持つスタンガンが強力なものだったのか、そんなことはどうでもよかった。続けて、首筋にスタンガンを押しつけ、再度スイッチを押し込む。
二度目のばちん、という音で男は完全に伸びきってしまった。
「別に一回で気絶させる必要なんてないもの」
倒れ込んだ男の腕を背面でタイラップで括り付けた。男の左右の小指同士をタイラップの白い圧力できりきりと締め上げる。
N-BOXの後部座席に慣れたように男を詰め込んだ。喧騒で住宅地からの視線を感じた。まだ、周囲の人間には何が起きたのかは理解できないだろう。
それでも、これ以上この場に留まるのはマズいということは理解できた。何気ない様子でアクセルを踏み込み、住宅街を後にした。


自分の残虐性に、生まれてしまった悪性に気付いてしまった人間は、そこから先の人生をどう生きればいいのだろうか。
次第に慣れてきた煙草をふかした。
喉の痛みに目が潤む。
ただ、その防衛反応が適切に稼働していることに、私自身がまだ壊れていないことがわかって安心した。いや、壊れてしまっていた方が良かったのかもしれない。
目の前で肉塊と化した男の死骸を見下ろして、そう思った。
思いの外、返り血を浴びてしまった。
刃物はもう使いたくない。
握った果物ナイフの柄は血と脂で滑った。
男は最期まで喚いていた。目の奥、鼓膜のある辺りに男の喘ぎが残り続けている。
そこに、不快さ以外のものを感じない私は、正真正銘の怪物なのだろう。
もう迷うことはない。
一度目の殺人の時のように、後悔を覚えることなどない。自分の覚悟が揺らぐことなどない。
自分には際立った才能があるとは思えなかったが、どうやら私には誰かを憎むという才能があったのだろう。
憎悪、復讐という悪性。
全てを破壊するまで止まらないという蛇のような悪意。
誰も私を止めることはできない。
金剛石と同じ硬度の意志で、私の殺意は実行される。
許さない。
許されないから。
「全員、ぶっ殺してやるから待ってろよ」
血に溺れた眼前の肉塊にポリタンクから灯油をかける。どうせなら、生きたまま焼いた方が良かった。止めを差してしまったことに後悔が浮かぶ。
まだ火のついたタバコの吸殻を肉塊に向けて投げた。
火花と一緒に勢いよく肉塊が炎上し、夜のしじまをオレンジ色の炎が乱した。暗闇は黒というよりも濃い紫に近い。紫色の空を立ち昇る炎が舐める。
鎌首をもたげる蛇のようだ。
蛇は私の瞳を渇かして、夜を蹂躙する。
光源に集まってきた羽虫どもを焼き切った。零れた炎が重力に則って、降る。
全てを燃やし尽くせ。
この世界を、成り立たなくしてしまえ。
人が燃える様は幻想的ですらあった。
そんな光景を幻想的と思えるのは、怪物の瞳を通してのみなのかもしれないが、私にはもうどうでもいいことだ。
わからないことに意味などない。
もう吸うこともないだろうから、炎上する屍にタバコを箱ごと投げ込んだ。


身体の節々が痛んだ。
車のシートに座り、夕陽の光に目を細めた。オレンジを背負って、烏だけが悠然と空を支配していた。
今日もまた人を殺すために会社を休んだ。
路駐した車の中でひたすらに時間の経過を待った。漫然とラジオを聴いた。
現れたのは主婦だった。
暇を持て余した主婦。
《なぎさ》というハンドルネームからは、人の悪口しか飛び出してなかった。何が彼女を熱くさせるのか。他人を貶すことに何故そこまで意義を見出せるのか。そんなことの理由は知らないし、理解もしたくないことだ。
私に理解できることは、この年増の小金持ちの女が可愛いロペを殺したということだけだ。
だから殺す。
姿を見せた《なぎさ》を低速の車両で撥ねた。低速ながらも鉄の塊に弾け飛ばされた肉の塊は数度、アスファルトにバウンドして動かなくなった。
死んではない筈だが、不安になった。
殴り殺したかったから、こんなことで死んでもらっては困る。
《なぎさ》を後部座席に詰め込んだ。
抵抗はしないだろうと、拘束はしなかった。
どれくらい走らせた頃だろうか。
《なぎさ》が目を覚ました。
車中で私を詰った。
ただの轢き逃げだと思ったらしく、ごちゃごちゃとうるさかったので、ロペの名前を出した。
思い当たることがあったのだろう、ロペの件で拉致されたことに気づき、ロペの悪口を言い始めた。
私の鼓膜を薄汚い声が揺らした。
私のイコンたるロペを穢す言葉に我慢が出来なくなった。
路肩に停めて、《なぎさ》を引き摺り出した。ガードレールの断面に思い切り額をぶつけてやった。薄い皮膜が破れ、派手に出血した。悲鳴を上げる《なぎさ》を繰り返しガードレールに押しつけた。
額が深く抉れた《なぎさ》はやっと静かになり、それから苦しそうに呻いた。
ガードレールに首を置いて、思い切り頭部に金属バットを振り下ろした。
「ごぎゃ」という音と、ガードレールで首が切れ、流血する音がした。続けて頭部にバッドを振り下ろす。再び頭蓋の砕ける音と、さらに深く首が切れる音。
ギロチンの動きのような金属バットの軌道でガードレールに接した首が抉れた。千切れるまでバットを振るおうとしたが、13回目で頭部がなくなってしまった。首が落ちるよりも前に頭部が擦り切れてなくなってしまった。
こびりつく。
音が。
人の壊れる音が、鼓膜にこびりつく。
それは、タールのように粘度が高く、積み重なるようにして、私の鼓膜に残り続けた。
その感覚はあまりにも不快で、やめてしまいたくなるけれど、私はロペが大好きだから笑ってみせた。
笑って、笑って、笑って。
そうすればもう、こびりついた音は笑い声の中で霧散してしまう。
私は笑った。
笑い続けるしか、この狂った情動を抑えられない。
どこまでも私の笑い声は響いていく。
世界に、私の怒りを響かせるのだ。
どこまでも、どこまでも。


それからも私は殺人を繰り返した。
噎せ返るほどの血を浴びて、戦国時代の武者のように人を殺した。
羅刹として、世界を闊歩した。
金属バットには毛髪やら肉片やらがこびりついて臭った。べこべこに凹んだ金属塊は死臭を撒き散らしていたが、そんなことはどうでもよかった。
凶器はこうあるべきだと、冷蔵庫の横に放置していた。
私の殺人は次第に世間を騒がせ始めた。
被害者の関連に、徐々にロペの姿が浮かび上がり始めたのだ。
《被害者はみな、自殺したアイドルを誹謗中傷していた》
そんなミッシングリングに世間が気づき始めた。
犯人像(私)には、熱狂的なロペのファンが挙げられた。正解だ。
私のプロファイリングが進もうが、私の為すべきことは変わらない。
復讐だ。
復讐を為すだけだ。
キッチンで煮込んでいたトマトスープが沸騰によって吹きこぼれる音がする。慌てて立ち上がり、火力を弱める。上がってきた水位が鍋の縁で焦され、混ざった果肉の繊維がへばりついていた。熱され、乾いた繊維は黄色がかり、鍋に刻印されたように静かだった。
お玉を使って鍋の底を探る。幸い、焦げ付いてはいないようだ。粉末のコンソメを匙で掬い、均等に鍋に振りかける。
香りが変わる。酸味の強い刺すような湯気が薄く、丸くなった。
再び、蓋をして、弱火のまま鍋を離れる。
ソファに座る。経年の劣化により、摩耗したフェルトを撫でた。
メッセンジャーの音が鳴る。
ロペのファン友達からの連絡だった。
メッセンジャーには簡潔に「話がある」とだけ示されていた。
悪い予感がした。
私の悪い予感は当たる。
会いに行けば、『決定的な何か』が起こることが理解できた。
「いつものとこで待ってる」
続け様にメッセージが飛び込んでくる。『いつものとこ』とは、私と彼女が毎度、合流するファミレスのことだろう。
ロペのライブ終わりなどに、お互いの最寄駅から同じ距離くらいのアクセスの良いファミレスで何度も語り合いを繰り広げた。思い出の場所だが、ロペの死んだ今、あの場所は落ち着かない場所になってしまった。ロペの不在が浮き彫りになる、ロペの死を顕著に感じる喪失の場所となった。
気乗りはしないが、無理やり身体を動かしてシャワーを浴びた。時間が多少余ったが、化粧をする気分になれずそのままぼんやりと教育テレビを観た。吉田兼好徒然草に関する番組だった。結構、面白く観れた。時間になったので家を出た。
駅までの道を歩く傍ら、こういう時にちょうどいいなと、残っていた煙草に火をつけた。案の定、咽せたが、それでも先日よりは幾分か慣れた。
駅のホームには人がまばらだった。
元々、人の少ない駅であることに加えて、休日の中途半端な時間に外出する人間も少ない。皆、退屈そうにスマホを弄っている。
鳩の方がよっぽど、人生を謳歌している。足元にぞろぞろと群れる鳩を一瞥した。深夜に酔っ払いが粗相したのであろう吐瀉物を嘴で突いている。
乾き切った吐瀉物を見て、人間から飛び出すものは全て、汚らしいものだと実感した。血も脳漿も、体液も、言葉ですらおぞましい。人間なんて、汚物で固められた存在なんだと実感できる。
裂くような甲高い音を鳴らし、電車がやってきた。寸分の狂いもなく、ドアが目の前に止まる。気持ちの悪いことだ。どうしたって理不尽な世界において、機械的に精巧な動作というものは不気味でしかない。
待ち合わせの駅のホームに美里の姿を確認した。彼女は缶コーヒーをラッコのように両手で持っていた。セーターの裾を余らせて、缶を包み込むようにしていた。
隙が多いなと思った。いや、むしろ、隙を多く作っているのだ。彼女の外見で、ここまで隙を作れば、男の方がどんどんと寄ってくる。そういうことを理解してやっているところが、彼女にはある。そういう態度が私は嫌いではなかった。流石に好きとは言えないが、意図された姿勢に私は努力を感じるし、それは武器として見える。
「美里」
私の声で彼女は振り向いた。
私をみて少し戸惑う仕草を見せる。
「やつれたね」
私の顔をじろじろと眺めて美里はそう評する。スマホのカメラを起動し、内カメラにして自分の顔を映す。なるほど、鏡をじっくりと見る機会がなく、気づかなかったが、私の顔は生気がなく酷くくたびれたものだった。クマは肌に切れ込みを入れたように深く、黒く濁っていた。頬も痩け、唇の色も薄まり、乾燥が目立つ。
「あー、言われてみればそうかも」
だからと言って、そんなことはもはやどうでも良かった。私が美容に気を使うのはロペと会うためだけであって、小綺麗な姿を見せる相手はもういない。
皮膚が剥がれていようが、火傷でどろどろになっていようが、特段問題はない。
「ちゃんとご飯とか食べてる?大丈夫?」
美里は私を心配するようにそう言った。
彼女の歯列矯正のフレームが、口元で光る。
「そんなに目立つかな」
「うん。酷いよ、あんた」
美里は何か言葉を飲み込んだように見えた。なんとなく何を言おうとしたのかわかる。
幽霊みたい。
そのようなことを言おうとしたのだろう。私に対する気遣いと、ロペが死んだことと併せて彼女はその言葉を飲み込んだのだろう。
そうだよ。私、幽霊なんだよ。
怨念だけでこの世界を徘徊する幽霊なんだよ。
生者と交わることができない異物なんだ。
「ファミレス、いこっか」
美里はそう促した。私は肯き、彼女の後に続いた。ロペが生きていた頃はこうして何度も彼女と歩いた。新曲の感想やライブでの彼女の輝きについて熱く語り合った。
なんでもない雑踏。塵と空気で色の変わったアスファルト。生気のない街路樹の緑。
彼女とロペの話をしながら歩く道はそんな灰色な道程でも鮮やかだった。水彩画の色彩だった。
だけど、道は変わった。
水彩の魔法は溶け、砂が舞うようにセピアだった。
「最近、またロペのニュース見るね」
「話題になってるね」
私の殺人が世の中を騒がして、面白がっているメディアが何度もロペの姿をワイドショーに流す。
ロペのライブの姿。自撮り。メンバーとの戯れの動画。
生前のロペの姿が映され、私は気分が悪くなっていた。テレビの液晶を叩き割りたくもなっていた。
もうロペはこの世にいないのに。
未来のロペは見られないのに、過去のロペの姿だけが私の目の中に何重にも何重にも折り重なる。折り重なりミルフィーユ状になったロペの断面が今日も私を苛む。
「藍。あのさ、あんた」
「ん?」
美里が何かを言おうと私の顔を見た。思い詰めたような表情だ。私は彼女の目を逸らさずに見つめた。彼女の目の奥、脳を通過してその先の景色を見るようにして見つめた。
「ごめん、やっぱいい」
口籠るようにして美里は黙る。
「うん」
それ以上、何も言わずにファミレスまでの道を歩いた。ファミレスは夕飯時にもかかわらず、空いていた。
ここのファミレスはいつも空いている。国道沿いにあるにもかかわらずだ。味が特段悪いわけでも接客が悪いわけでもない。
理由がないが、繁盛しない店というものも存在する。
ウエイトレスは私たちをボックス席に案内する。私はハンバーグのセットとドリンクバーを、美里はオムライスとドリンクバーをそれぞれ注文した。飲み物を取りに行こうと席を立つが、美里がそれを制した。
「いいよ、私がとってくる」
「あ、うん。ありがと」
「メロンソーダだよね」
「うん」
私がいつも飲むメロンソーダと氷をグラスに注ぎ、自分はアイスティーを注いで、美里がテーブルに戻ってくる。彼女は氷を使わない。極端に冷たいものが好きではないからとのことだ。
「ありがと」
メロンソーダを口に含む。作られた人工甘味料の味が広がる。
美里はアイスティーを飲みながら、私にロペ関連の殺人事件のニュースを見せてきた。
「毎日のように被害者が出てきて、誹謗中傷した連中の中には直接警察に助けを求めてる奴もいるらしいよ」
グラスの中のストローを甘噛みして、美里は薄ら笑いを浮かべた。
「実際、この件で誹謗中傷に対する法律が厳しくなるって。まあ、誹謗中傷の結果、殺されちゃうこともあるって知ったら、誰もやろうとは思わないだろうけど」
それはその通りだろう。
誹謗中傷は、あくまでも自分が安全なところから行われる。安全圏から、同調圧力、偏った正義の名の下に陰湿な刃を飛ばす。そこには実感はない。実感もなくただの悪意を人に向けて刺す。
その悪意に対して私のような怪物からの襲撃の可能性が生まれるのであれば、普通の人間なら躊躇いが生まれる。
それでもやるような人間は底抜けの馬鹿か狂人だ。
「この殺人を称賛する声もあるんだよ。誹謗中傷で大切な人を亡くした人や、辛い思いをした人達なんかは、この行為を天誅みたいに扱ったり」
私は称賛されたい訳では決してない。
これから先、誹謗中傷を減らそうという大層な理想もない。
私はただロペの為だけにバットを振るう。
そこに正義なんてない。
私にできる最善の行為が、この行為だった。ただそれだけのことだ。
最も、誹謗中傷がなくなるなんて、私はこれっぽっちも思ってない。
今、数が減ろうが、時間が経てば私の殺人は風化して、忘れられていく。ロペの死と同じで、消えてしまう。
そうすれば、いつの間にかゴキブリみたいに誹謗中傷もうじゃうじゃと数を増やしていく。何もなかったように。
そういう繰り返しで私たちの世界はおぞましく周っているんだ。
「私はどうかと思うけどね。こんな殺人、ロペは望んでないと思う」
「ロペは嬉しいと思うよ」
すらすらと続く美里の言葉に、思わず口を挟んだ。美里は驚いたように顔を上げた。
「嬉しい?本気で思ってんの?」
美里が声を荒げる。苛立っているように見える。
「当たり前でしょ」
そんなの当たり前だ。喜ばないわけがない。ロペのためにした殺人を、彼女が喜ばないわけがない。
「自分にあんな酷いこと言って、どんどん追い込んできて、何一つ知らない連中から悪意ぶつけられて何にもできないで辛くて苦しんだロペが、喜ばないわけないじゃん」
死ぬことしかできなかったロペが、奴らを恨んでいない訳がない。できることなら、奴らを全員ぶち殺したかったに決まっている。でも、ロペには出来ないはずだ。
優しくて弱いロペにはできない。
こんなことができるのは、怪物になってしまった私にしかできないんだ。
「そんな訳ないじゃん。ロペがそんなこと思う訳ないじゃん」
「思うよ。ぶっ殺して欲しいって、あいつら勝手なこと言って、あいつら全員ぶっ殺してよって思ってるに決まってんじゃん」
「は?あんたマジで言ってんの?ロペがそんなこと思うって、ほんと、正気で言ってんの?」
「美里はなんもわかってないね。ロペのことなんもわかってない。ロペなら思うよそんなの当然」
「わかってないのあんたの方でしょ。私の大好きなロペを穢すな!黙れ」
「穢す?私が?私がロペを?ふざけんな私のどこがロペを穢してるんだ、ロペのことしか考えてない私のどこがロペのこと穢してるって言うんだ」
「だってそうじゃん、ロペ、こんな殺人、喜ぶ訳ないじゃん。あんたが何を信じて、何を感じて、何を思ったか知らないけど、私の知ってるロペはそんなことしない。そんなこと思わない」
「死ぬまで追い詰められてる人間がさ、そいつら憎まないとでも思ってんの?ロペのことなんだと思ってんの?ねえ?鉄でできてるとでも思ってんの?馬鹿じゃん、はあ?ふざけんなよマジ。なんもわかってないの美里だよ、あんたなんかに好かれてロペ迷惑だよ。理解されてないって辛いだけ」
「ふざけんなよてめえ」
美里が私の頬を張った。私も怯えず美里の頬を張る。渇いた音が店内に数度響く。
いつからか上がり始めた私たちのボルテージに、他の客が興味津々といった表情で私たちのテーブルを見つめる。
お互いを睨みつけ、息を切らして私たちはテーブルに身を乗り出していた。
ウエイトレスが空気を読まずにハンバーグとオムライスを持ってテーブルに並べた。しずしずと「あの、えと、お静かにお願いします」とだけ言ってキッチンへと引っ込んでいった。
大きく息をついて、椅子に深く腰を下ろした。気怠さに襲われる。食事をする気分ではなかったが、ここから早く立ち去るためにハンバーグを片付けてしまいたかった。
「あんたでしょ」
美里は断言するように私に言った。
ファミレスのハンバーグが鉄板で焼ける音だけが響いていた。
「ねえ、あれ、あんたでしょ」
なおも美里は続ける。
私は取り立てて狼狽することもなく、ナイフとフォークでハンバーグを切り分けた。
「そうだよ。私がやってる」
ハンバーグを口に運び、なんでもないように私は言った。美里が息を呑むのがわかった。
「信じらんない」
美里の言葉を無視してハンバーグを咀嚼する。肉汁がやけに野性的な風味で気持ちが悪かった。
氷を入れていない美里のアイスティーは薄まることなく色を保ったままだ。
「なんでわかったの?」
私を睨む美里にそう尋ねてみた。純粋に不思議だった。捕まりたくない気持ちがないわけではなく、気を遣っていたわけではないが、少なくとも、証拠になりそうなものは現場には何ひとつ残していない。
私だと断言されることに、理由がない。
「あんたが一番ロペを信奉していたから」
「信奉?」
「信奉だよ。推しとかその次元じゃなくて、狂信的だったもん。ロペのこと、神様かなんかだと思ってたでしょ、あんた」
神様。
ロペは神様。
美里の言葉が私の中で浮かんで離れない。
私の中での神様の姿ってのは、イエス・キリストみたいなああいう西洋風のローブみたいな布を着たトゲトゲを頭に巻いた長髪の男性で、フリフリふわふわな衣装を着た可愛いロペでは決してない。
それでも、『ロペ=神様』って定義には幾分か納得がいくところがある。
私にとって、ロペは『推し』。大切な存在ではあるけれど、それをうまく説明することはできない。
ロペがどれくらい大切だったのか。優先順位をつけて考えてみる。
家族はどうだろうか。
家族とはそこまで仲がいい訳でもなく、勿論、憎いとかそういう極端なマイナスな心情がある訳でもない。血の繋がった私という人間と世界を繋げる存在。そういうものだ。
けれど、ロペと比べると、私の中ではその順位は下になってしまうのだ。
友人。同僚。仕事。お金。人生。恋人。
次々と頭に浮かぶ対ロペの挑戦者達はばたばたとノックアウトされていく。
そうして、最後に思い浮かんだ『世界』って概念。そいつをロペは右ストレートで可愛く沈めた。
ああ、そうか。
私、この世界にロペより大切なもの存在しないんだ。ロペのいない世界なんか、存在しないことと一緒なんだ。
じゃあ、なんだ、ロペって神様じゃん。
「美里はさ、あいつら殺したいとか思わないの?」
「思うよ!憎いもん!ロペのことなんも知らないのに、面白がって酷いこと言って」
「じゃあ、私と同じじゃない」
「全然違う!私はいくら憎くても、殺したい相手でも、本当に殺したりなんかしない」
なんでなんだろう。
美里は私と同じくらいロペのことを大切に思っているはずだし、ロペのためにあいつらを殺すことも厭わない筈だ。
なのに、どうして、こんな反応なんだろう。
「人殺し」
美里は私を詰った。
冷たくそう評した。
だけど、私の心には少しも傷が付かなかった。
私は人殺しだ。そんなことはわかっている。そうなるとわかっていて、それを成したのだから。
「私をおかしいと思う?」
私の質問に美里は目を見開いた。醜悪な生き物を見るように目を逸らそうとする動きを見た。
「異常だよ」
美里の答えは決まりきっていた。彼女の中の規範に照らし合わせて、私がそのボーダーを如何にはみ出したのか。その一点のみを評価としていた。
「私からしたらおかしいのはあんたたちの方だよ」
つまらなかった。
つまらないと同時に幻滅が産まれた。
別に理解されたい訳ではなかった。私は私の思う正義を追求して、彼女は彼女の規範に沿ってそれを否定した。
何も不思議なことではない。
そうなることが当然の結果だった。
それでも、ロペを好きな彼女、いわば同族の人間が、私の正義を須く否定するのは些かの寂しさがあった。
「ロペ死んだんだよ。殺されたんだよ。アイツらに。復讐するのがファンの在り方でしょ」
私の言葉は止まらない。
間違ったことをしている。その自覚は常に胸の内にある。それでも、抑えきれない力がそれを食い破ろうと歯を立てるのだ。
抉られ、血を流すその規範は、もはや機能しない。機能しないまま、私の中の牙持つ獣は、復讐に走る。
「どうするの?」
美里は私から目を逸らしていた。悍しい物を視界に入れたくないとばかりに、目線を下げていた。緊張からか、ストローの入っていた紙をグシャグシャにした残骸をじっと見つめていた。
「殺すよ。殺す。全員殺す。殺し尽くす。納得なんていかない。全員が全員、死ななければならない。それはもう決まったことだ。それを成すのは私だ」
「私、警察に言うからね」
美里は決定的なカードのようにスマホをチラつかせた。私の心はさらに冷え切っていく。ハンバーグを載せた鉄板からも音が消えた。
「言えばいいよ。信じてもらえるか知らないけど」
「それでも、あんたは動き辛くなる筈でしょう」
美里の手が震えていることに気が付いたが、それでも、なお、彼女の目には私への非難と軽蔑がありありと浮かんでいた。
「いいよ。捕まるまでにできるだけ多く殺してやるから。捕まっても、何年、何十年かかってもあいつら全員ぶっ殺してやるから。死刑になったって、知ったこっちゃない。幽霊になって、生まれ変わって、呪いとなって、あらゆる手段でぶっ殺してやるんだ」
私は呪詛を吐いた。
悪意の塊を、感情の行方を、目の前の美里に向けて吐き出した。
「推しを殺されて、殺し返さないお前らのあり方が私には信じられないんだよ」
目の前のハンバーグにナイフを突き立てた。肉汁が飛び散り、私の服を汚す。美里はスマホを落とした。
もう、彼女と話すことはない。テーブルの上に千円札を二枚叩きつけて席を立った。隣のテーブルの会社員が好奇の目でこちらを見つめていたので、睨みつけた。飛び蹴りを喰らわせてやりたかった。
ファミレスの自動ドアを潜ると、すっかり夜になっていた。


最初は私から声をかけた。
その時、ロペはまだロペという名前を持ってなくて、高崎美月という名前のただの女子高生だった。
高崎美月は放課後の教室で一人で机に向かっていた。誰もいない教室で、彼女は雑誌をやけに姿勢良く眺めていた。
部活途中に、忘れ物に気付いて教室に戻った私は、その時初めて高崎美月という女に気がついた。気がついたというのは、何もその瞬間、その空間に彼女がいるということに気付いたという意味ではない。クラスメイトとして、高崎美月という女を初めて認識したということだ。
それほどまでに高崎美月は平凡だった。
関わりのなかった存在。高崎美月は教室に入ってきた私に驚いた表情を見せて、それから恥ずかしそうに雑誌を机の引き出しにしまった。ちらりと見えたその雑誌は男性向けのアイドル誌のようだった。肌色の割合の多い女が表紙だった。
「ごめん、邪魔したね」
私は軽く高崎美月に声をかけ、それから自分の席から忘れ物の現国の課題を取り出した。
「ううん、別に。大丈夫」
高崎美月は私と目を合わせようとはせずに、教室の奥、時計の方を見てそう言った。風が吹いて、彼女の長い髪が舞い上がった。切れ長の目の下にホクロが見えた。それが、黒い星のようで綺麗だった。
高崎美月はそれ以上、私と話そうとはせず押し黙っていた。目線は机に落とし、居心地の悪そうに身動ぎせず座っていた。
「アイドル好きなの?」
単純に好奇で尋ねた言葉だったが、高崎美月は必要以上に動揺していた。肩がびくっと跳ね上がり、おずおずと私を見つめていた。そんな反応が返ってくるとは思ってもなくて、私の方も少し狼狽した。
「や、ごめん。単に興味で」
私は言い訳をして、その場から立ち去ろうとした。高崎美月は小さく「うん」と頷いて、「可愛い人、好きだから」と消え入りそうに呟いた。
「そっか」
私は逃げるようにして教室を出ようとした。
「村山さん、バレー、頑張ってね」
高崎美月はそう言って、再び、机から雑誌を取り出した。風がカーテンを揺らした。部活動の声が大きく響いた。
廊下を歩きながら、私は高崎美月のことを思い返した。目立たない存在。外見は可愛らしいが人見知りが激しく、大人しいので、特に親しい友達はいない。今日まで会話らしい会話なんかしたこともなかった。私は彼女のことを知らない。なのに、彼女は私の部活のことまで知っていた。
部活に戻ると、既に顧問がいて、「時間にルーズなのはダメだ」と怒られた。どの口が言うのかと理不尽に思った。
その後も、進級してクラスが変わるまで私と高崎美月が会話をすることはなかった。私と彼女、お互いに生きる場所が違う。
それでいいと思った。
私は彼女のことをその時から一度だって思い出すこともなかったし、仲良くなろうとも思わなかった。
だから、就職を機に暮らし始めたこの街で彼女の姿を見た瞬間は、本当に驚いた。
会社近くのCD屋で、その日、特別ライブが開催されていた。別段、興味もなく、人混みが煩わしいだけだった。
安っぽいスポットライトに照らされて踊るロペを見て、私は本能的に高崎美月を思い出した。外見はもちろん、立ち振る舞いも全然変わっていたのに、ロペが高崎美月であることが本能的にわかってしまった。
その瞬間まで、彼女のことなど、一切記憶の中になかったのに、ロペを見た瞬間、あの日の教室の光景がフラッシュバックした。
夢を。
夢を叶えたんだ。
オタクの前に立ち、激しく踊り、歌う彼女の姿を見てそう思った。
高崎美月からアイドルになりたいと聞いたわけじゃない。
会話もろくにしたことがない。
あの瞬間、彼女がアイドル雑誌を読んでいた。その事実から推し量っただけのものだが、確信に近い自信があった。
嬉しかった。
彼女がアイドルになっていたこと、私が彼女のことを覚えていたこと、この広い世界で夢を叶えた彼女をもう一度、見られたこと。
湧き上がる名前を知らない感情のままに、彼女のグループを検索した。お手製のパネルに記載されていたグループ名はGoogleで簡単にヒットして、メンバー情報の中にロペの名前があった。本名は当然、記載されていなかったが、彼女がロペだとすぐにわかった。
プロフィールは薄い、簡素な文字列だったが、それでも不思議と煌めいて見えた。
アイドルなんか別段、興味もなかった。
音楽ですら、適当に人気の曲を追う程度の嗜好だった。
それなのに、私は、ロペの姿に完全に魅了されてしまった。
単調なダンスミュージック。スカスカな音圧。お世辞にも上手いとは言えないダンスと歌。それでも、彼女は輝いていた。
そこにいるということ、ただそれだけが美しく世界を彩っていた。
涙が出た。
尊いものを見たと思った。
並々ならぬ努力があったんだろう。
悔しい評価があったんだろう。
だけど、彼女はそんな泥を押し除けて、ひとつの成果を出して、そこにいた。
下手くそな歌を歌い、下手くそなダンスを踊る彼女を前に私は立ち尽くし、称賛を送り続けた。


ロペのことを追いかけ始めたのはそれからのことだった。
ホームページを逐一チェックし、ライブやイベントの日程を確認し、近場のものには全て参加した。
ただ、どうしても、直接彼女と話す機会だけは躊躇ってしまった。
覚えてもらえているだろうか。
そもそも、ロペは高崎美月なのだろうか。
ブラックボックスを開けることが躊躇われていた。それでも、ファン心理には勝てず、遂に私は握手会に参加することにした。
初めての握手会の時、私の心臓は跳ね上がらんばかりに鼓動していた。ロペが、高崎美月が私のことを覚えてくれているのか、いや、そんな表面的な感情ではなかった。私だけが知ってる、ロペという偶像の過去。それを事実として、存在させたかった。
薄暗いライブハウス、汗の臭いの充満した息苦しい空間の中、私は並んでいた。他のオタクと変わらず、ロペと触れ合うことを目的として、列をなしていた。
私の順番がきて、ロペが目の前にいた。
私から話すことなどできなかった。
ただ、彼女の顔をすっと見つめた。
かつての教室での姿も、はっきりとは思い出せない。断片的に、薄く滲んだ水彩画のような記憶の中の彼女の姿。薄暗いライブハウスの中、その輪郭と現実の彼女の顔とが一致していった。
「わあ、女の子だ。嬉しい」
ロペは作り込んだ高い声で言った。
私の掌を強く握りしめ、私の顔を覗き込んで、柔らかな声でそう言った。ロペの体温が私の手の中にある。
営業用の態度だとわかったが、それこそが、彼女の努力の証なのだと思った。ファンであるならどんな人間にだって、天使として振る舞う。アイドルとしての形が、ロペとしての形が、高崎美月の中には形成されていた。
「あ、ごめんね。女の子のファンってすごい珍しいから、いきなり距離詰めちゃった」
「いや、逆に嬉しい…」
私の声は上擦っていた。やはり、彼女は私のことを覚えてはいなかった。残念だったが、それよりも彼女との会話に浮かされていた。
「背、高いね。モデルさんみたいですごい羨ましいよ」
見上げるように、再度、私の顔を見る。目が合う。綺麗なアーモンド型の眼は、薄茶色で吸い込まれそうだった。その目の下には、小さな黒い星が瞬いていた。
「バスケ部?バレー部?」
「あ、えと、バレー部…。高校の時だけだけど」
「あ、やっぱり!バレー部かあ」
ロペはくしゃりと笑顔になった。それから、少し考え込むように黙って、私の顔をもう一度じっと見た。
彼女の笑顔が張りついた。崩れるように、頬が震える。
「む、村山さん…?」
ロペの声は上擦っていた。さっきまでの営業用の天使の声ではなく、等身大の女の子の声だった。
「え、嘘、なんで?え?」
積み木が崩れ落ちたことに動揺する幼児のように、彼女は乱れた。彼女の前に立った後悔など、消えてなくなっていた。私のことを覚えていたこと、やはり、ロペは高崎美月であったこと、それら全てが喜びとして私の身体に降り注いだ。
「ファンになっちゃった」
私はそれだけ告げた。
動揺するロペの目が私に定まる。潤んでいた目が私を焦点に捉える。
「本当?」
消え入りそうな声だった。私にすがるような声だった。
自分の過去を知る人間の来訪に、彼女は怯えたのだろう。当然だと思う。
「本当だよ」
私の言葉の真偽を確かめるように投げかけられた言葉に、私は確かに本心で答えた。
本当だよ、ロペ。
私、あんたのファンになっちゃった。
噛み締めるように私の言葉を反芻して、ロペはぎこちなく笑った。
表情には不安が浮かびながらも、その笑顔は美しかった。慣れてしまったアイドルの笑顔ではなく、等身大の高崎美月の笑顔だった。私たちの背後で、スタッフの「お時間です」という声が遠く聞こえた。


駅前の喫茶店キャスケット帽を目深に被りながら、ロペはアイスココアを飲んでいた。私の姿を窺いながら、ストローの先を甘噛みしつつ、薄灰色に濁るココアを吸っていた。
CMみたいにコップの氷が、からんと鳴った。
「本当に信じられない。村山さんが、ライブにいるなんて、ってか、その、私のファンになってくれたとか…。え、うん、ドッキリとかだったりする?」
ロペは辺りをキョロキョロと見回す。カメラでも探しているのだろうか。
「違うよ、現実」
私はホットコーヒーを口にする。白い陶製のマグが、中身に熱されて、発熱した人肌程度にぬるい。
「偶然、CD屋でライブイベント見たんだ。雰囲気変わってたけど、なんとなく高崎さんってわかって、目で追ってるうちに」
「驚いた。誰にもアイドルになったこと言ってないのに。あー、まあ、元々話す友達もいなかったんだけど」
握手会の後、私に気づいたロペは別れ際に耳元でこの喫茶店の名前を挙げた。それから泣きそうな顔で「待ってて」と付け加えた。
喜びに満たされながらも、私は平静を装い会場を後にした。ロペに提示された喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文し、ロペのTwitterを遡ったり、本を読んだりして時間を潰した。1時間程した後、ロペの姿が見えた。店の入り口でキョロキョロと辺りを見渡し、その視線が私と交わった時、小さく微笑んだ。
「ごめん、お待たせ」
私の前にロペが座って、店員にアイスココアを注文した。空調の音が大きくなった気がした。季節は夏で、外気温はこの夏一番の暑さを記録していた。
アイスココアを待つ間、ロペはちらちらとこちらの様子を伺っていた。小動物みたいで可愛らしかった。
「村山さん、背、伸びた?」
「え?あ、どうだろ。高校の頃よりは多少伸びたかもしんない」
「だよねー。なんかそんな感じした」
「いやあ、実感ないよそんなの」
「追いつけないや。私、ずっと見上げてる」
掌を自分の頭のてっぺんに置いて、私と比較する。
「羨むもんかな身長って」
「いや、ほんと大事。身長あるとダンスも印象変わるし、ほら、モデルとかも出来るじゃん」
ロペは朗らかに笑う。現状で満足しない彼女の意識の高さを感じた。
「まだまだ全然だからねー。なんとかギリギリ、アイドルやれてるけど、お遊戯会みたいなレベルだし。バイトも続けてるし」
ロペはそう自嘲する。確かにロペ達のグループの知名度は高くない。Twitterのアカウントもフォロワーは1000人程度だ。星の数ほどいるアイドルという存在の中で、彼女達の光はほんの微々たるものだろう。
「なんのバイトしてるの?」
「豚カツ屋さん。千駄木にあるんだよ」
「へー。なんか意外だね。ロペの雰囲気的に」
淡いフリルのついたロペの袖が揺れた。こんな柔らかな女の子が豚カツ屋にいるのが想像できない。
「豚カツ好きなんだもん」
恥ずかしそうにロペは言った。好きな食べ物を扱う店でバイトしてるのなんて子供っぽいとても言いたげだ。そんなことないのに。
「村山さん、また食べにおいでよ。美味しいんだから本当に」
「うん。また今度ね」
私はコーヒーを啜る。店内の空調でぬるくなっていた。
「でも、いいの?私なんかとお茶とかして。あんた、アイドルでしょ?特定のファンと仲良くしてたら、ほら、他のファンに嫌われない?」
私はその懸念を直接告げた。実際、先ほどから居心地が悪い。ロペのことを知っている人間がたとえ、多くはないとしても、ライブ会場の近くで仮にもアイドルがファンと一緒にいるところを、他のファンに目撃されれば、あまり心証はよろしくないはずだ。周囲を窺うように私は小声になる。
「え、違うよ。村山さんは友達。ファンとアイドルって言うか、友達でしょ」
ロペはあっけらかんとして、そう言った。
友達という言葉が私の胸に残った。
「駄目、かな?友達とか」
私の沈黙に傷ついたのか、ロペがこちらの顔色を窺っている。目が潤み、頬が紅潮している。
いいのだろうか。
私とロペは確かにクラスメイトだったが、当時は遊んだことも、それこそ会話すらあの時の一度きりだった筈だ。
それなのに、私とロペはアイドルとファンなんて不確かな関係で再び出会った。
私の知っている友達って関係とは、まるっきり違うもののように思える。それでも、ロペは私と友達になりたいと言う。
「ううん、駄目じゃない。友達だよ、私達」
だから、私の言葉は本心というよりも、泣きそうな顔のロペを宥めるための、そういったものだったはずだ。
「本当?いいの?」
私の言葉でロペは飛び上がらんばかりに喜んだ。罪悪感に似た何かが喉の奥に迫り上がってきた。ロペは興奮冷めやらぬままに、連絡先を求めてきた。
社交辞令とかそういった打算的なものではなく、本当に私と友達になりたいようだった。スマホの画面にQRコードを表示されて、ロペのスマホに読み込ませた。
「あ、ワンちゃんだ」
私のLINEのアイコンを見てロペがはしゃいだ。一昨年死んだ実家のビーグル犬だった。アイコンになるような写真がこれといってなく、趣味と呼べるようなものもなく、それに死んだ彼のことを愛していたから、ずっとこのままだった。
その後、死んだ彼のことや、仕事のことなど、矢継ぎ早に質問され、いつの間にか、1時間以上の時間が経っていた。ロペと話せたことで浮かれていたのか、時計を確認していなかった。
「そろそろ出ようか?」
「あ、そうだね」
若干の名残惜しさを感じさせながらも、ロペは荷物を持って立ち上がる。ロペに続いて入り口へと向かった。
「私、払うよ」
会計時、当たり前のように支払いをしようとした私の腕をロペは止めた。既に財布を取り出していた。
「え、いや、大丈夫よ」
大した額じゃないし。推しに払わせるとかファンとしてあり得なくない?
「ううん。払う」
「いいから」
お互いに譲ることなく財布を振り回した。何度かの後、諦めたようにロペは財布を下ろした。
「じゃあ、割り勘」
ロペは硬貨を数枚、トレイに置いた。私もそれにならって硬貨を置いた。
「ふふ。やっと友達っぽくなった」
悪戯っぽくロペは笑った。それでも納得いかない態度の私に続ける。
「あれ?友達って、こう割り勘とかするんじゃないの?マクドナルドとかファミレスで」
ロペは不安そうにこちらの反応を伺う。その表情に思わず笑いが込み上げる。
「高校生じゃないんだから」
「えー。そうなの?こんな感じだと思ってたんだけど、違うの?わかんないよ、私、友達いないんだから」
口を尖らせてロペは呻く。恥ずかしそうに顔を背ける。甘えた、拗ねた態度が言いようもなく愛おしい。
店員からお釣りを受け取ったロペと並んで店を出た。他に用事もないので駅まで歩いた。あまり利用しない駅だったため、何度か通りを間違えたが、無事にたどり着いた。
「じゃあ、私こっちだから」
利用している路線の方へ足を向けると、喧騒の中、ロペが私を呼び止めた。
「村山さん」
目を伏せながらこちらを窺っている。よく見ると肩が震えている。
「名前で呼んでもいい?」
「え?」
「と、友達なら、名前で呼ぶよね」
ロペの顔は見てわかるくらいに赤く染まった。喧騒の中、ロペの声はやけに大きく聞こえた。
「いや、まあ、全然いいけど、名前なんか覚えてるの?」
「藍ちゃん」
私の質問にロペは即答した。ロペが私の名前を覚えていることに驚いた。迷いもなくすぐに飛び出たことがさらに私を驚かせた。それと同時に言い得ない喜びが私を満たした。
私の名前なんか知らないと思っていた。
絡みなんて全くなかったから、私のことなんか微塵も興味を持っていなかったとばかり思っていた。
「放課後、私に声かけてくれた時から、私、村山さんと友達になりたかった」
私たちの関係なんてとても希薄なものだ。ただのクラスメイト。それが、アイドルとファンなんて歪な関係になって、何年も後にこうやって出会うことがどれほど奇跡的なことか。
「何度か声かけようと思ったんだよ。本当だよ。でも、村山さん、友達いっぱいだし、私なんかが急に声かけたら迷惑かなって。で、結局、3年に上がってクラス替わっちゃって」
ロペの口から言葉が溢れ出る。水の流れのように溢れ続ける。
「変だよね、私。友達一人作れない勇気のない奴が、人前で踊ったり歌ったりのアイドルだよ」
次第に周囲の喧騒が薄れていく。ロペの言葉がだんだん大きくなっているように感じる。
「でも、勇気を持てた今なら、アイドルになれた今なら、あの時言えなかったことも言えるんだ。だからね、藍ちゃんって呼んでもいい?」
ロペの言葉に私は頷く。
ロペは頑張ったのだ。目立たない存在だった自分をここまで変えてまで頑張ったのだ。その指標になれるなら、こんな嬉しいことはない。
「友達だからね。誰がなんと言おうと私たちは友達」
ロペが嬉しそうに小指を差し出す。細く小さな折れてしまいそうな小指。私もロペにならって小指を差し出し、ロペの小指に絡める。
「指切りげんまん」
ロペは悪戯っぽく微笑んで、数度、指を上下させる。おまじないが終わると、周囲の喧騒がまた再び響き始めた。


どんな時でも腹は減る。
失意の中でも、希望の中でも、怒りの渦中においても、私の身体は生きるために最適な手段を取ろうとする。
週末を迎えて、眠り続けたベッドから起き、冷蔵庫を確認する。萎びた大根と少量のキムチだけが悲しそうにこちらを覗いていた。
使い古されたサンダルを履いて、寝巻きのままスーパーへと向かう。歩きながら、ロペに誹謗中傷を送ったアカウントのリストをスマホで確認する。
何日、何ヶ月、何年かかっても、こいつらを全員殺してやると憎しみの炎が燻った。
スーパーの調子の外れたBGMの中、やけに白く明るい照明の下を歩く。何も考えずに食材をカートに詰めていく。
レジの列に並んで、前の客の首筋を見た。この客は私が既に何人も殺していることに気付いていない。気付いた時、こんなにも無警戒に私に背後を取らせていることをどう思うのだろうか。
なんだか悲しくなってきた。
同時に強い虚しさに襲われた。
ロペが私に相談してくれなかったこと。
ロペが私に相談してさえくれていれば、ロペは死ぬことはなかったはずだ。
そんな都合のいい仮定が私を苛める。
けれど、実際は、私はロペに信頼されてなくて、本音を聞くことも、頼りにもされず、ただ彼女の死を悔やむだけだ。
私がロペのためを思って犯す殺人はすべて、何にもできなかった自分を慰めるためのものだ。
色のない世界に生きている。自分だけが異物のような感覚に襲われる。生きることが苦しい。呼吸すらもままならない。
ロペが死んでから、私はずっと息ができない。
ロペは私にとっての酸素だったから。
くだらない世界に立って、生活を送るためにはロペがいなければ駄目なのだ。
ロペ、私は世界で一番、貴女に幸せであって欲しいと願う。貴女が死んで、死んだということすら認められないけれど、私は願う。
祈る。
薄汚い世界の中で、目を覆いたくなるほどに醜悪な私の、たったひとつの純粋な願いなのだ。
買い物の帰り道、亡霊のように虚ろに歩いていると、ロペと何度か寄った公園に引き寄せられた。滑り台とブランコだけがある小さな小さな公園だ。
夜なのでもちろん誰もいない。
闇の中で揺れ続けるブランコに飛び乗った。立ち漕ぎで硬く冷たい鎖を握りしめて、膝に体重を加えて振り子運動を始めた。
夜の空気を私のブランコが何度も何度も切った。住宅街からの暖かい灯りが、薄く滲んで見える。
ロペが死んでから、私の中で蓋をしていた感情が溢れ返る。
なんでだろう。
なんで、私に相談してくれなかったんだろう。
ロペが誰かと付き合ってるってことも、追い詰められるくらいに辛い現実にいることも、私はニュースサイトの後追いでしかない。
私はロペの友達なのに。
ファンである前に、私はロペの友達だった筈なのに。
一緒にご飯にも行った。一緒に買い物にも行った。ロペの狭くて安いワンルームのマンションにも行った。apexもやってた。
それなのに、ロペは私に辛いことを何ひとつ相談してくれなかった。
「藍ちゃん、あのね」
ロペからの電話。始まりはいつもそれからだった。
藍ちゃん、あのね。
ご飯行こう?
新曲出るよ。
メンバーがムカつく。
嫌なファンいた。
あそぼう。
今度、いつ会える?
何度も何度も電話した。何度も何度も、彼女と遊んだ。
何度も、何度も。何度も、何度も。
でも、一番辛いタイミングで、助けを求めてはくれなかった。
私はロペのためなら殺人だって厭わないのに。
私の気持ちはロペには届いていなかった。いや、届いていたのかもしれない。届いていて、なお、不足かと思われたのかもしれない。
考えたくはないが、私の気持ちが迷惑で、友達と思っていたのは此方だけだったのかもしれない。
私はロペのこと、全部わかっていたつもりだけども、結局のところ、私は彼女のことを少しもわかっていなかった。
ブランコの鎖は冷たく、手のひらの皮膚が針で刺されるように痛んで、麻痺した。溜息は冬の空気で白く色づき、薄く空に浮かんだ。
魂のようだ。
私の魂が、今、空に消えていっている。
ロペを思って吐く息が私の魂なのだとしたら、後に残る汚い感情は一体、なんなんだろうか。
ブランコから飛び降りる。
鎖の軋む音が不快に大きく響いた。
その音が、私自身の身体から聞こえた気がした。


コンビニの白い常夜灯の周囲に沢山の蛾が集って、干からびたカメムシの死骸が無機質な床に落ちていた。都心にもこんなに虫がいるんだなと思って、カメムシの死骸を踏んだ。
頭がアルコールでふわふわと軽い。視界が浅くぼやける。ロペと居酒屋で食事と飲酒をして、その帰り道だった。
私の記憶よりも幾分か狭くなった雑誌コーナーの前にロペは立っていて、週刊の漫画雑誌を読んでいた。ここのコンビニは立ち読み防止のゴム紐を雑誌にかけておらず、ロペは決まって立ち読みをする。
「買えばいいのに」
「だって、呪術しか読まないし。部屋に溢れちゃうじゃん」
ロペは物を捨てられない性格だ。部屋には沢山の雑貨や本が散乱しており、その惨状はちょっと目を当てられないものだ。
「今は電子書籍とか色々あるんだよ」
「私、漫画は紙派なのだー」
戯けたように変な口調だ。ロペは時々、こんな非実在キャラクターみたいな話し方をする。
「ま、いいや。読み終わったら出てきてね」
「はーい」
ロペをその場に残して私はコンビニを出た。駐車場がなく、道路にそのまま面したコンビニの前を会社帰りのサラリーマン達が無感情に歩く。一様に暗く、疲労感が見える。道路を走る車がけたたましく排気音を垂れ流す。人の暮らす音が不愉快なほどに多い。どうにもこの猥雑さが好きになれない。
コンビニで買った安い発泡酒を開けて、ちびちびと飲む。アルコールの雑味が強く残るその飲料は、不思議なほどにこの街に馴染む。地元で飲んだ時にはあまりの飲み味の違いに驚いたものだ。
流されるようにして、しがみつくものも少ないこの街では、結局、酔っぱらったフリをして歩くのが一番良い。
星の一つも見えない濁った夜空を見上げて、ため息をついてみる。柑橘系の混ざったアルコールの匂いが広がる。
「しょうもねーな、なんか」
その時期、私は休職中だった。
特に大きな理由もないが、会社へと向かう足が動かなくなってしまった。何度も家を出ようとするが、上手くいかない。なんとか家を出ても、駅までの道中で身体が勝手に家へと戻ってしまう。
自分の力ではどうしようもならない事象だった。自分のことではないように感じられた。俯瞰した意識が、何度ももがく自身の姿を感情なく観察しているような気分だった。
その仕事に就いて3年目のことだった。まさか、自分がこんなことになるとは思ってもなかったが、会社に連絡すると呆気なく休職の手続きが進んだ。
繁忙期ではないし、落ち着いてゆっくりしなさい。
いつも無表情の上司は驚くほど柔らかな声でそう言った。
言われるがままに休職期間が始まり、うんざりするほど無為な生活が流れた。
不規則な時間に寝て、不規則な時間に起きる。食事は摂ったり摂らなかったりした。
ゲームをする以外はずっと寝て過ごした。友達は平日仕事で、誰とも話すこともなく、上り続ける太陽を呪った。
「たそがれてんじゃーん」
ロペが缶チューハイのプルタブを開けながらコンビニから出てきた。ニヤついている。私のやれやれ系の呟きとその素振りを見て、余程弄りたいと見える。
「うるさいな。呪術はどうだったの」
「ははは、推しが死んだ。きつい」
「は?マジで?嘘でしょ?死んだの?」
私とロペの共通の推しのキャラクターの死を聞かされて、私は狼狽する。
「あれだったら、藍ちゃんも読んできなよ。待ってるよ」
「いや、うん、いや、やめとく。単行本待つ」
「出たよ単行本派。ネタバレ踏んでも知らないよ」
「あんたから、かまされたよ。ついさっき」
「いつどこからかまされるかわからないもの、それがネタバレ」
ロペの機嫌は最高だ。ロペは酒が入ると極端にテンションが上がる。振り切れた感情がジェットコースターのように上下左右に揺れる。
「飲み足りないから〜飲み足りないから〜。飲み足りないから言ってんの〜?」
脈絡のないコールが突如はじまり、缶チューハイを押し付けてくる。半笑いで押しのけるが、諦めきれないように千鳥足で私にしがみついてくる。
「藍ちゃん家行く!藍ちゃん家でまだ飲む!」
もはや幼児だ。駄々をこね、缶チューハイを押し付けてくる狂った幼児になってしまった。それでもまだ、焦点の定まらない目は綺麗だ。
「このままあんた帰したほうが心配だし、それはいいけど」
「いえーい!桃鉄やろ!桃鉄!」
前回、遊んだ時にやった桃鉄がお気に入りなようで、BGMを口ずさみ始めた。酔っ払ったままやるから、1ゲームやり切ったことがない。ロペはコントローラーを握ったまま、撃沈する。
「あ、あのタクシー空いてるじゃん」
泥酔したロペを連れて電車に乗るのはしんどいので、空車表示のタクシーに向かう。
なおも、「俺の酒が飲めねーのか」状態のロペは無視して、タクシーの後部座席に詰め込む。「あー」とか叫んでるけど、これも無視する。
自宅の近所のコンビニを運転手に伝えると運転手は「よく飲んだね」と苦笑いだった。夕方のニュースとかで流れるタクシーの厄介客みたいに見られてる。「すみません」と顔を伏せながら謝る。ロペはなおも桃鉄のBGMを口ずさんでいた。
ロペの調子外れの桃鉄曲にのせて、信号の多い都内の道路を何度も停止しながら、タクシーは進んでいった。


タクシーはコンビニの駐車場に停まる。クレジットカードで支払いをして、緩慢に降車する。
「なんか買う?」
フラフラしているロペに尋ねる。さっきのコンビニで買ったお酒はまだ残っている。
「んー。納豆巻き食べたい」
「買ってくるから待ってて」
「コンビニのはしごなんて、私たち"通"だね」
ロペはなおも訳の分からない事を言っている。深夜ということもあって、弁当コーナーの陳列は穴が目立つ。納豆巻きを確認するが、パックに入ったものしかなかった。
「こっちのが美味しいけどね」と思いながら、パックの納豆巻きをレジへと持って行く。会計を終えて、コンビニを出ると、ロペは早速まとわりついてきた。
「おー。やっぱりこっちの納豆巻きの方が美味しいよねー」
レジ袋の外見からパック型だと判断したのかロペが喜ぶ。
「小さく切ってるからシェアできるしね」
ロペが同じ好みだったことが少し嬉しくて、笑みが溢れるが、バレないようにそれっぽい理由を付け加えてみる。
「えー、これ全部、私のだよ」
「太るよ」
「あはは」
ロペの気の抜けた冗談も、私の臆面ない返答も私たちの関係が深まった事の現れに感じる。私とロペは、友人と言える関係になれたのだと、心から思える。
歪にも思えるが、友人関係なんてものは、歪であることが当然だ。綺麗過ぎるものはどこか偽物くさい。
「公園いこ、公園」
「ロペ、公園好きだよね」
二人で遊んだあと、ロペは公園に寄りたがる。都会の公園には遊具なんてほとんどなくて、寂しそうなブランコか、小さな小さな滑り台があるくらいだが、ロペはそいつらを好ましく思ってるらしかった。
誰もいない深夜の公園でロペは子供のようにはしゃぎ回る。
滑り台を逆から登ろうとして、酔いに負けてそのまま滑り落ちたり、ブランコを勢いよく立ち漕ぎして、靴を思い切り遠くへ飛ばしてそのまま失くしてしまったり。
毎回、大人とは呼べない姿で暴れまくる。
ひとしきりはしゃいだ後、ロペと私はブランコに座って缶チューハイを飲む。ゆらゆらと酔いに任せてブランコを揺らす。
都会の夜空は暗いままで、星なんて見ようとしても見えない。鈍重な闇のカーテンが何層にも引かれているようだ。
「私、なんで生きてんだろーね」
思わず飛び出てしまった言葉だった。
私自身、常に感じている事だったが、言葉にしたことはなかった。
受験も頑張って、行きたい大学に通って、馬鹿らしい就職活動をなんとかクリアして、興味のないくだらない仕事して、大金が訳の分からないルールの中で税金として飛んでいき、それでも必死こいて生きてきたのに、自分の理解の及ばないところで病気になって、完全にドロップアウトだ。
そんな自分を情けないとも思うし、いつからか情けないとすら思わなくなった。このまま無為に生きることが辛くなったし、そんなことですら、どうでもよくなった。
「死んじゃ駄目だよ、藍ちゃん」
ロペはブランコを漕ぎながら、呟いた。
私の方を見ずに、ただ暗闇の中の虚空を見つめながら。
「ええ?あ、ごめん、なんかブルー入っちゃった。冗談冗談」
ロペに心配をかけまいと戯けた口調で繰り返す。ロペは変わらず夜の向こうを見つめて、ブランコを漕いだ。鎖の擦れる音だけが私たちの間に流れ続けた。
「藍ちゃんに死なれちゃうと私、困っちゃうんだよね」
「どんな風に?」
暗闇の中聞こえてくるロペの言葉に思わず食い気味で尋ねてしまう。ロペはどんな風に困るのか。私はロペにとって、どんな存在なのか。私はなんで死んじゃダメなのか。
ブランコの動きが止まった。
「遊べないでしょ。話聞いてもらえないでしょ。お酒奢ってもらえないでしょ。ライブ来てもらえないでしょ。他にも色々あるよ」
ロペはそんな理由を指折り数え始めた。
「すげえ自分本位じゃん」
「えー、仕方ないじゃん。友達に求めることって結局、自分本位になっちゃわない?」
「それはそうだけど、嘘でも世界が不幸になるとか社会の痛手とかなんかそういうことは言えない訳?」
私の言葉にロペは大声で笑った。アルコールの力で声高になった彼女の笑い声は私の中にすっと浸透した。
「あははは。わかんないもん。私、世界とか社会とかどうでもいいんだもん」
「わかんないってロペさあ」
「私にとって大事なのは藍ちゃんだけだもん。世界とかそんなの知らないよ」
ロペは靴を脱いで暗闇の中へと蹴り込んだ。大きく弧を描いて飛んでいくロペの靴は、見えなくなって、それから離れたところで地面に落ちる音がした。
「藍ちゃんのいない世界なんてぶっ壊れちゃえー」
ロペの言葉に所在なさげに浮かんでは消えていた私という意味がかっちりと私の中に嵌まり込んだ気がした。
そんな単純なことでいいんだ。
「藍ちゃんには結婚式でスピーチしてもらわないといけないからね。友人代表として」
なおもロペは続ける。もう酔いに任せて適当なことを言っているようにも思える。馬鹿馬鹿しくなってきた。
「なにそれ。いつになるんだよそんなの」
「約束だよ。だから、藍ちゃんはその約束の為に生きていて。私のために生きていてね」
「酷い約束だなー。あんたそんな唯我独尊系だっけ?」
私の言葉にロペはコロコロと笑う。目元に皺が刻まれる。手元の缶チューハイをあおって、ブランコを勢いよく漕ぎ始める。
「生きろー!無理してでも生きろー!」
酔っぱらったロペは大声で叫ぶ。住宅街にある小さな公園にロペの馬鹿馬鹿しい声が響く。
「近所迷惑だよ」
本気で止めるつもりもない小さな声でロペに伝える。案の定、ロペは叫び続ける。
多分、この時なんだと思う。
ロペが私の世界になった瞬間は。
ロペとの約束が、私がここで生きる意味になったんだと、そう確信できる。
無理してでも生きる。
ロペのために生きる。
だから、ロペの馬鹿馬鹿しい自分勝手な叫びをもう少し聴いていたくなった。

 

寝汗の不快さで目が覚めた。
天井の白熱灯の光が寝起きの目に染みる。昨夜は電気を消し忘れたまま眠ってしまったようだった。横になったまま、テーブルの上のアルコールの空き缶の山を見た。
懐かしい記憶だった。
あの日のロペの姿を久々に夢に見た。
ブランコに乗ったからだろうか、記憶が刺激されたのかもしれない。
あの時。
私に生きろと叫んだロペ。精神的に苦しむ私を雑に励ましたロペ。
時間はかかったが、あのあとなんとか社会復帰できたのは、間違いなくロペのおかげだった。
「『私のために生きて』か…」
ロペとの約束通り、私はロペのために生きてみた。息苦しい、つまらない世界の中をロペのことだけを頼りとして、必死で泳いでみせた。その指標が失われて、溺れているのが今だ。
「あんたが死んでちゃ世話ないよ、ロペ。ずるいよ、ほんと」
寝転んだまま呟いた言葉は枕に染み込んだ。会社に行くのが億劫になって、ベッドから体を起こすのをやめた。漫然と過ぎていく時間を、卓上の目覚まし時計を見つめて数えた。
休みを取ろうと連絡しようとも思うが、いつの間にか時間が経過している。内容が入ってこないままにニュースの画面を眺めた。私の殺人は定期的に繰り返されているが、それすらも私の表面を撫でるだけで、私の感情を動かすことはなかった。
空腹感を覚えるが、必要に差し迫るほどのものでもない。吐き気に似た不快感が同時にあり、それが相殺させていた。
この気分の悪さが殺人の寝覚の悪さからではないということは既に理解していた。
私は今、自分の世界そのものの綻びに苦しんでいる。
自分の信条が揺れ動くことに、気分の悪さを感じている。
ロペのための殺人が、結局のところ、自分のための殺人だとそう思い至ったことへの、世界の規範の揺れに対する不愉快さに苛まれている。
間違えている。
自分が間違えている。
その事実を護るロペというベールが消えた。覆い隠された悍しい感情、行動が、私の思考を止めている現状に苛立っている。
こんなものなのか。
私のロペに対する気持ちは。
こんなことで揺れ動くものだったのか。
私は、間違えている程度で歩みを止めてしまうのか。
煉獄への道を、破滅への一本道を、血塗れの鈍器だけを持って歩む巡礼の道を止めてしまうのか。
気分が悪い。
嫌だ。
そんなことだけは、絶対にしたくない。
間違えているとわかっていても、なお、歩む。
この道は引き返せない。
引き返せないようにできている。
ぬかるんだ道。
腐った汚泥の道。
脚を取られ、バランスを崩す道。
その道を歩く幽鬼として、私は生きている。そのためだけに生きているのに。
ロペのことを、ロペのことだけを考えていたのに。
その唯一の規範が、崩れかけている。
インターホンが鳴った。ご機嫌な音楽が不快だった。無視をしたが、続けて鳴らされた。
面倒だったが、立ち上がり、洗面所に向かった。顔を洗った後にインターホンのディスプレイを覗く。スーツ姿の男が立っていた。
ディスプレイから勢いよく離れた。逃げ場を探そうと周囲を見渡した。
「警察です」
自明のことだった。
証拠を残そうと思った訳ではないが、消そうとも思わなかった。日本の警察は優秀だ。いずれ、私にたどり着くことなど分かっていた。
それでも、まさか本当に私のもとにやってくるとは。
美里のこともあり、私の方でも一応の対策も考えてはいた。どこから逃げるか。どうやって逃げるか。どこに逃げるか。そんな事前準備も頭の中で真っ白になった。
「はは。マジでヤバい時、本当に動けないんだな」
強がる言葉しか出てこなかった。なおもディスプレイからは私の名前を呼ぶ声が流れる。玄関は完全に塞がれているらしい。
思いついて、ベランダに飛び出てみる。
階下には誰もいない。往年の刑事ドラマだと、容疑者が逃げ出さないように窓を張り込むのは常識だが、そんな時代遅れの逃走方法が効果的らしい。
急いで玄関に向かい靴を履いた。扉一枚挟んだ先で、人間の気配がする。扉を叩く音もする。
とりあえず、財布と携帯だけを持ってベランダから身を乗り出す。高々、2階程度の高さだが、飛び降りようと思うと足が竦む。幸い、下は庭になっていて、地面は土だ。アスファルトよりはマシだ。
出来る限り落ちる高さを減らすためにベランダの柵を持ち、宙吊りになる。手を離すと、ほんの一瞬の後に足に鈍い衝撃が走る。
「ッ!!」
足の衝撃と同時に目から熱い水滴が溢れ出す。どういうメカニズムしてんだ人間の身体はボケ。何度もよろけながら前進する。壁に手をつき、身体を起こす。
どこに逃げればいいのか。
当てもないままに、駆け出した。
自宅の方で騒ぎが大きくなった。流石にドアを打ち破って踏み込んではいないだろうが、大家に合鍵を持って来させたのかもしれない。早急に立ち去らなくてはならない。出来る限り大通りに出ないように人目を避けて裏路地を選んで逃げた。


何度目かの裏路地を曲がった際、路地の向こうにスーツ姿の男がいた。男は私を見つめ、こちらに近づいてきた。
「村山藍さんだよね?」
私の名前を知っている。
完全に私を私として認識して追ってきた。
胸元から警察手帳を取り出す。
「今、逃げてるよね?ちょっと同行してもらってもいい?」
警官は申し訳なさそうにしながらも、強気に踏み込んできた。その身体を勢いよく押す。
「くるなよ!」
警官は一瞬、ふらついたが、すぐに体勢を立て直して近づいてきた。
「なんで邪魔すんの?」
「邪魔?逮捕ってことですか?当たり前でしょ。今、あなた、殺人の容疑者なんですよ」
私に突き飛ばされた腹をさすりながら、警官は捕獲しようと体勢を整えた。
「私の前にあいつら逮捕しろよ」
「あいつら?誰ですか?」
「ロペ自殺に追い込んだ奴らだよ。全員!捕まえろよ!」
「被害者のことですか?彼らを捕まえる意味がありますか?」
「あいつらがロペ殺したんだよ!なんでわかんないの!捕まえろよ!捕まえて死刑にしろよ」
なんでわかってくれないんだろう。
ロペはあんな奴らに殺されていい人間じゃない。
せめて警察があいつらを全員捕まえてくれれば。せめてあいつらを全員死刑にしてくれたら。
私は簡単に自殺を選べたのに。
お前らのせいだ。
お前らのせいで、私は、殺人者なんかにならないといけなくなってしまったんだ。
「それが動機ですか?連続殺人の動機」
「お前らがロペ殺したあいつら全員捕まえて、全員死刑にしろよ。やらねえから私がやってんだろ!」
私の叫びに警官は目を背ける。醜いものを見るように、信じられないものを見るように。
なんで。
なんで、わかってくれないんだろう。
「私にはあなたの犯行動機、正直、ちょっと付いていけません」
溜息混じりで警官は呟いた。やりきれないとでも言いたげに、私の犯行をつまらないもののように扱った。
ロペの死をなんでもないことのように、扱った。
沸騰した。
血液が一気に脳に立ち昇る。
「理解できないなら、そんな部外者が私たちの邪魔すんな!!」
私は転がるようにして、その警官にあびせ蹴りを放った。身体を倒し、転倒と変わらなかったその蹴りは、運良く警官の顎に当たった。スニーカーがズレる感覚があった。
何があったか理解できず、ふらつく警官の脚に倒れながらもしがみついた。諸手狩りの要領で、両腕で警官の脚を持ち上げる。
油断はあったと思う。
殺人犯と言えど、所詮は女だという侮りが、この警官を地面に倒れ込ませている。
呻く警官の体に力が込められた。のしかかっていた私を跳ね上げようともがく。思い切り顔を引っ掻く。悲鳴と一緒に私の爪に削げた皮膚の質感が浮かんだ。
何度も掌を顔に落とした。後頭部とアスファルトが何度もぶつかる。荒い呼吸音と手の痛みだけが現実としてあった。
警官は弱っていたが、それでも最期の力で私を跳ね飛ばした。馬乗りに組み伏せられる。どれだけ力を込めても警官を押し除けることはできない。
無線を手にとり、私を取り押さえたことを仲間に伝えようとした瞬間。そこに隙が生まれた。ポケットの中で指先に触れたものを警官の眼球目掛けて突き出す。
ずぷり、と、柔らかいものを突き破る感覚があった。
警官は絶叫し、私から離れて左目を押さえていた。その手の隙間から薄く光る赤い血がこぽこぽと流れ落ちていた。
私は手の中の車の鍵を握りしめる。鍵は暖かい血でぬるぬると滑った。ふらつきながら、倒れ込んだ警官に向けて、思い切り蹴りを入れた。それから、何度も何度も警官の顔を踏んだ。体重をかけて、頭を潰し壊すように、何度も何度も踏んだ。
反応がなくなって、私はその警官が絶命したことに気付いた。
身体の奥が焼けるように熱い。度の強い酒を空腹時に流し込んだときのような、胃の底が暖かくなる現象。そのように、身体が熱い。
「逃げなきゃ」
重い体を無理矢理引き起こした。
全身がだるい。
無茶な動きの連続で身体を痛めてしまったのかもしれない。
どこまで逃げればいいのか。
否、逃げてもいいのだろうか。
私の頭にはそんな疑問が延々と流れ続けた。
捕まることは自明のことであるし、何より逃げる必要性というものが私にはあまりない。
半ば、自暴自棄に近い形での犯行である。
どうなってもいいの精神で、私は今を生きている。
ロペを死に追いやった連中を追うハンターとして、なんとか未練がましくこの世界を生きている。いや、漂っていると言った方がいいかもしれない。
浮かんでいる。
波のごとく押し寄せ、引いていく現実の中を泳ぐこともせず、ただ漂っている。
鴉の声が聞こえる。
電柱に幾羽かの鴉が止まり、波を見ている。
透明で、薄暗い、時折光る粒子の見える波を眺めている。
射干玉の闇羽が濡れて輝く。
私は漂っている。
無機質な街を波と共に、行き場のないままに。
できることなど何もない。
死んでしまったロペのために、生者である私ができることなど本当のところ、何一つないのである。
そんなことはとっくの前から理解していた。
理解していて、なお、私は殺人を犯し続けた。
怒りという感情と、悲しみという感情とが綯交ぜになったものを原動力として、漂う理由をそこに見据えていた。
雑多とした都心の街並みの中にも、神社や寺院はバグのように散見する。
こじんまりとした教会のステンドグラスの鈍い色彩を見た。
ロペは死んで、どうなったのだろうか。
仮に天国というものがあったとして、それはどんなものなのだろうか。
幽体として、煙に近い姿で、薄く光り続けるロペを思った。
きっとこういう姿だろう。
私の知っているロペは、このようにして在る。
それは、今もなおだ。
偶像として、アイコンとして、そして、友人として。
私の中には無数のロペがいる。ロペという事実が在る。
この影が消えてしまうまでは、私は歩みを止めないだろう。
私の中でロペが息を止めるまでは、私は止まらないのだろう。
人目を避けるようにして歩く。
私が捕まらないようにして歩くのは、このロペの残影を認めきれていないからだ。ロペの死を認めきれていないからだ。
もう終わってしまった世界を、私はまだ未練がましく信じ続けているのだ。
鴉はそんな私を含めた波を、悲しげな眼で見下ろし続けている。


私は逃亡している。
放浪している。
警察の目を掻い潜って、何度か在来線を乗り継いだ。自分がどこにいるのかを、私自身が把握していない。
テレビも見ていない。
スマホのニュースも見ていない。
ひょっとしたら、私の顔写真が報道されて、指名手配されているのかもしれない。
借りられなくなると不安なので、早いうちにレンタカー屋に向かった。
運転に慣れたNBOXを借りて、そのまま二県程南下した。
凶器がないと困るので大型のスポーツ用品店で金属バットとグローブと硬球を買った。怪しまれないようにという判断だが、平日に成人女性が野球道具を一式購入することは相当に怪しいことだ。
この辺りにターゲットはいただろうか。
自分で調べたターゲット情報をスマホで確認した。実家や職場、見慣れぬ番号からの着信が山程入っていたが、全て無視した。
ひょっとしたら、GPSとかで私の居場所バレてたりするのだろうか。いや、バレているんだろうな。
電源をオフにするのが、逃亡者として正しい判断なのだろう。Bluetoothに繋いで、カーステレオでロペのグループの曲を流した。
単調な音楽だ。歌詞もよくわからない。
心が動かされることはない。
それでも、私は何度もこの曲を聴いている。
何十回、何百回、何千回と、聴いている。
何千回と聴いているのに、私はロペの声を聴き分けることができない。
他のメンバーの声と混ざって、違う声に聴こえる。
私はロペが大好きなのに、ロペの声を聴き分けることすらできない。
涙が溢れて、視界が歪んだ。
「なんでなんだよ」
ロペがわからない。
友達のことがわからない。
大好きな人のことがわからない。
私がロペの声を聴き分けられていたら、ロペは私に相談してくれたのかな。
「ロペ、なんで?」
こんなにもロペのことを理解しようとしたのに、ロペのために沢山の人を殺したのに、それでも、私にはロペの声を聴き分けられない。
ロペが何処にいるのかわからない。
「なんでなんだよぉ」
泣きじゃくりながら、私は車を走らせる。
もう止まることができない。
戻ることなどできないのだ。
シャカシャカと、誰が歌っているのかわからないアイドル曲が車内に響き続けていた。


夢を見た。
ロペは純白のドレスを着ている。
この世のものとは思えない程の美しく荘厳な花嫁姿。
新郎の顔は見えない。見えないけれど、きっと幸せに微笑んでいるのだろう。
ロペが新郎に微笑みかける。
万雷の拍手が彼女たちを包む。
光が降り注ぎ、花びらが舞う。
私はその光景を一番近い場所で見ている。
ロペが私に微笑む。
私は泣きながら彼女の幸せを祈る。
祈る。
ロペが私の手を取る。
壇上のマイクまで誘導する。
「私の親友、藍ちゃんです」
ロペが私を紹介する。
大勢の視線が私に向けられ、私は少し緊張したようにスピーチを始める。
なんてことはない。
なんてことはないありふれた光景。
ただの幸せな結婚式の風景。
でも、私にとっては残酷な悪夢だった。
固いリクライニングで身体は強張っていた。首筋と背中にぐっしょりと汗をかいていた。運転席の寝心地は最悪だった。地獄だってもう少しマシな寝床を用意してくれるはずだ。
長時間の運転に疲れ、見知らぬ河川敷の側の人通りの少ない道路に路上駐車して眠っていた。泥のように眠っていた。
眠る前にコンビニで買った納豆巻きとスモークタンと酒の入った袋と、野球道具一式を抱えて外に出た。河川敷へと降りられる場所を探し、高架を目指した。高架下に降りて缶チューハイを開けた。もう今日は運転できない。
購入したバットを置いて、グローブを左手に嵌めた。握り締めた軟球を高架の壁に投げつける。数回バウンドした弱々しい白球をグローブに収める。
再び、球を投げる。
私とロペはこんな関係だったんだ。
キャッチボールにすらなってなかった。
私はただロペに自分の感情をぶつけるだけ。ロペも私に感情をぶつけるだけ。お互いに都合のいいようにして、お互いのことを考えていた。お互いを壁にして、下手くそな壁打ちを繰り返していただけだった。
私の投げた球はロペの構えたグローブを超えて、背後の壁にぶつかり、ぽてぽてと返ってくる。
それでいいと思っていた。
ただそれだけのことだった。
数回の壁打ちの後、白球は左手のグローブを通り過ぎて私の背後に転がっていき、そして、川に落ちた。
流れていく白球をゆっくりと眺める。
このまま消えていくだけの白球を眺める。
私はもう、あんなにわかっていた気になっていたロペのことが分からなくなってしまった。
白球を見送る。
このまま消えていく白球と共にロペの死を認めようとしていた。
ロペは死んだ。
私の世界は終わったのだ。
そう、終わってしまったのだ。
私は仰向けに寝転んで、眠ろうとした。
願いが叶うのなら、このまま目が覚めなければいい。
緩やかに死んでいきたい。
全て、全てがどうでもいい。
川の流れに目をやった。
白球が岸から迫り出した流木に引っかかっていた。流れていってしまいそうで、けれど、白球はそこにまだあった。
しがみつくように。
この世界にまだ執着があるように。
私に気付いて欲しそうに。
気がついたら私は川に飛び込んでいた。
白球を目指して泥臭い水をかき分けて歩んだ。
違っていたんだ。
最初から違っていたんだ。私たちは。
そんなことはわかっていた。
でも、そんなこと私は認めない。わかっていたけど、認めたくない。私たちは間違えていたけれど、それでもいい。
倒れ込むようにして白球を掴む。川に沈み込んだ。臭い水を随分と飲んだ。
息を切らして岸に上がる。水を吸った服は重く、寝転がるようにして高架を見上げる。
ねえ、ロペ。聞いてよ。
「私、あんたとキャッチボールしたかった」
高架の上を電車が通過して、私の呟きはかき消される。線路の軋む音が残っていく。
白球が掌から零れ落ちる。
力なくそれを追おうとして土の上を這う。
私は壁打ちしかできない。
ロペが受け取ってくれていると信じて、その背後に思い切り球を投げることしかできない。
本当のロペのことなんてわからない。自分勝手にしか生きられない。私が思い描くロペという偶像のことしかわからない。
自分のエゴを貫くことしかできない。
だから、私はキャッチボールを諦める。
私は私が思い描くロペのことだけを考える。
私は私の命が尽きるまで、ロペを殺したあいつらを殺し続ける。
私の酸素を奪ったあいつらを、最後の一呼吸分の酸素が続く限りにバットでぺちゃんこにして回るんだ。
それでいいよね。ロペ。
私、間違ってないよね。
「間違ってないって言ってよロペ」
壁にむかって思い切り白球を投げ込む。跳ね返った白球は今度は勢いよく川に飛び込んで、取れないくらいの深みまで行ってしまった。
私は崩れ落ちて泣いた。私の泣き声に被さるように誰かのすすり泣きの声がした気がした。

 

目的の住所についた。

音の少ないNBOXを緩やかに路上に停車させた。鼓動が高まる。疲れた身体を無理矢理動かす。命の最後の一滴になっても、私はこの身体を動かす。バックミラーを見ると、後部座席にロペの姿が見えた。彼女は私に微笑んだ。
幻覚に違いないが、そんなことどうでもいい。私は助手席の金属バットのグリップを強くにぎり、夜の空の下に出た。

 

大好きだよ、ロペ。大好き。

 

重い金属バットがアスファルトを擦る音が闇の中に響いていた。