私を撮ってくれる誰か
橋下が中東で死んだという報告を受けた。
紛争地帯に馬鹿みたいにズカズカ突っ込んで、現地の若者にピストルだかライフルだかでズトズドやられて呆気なく死んだらしい。橋下が学生時代、動物園の清掃員のバイトをして貯めて買った一眼レフのカメラは粉々になっていたらしい。
その話を俺は池袋の狭苦しい居酒屋のテーブルで大学の同級生の吉田から聞いた。吉田は似合ってもないパーマにツーブロックを入れて、完全に焼きそばパンになった頭で恥ずかしげもなく煙草を吸っていた。
「結局、あいつは何がしたかったんだろうな」
吉田は俺が頼んだチキン南蛮にめちゃくちゃタルタルソースを付けて食っていた。店内は金曜の夜ということもあって混み合っていて、注文したドリンクがなかなか運ばれて来ず、吉田は結構イライラしているように思えた。
「大学卒業してさ、結構いい会社入ったわけじゃん。まあ、向いてるかとかそんなんは別にしてよ。で、それなりの期間勤めてたじゃん。6年とかだっけ?そんでいきなり辞めて、カメラマンになるって海外飛び回って、で、結局モノにならないで、わけわからん死に方してさ、なんなの、マジ」
元々、吉田はあまり橋下のことが好きではないことは知っていたが、それにしても散々なこき下ろし方だった。
「そんな言い方もないだろう」
一応そんな風に注意はするが、俺だって橋下とそこまで仲が良かったわけではないし、橋下が就職を決めた時、「なんであいつがあんないいとこ決めてんだ馬鹿」って嫉妬したこともある。吉田も、好きだった同じサークルの女の子と橋下が卒業間際に付き合ってから、特に橋下を嫌うようになっていた。
死人のことをとやかく言うことは気持ちのいいことではないと考えていたが、案外にして悪口はすらすらと出てくる。死人に口なしと言うけれど、これは正しいのかもしれない。
「橋下って戦場を撮ってたんだな」
「いや、戦場に限ったって訳じゃないな。下品な写真やら、風景の写真も撮ってたって聞くし。結局、中途半端だったってことだろ」
吉田は顔を赤くしてビールジョッキを傾けた。手首につけたガラス製の数珠が照明に照らされて微かに光った。
「まあ、橋下の話はもういいじゃん。それより最近どうよ」
自分から振った話題のくせに、吉田はそう切り上げて職場の後輩の話を始めた。今度、二人でビアガーデンに行く約束をしたその可愛らしい後輩の話をぼんやりと聞いて、中東で死んだ橋下の顔を頭の隅に追いやった。
はっきりとは思い出せない橋下の顔が水を多く含ませた水彩絵の具のようにぼやけた。
銃で撃たれて死ぬ。
この国で生きている俺たちにとって、想像もつかない死に方をした橋下の最期に見た光景はどんなものだったのだろうか。
ほんの少しの感傷と好奇を残して、橋下の死は消費された。
動物園に行きたい。
休日の朝、突然そんなことを言い出した加代に連れられて、上野にまで足を運んだ。仕事の疲れが取れていないし、動物に興味があるわけでもなく、あまり乗り気ではなかった。それでもわざわざ付いてきたのは、先日の橋下のことがあったからかもしれない。
「なんで動物園?」
早起きして作った弁当を持ち、電車の優先座席に座った加代がこちらを見上げた。
「パンダの赤ちゃん産まれたんだって。見とかないと」
加代は自分の腹を優しく撫でていた。その所作に母親の慈愛が宿って見えた。
少し、怖かった。
三ヶ月ほど前に懐妊し、その瞬間から妻から母へとパチリとスイッチが切り替わった加代は日毎に俺の知っている加代ではなくなっていく。子を身ごもった瞬間から母親を意識する女性と、まだ父親になることを実感できない自分との違いをまざまざと見せつけられている気がする。
「そういうのってご利益あるの?」
「どうだろう。でも、なんか良くない?愛される子になって欲しいし」
加代の言葉にゾッとしたが、気づかれないよう振る舞った。
俺は蜘蛛が嫌いだ。
嫌悪感を抱き、見ただけで潰しにかかるほどに嫌いだ。先日、リビングに出現した時、いつものようにティッシュを持って潰そうとした。
「やめて!」
ヒステリックとも呼べる金切り声を上げて、加代が俺の手からティッシュを奪った。鬼のような顔で俺を睨んでいた。
「殺生は駄目だよ」
「いや、でも」
「駄目なの。神様が怒るでしょ。親の行いで子供に迷惑かけられない」
加代の顔は菩薩のように柔らかくなった。
遠い過去の母の顔を思い出した。
何も言えなくなり、手に持ったティッシュをそのままゴミ箱に捨てた。
最近の加代からはそんな圧力を感じる。本人はそのつもりがないだろうし、父親であることを強要されているわけでもない。しかし、ただ完璧にあろうとする姿に準備不足の自分が責められている気になってしまう。
勿論、俺も子供ができて嬉しいのだが、それでも加代は全てが早すぎるのだ。納得も覚悟も、準備も。
その状態で急に具体的な話をされると恐怖が先に現れてしまう。俺には想像力がまだ追いついていない。俺はいつの間に大人になったのだろう。就職にしろ、結婚にしろ、大人だと確信を得るにはどちらも不足だった。それは勝手にベルトコンベアの上を流されていく荷物に似ている。
それでも、子供ができることだけは別だ。父になるのだ。大人でないわけがない。いまだ実感を伴わず、そうあるべきと言いたげな社会のルールに付いていくことができていない。
俺が父になんてなっていいのだろうか。
「着いたよ、降りないの?」
加代の声に我に帰った。電車は緩やかにスピードを落としている。
「ああ、ごめん。ボーッとしてた」
慌ててリュックサックを抱えてホームに降りた。むわっとした熱気がホームのアスファルトから上がってきた。
改札口を探し、辺りを見回す加代を一歩後ろから眺める。腹回りの緩い白いワンピースを着ている。子供っぽいデザインで、年齢的にキツイと思っていたが、こうして後ろから見ると、小柄な体型によく似合っている。
「日傘とか持ってきた?暑いよ、今日」
「大丈夫。準備万端」
何をどうしたらそんなに物が入るのか、小さなポーチから折りたたみの日傘と凍ったスポーツドリンクを取り出して、ニコニコと微笑んだ。
「ビール買ってく?」
「園内ってお酒大丈夫なの?」
なんとなくダメな気がする。少なくとも、動物園で酒を飲んでいる大人を俺はみたことがない。
「じゃあ、コンビニで飲み干して。それから行こう。私、飲まないけど」
「俺がただ酒を一気飲みするだけなのか」
「楽しそうじゃない」
加代はご機嫌だ。
外出に付き合ったことが余程嬉しいらしい。俺も、加代が笑っているなら問題ない。日頃からヒステリックを起こす性格ではないし、胸に溜め込むタイプでもない。ただ、妊娠してからの変化が先日のように、影響を与えるかもしれない。そうではないという根拠のようなものを感じて、少しだけ安心した。
駅の改札を抜け、しばらく歩くと濃い動物の匂いがした。脇にあったコンビニで言われた通りに缶ビールの350mlを購入して飲んだ。うっすらと額に浮かんだ汗の分の水分を補給できた。
喉の奥から鼻にかけて抜けるように感じるアルコールの風味とホップの苦味が心地よかった。加代は幅の広い帽子を深く被り直して、俺がビールを飲む姿をスマホで撮影していた。
「何がおもしろいの」
クスクス笑う加代に尋ねた。
「別に〜。急いで飲んでて可笑しいから」
「待たせてると思ってるんだよ」
缶ビールを垂直に傾けて、喉奥に流し込んだ。ビールはアルコール度数が低い割にすぐに酔いがまわる。若干揺れる視界を心地よく思い、動物園へと向かう。
受付で紙幣を二枚手渡し、案内に従い、園内に入る。途端、さっきまで漏れ出ていた動物の臭いを強く感じた。
パンフレットを団扇代わりに使い、パタパタと扇ぐ。熱い風がアルコールに火照った身体から汗を噴きださせる。
「パンダから見ていく?」
「ん。でも、今の時間じゃ混んでるから他を見てからにしよう」
そう言って歩き始めた加代に付いて、少し後ろを緩慢に歩いた。水はけの良い土がスニーカーの裏をじゃりじゃりとなぞる。色とりどりの極楽鳥を横目に、猿の鳴き声を耳に聴く。遥か先に黄土色の長いシルエットが見えた。キリンだ。キリンが高くそびえ立つ塔のように首を伸ばし、草を食んでいる。
自分を見上げる人々の視線をなんでもないことのように無視し、野生を忘れ、緩慢に食事を続ける。黒く深い目の中にサバンナは映っていない。ただ、箱庭に過ぎない檻と代わり映えのしない景色だけが彼の一生の風景なのだ。
「大きいね」
まるでキリンを初めて見たような様子で感嘆の声を上げる加代にスマホのカメラを向けた。非常口のマークのポーズを取る加代。理由はわからないが、昔からカメラを向けるとこのポーズを取る。キリンをバックに非常口のマークの小柄な女が映った滑稽な一枚だった。コンパスのようなシルエットのキリンの中央に加代がいる。
「脚が細いな」
俺の言葉に加代は最近太ってきたと言う脚を隠す。キリンの脚について言ったのだが、睨みつけてくる加代に笑いかけた。
「イヤミな奴め」
「そろそろ、パンダを見に行かないか」
話を変えるようにパンダの展示場の方向に向かって進む。展示場に近づくにつれて、どこからともなく人の群れができてきた。嬌声を上げて集まる集団に加わり、列が進むのを待つ。
潰れる勢いで群れる一団を見てミツバチボールを思い出した。天敵であるスズメバチを大勢の仲間で押さえ込み、身体を震わせ熱を発して蒸し殺す、あのミツバチボールのことだ。幸いにして、誰も蒸し殺されてはいないが、パンダを見るためだけにこんな思いをするなんて馬鹿な行為だと思った。
「見える?」
「見えるよ」
「嘘だろ」
つま先を伸ばし、加代がぴょこぴょこと跳ねる。小柄な加代にはこの人混みからパンダの姿を見ることなど出来ないはずだ。
「見える見える。ほら、小さな玉みたいにころころしてる」
見るとガラスの奥にビー玉サイズの白い毛玉がちらりと映る。あれをパンダと呼べるのか。
「かわい〜」
加代はそれでも満足そうに笑っている。他の人間がするように夢中になってスマホでシャッターを切っている。本来の目的であるパンダの赤ちゃんは現在、面会謝絶だそうだ。
加代に習ってスマホを構えてみる。小さな画面の中に溢れんばかりの人と、その向こうの小さな箱庭に転がる毛玉が映り込んだ。
かしゃり。と空間を裂く音が一瞬、静止を産んで、それから、緩やかに喧騒が続く。今、俺は画面の中に時間を留めた。
「撮れた?」
「毛玉なら撮れたよ」
「もっと前に行かなきゃ駄目ね」
加代は人混みの中をスイスイと泳いでいく。見失いそうになりながら、彼女の白いワンピースを必死に追った。
無理をした甲斐があり、なんとかパンダをパンダと認識できる距離にまで来た。加代はさっきからスマホを構えっぱなしだ。
しかし、俺はどうにももう写真を撮ろうとは思えなくなっていた。橋下だったらどんな風に写真を撮っただろうか。少なくとも、今、俺が撮ったパンダがパンダと認識できない写真では満足しないのだろう。
シャッターを切り続ける加代の旋毛を眺め続けた。
動物園からの帰り、自宅の最寄駅の中華料理店でチャーハンを食べた。加代はレバニラ炒めを食べていた。中華料理店を出て、家までの道をゆっくり歩いた。
自宅マンションのエントランスの床に蛾の死体が転がっていた。鱗粉が血液のように流れ落ちていた。
目線をあげると、郵便受けから茶封筒が半分出てきているのに気がついた。郵便物は滅多にないので、珍しいこともあるものだと手に取った。宛名は橋下の名前だった。どきりとした。
動揺を悟られないようにすぐに鞄の中にしまった。しかし、その様子に気がついたのか、加代が背後から覗き見てきた。
「誰から?」
「ああ、大学の友達」
「ふうん。開けてみたら?」
促されるままに封を切った。
中には一枚の便箋と写真が同封されていた。便箋は手書きではなく、印刷されたものだった。
「はじめまして。
橋下の母です。突然のお便りで驚かれたかと思いますが、息子の意思に従って送付させていただきました。
息子は死にました。
アラブで紛争に巻き込まれ、死にました。
本人の選んだ道なので、そこに後悔はないと思いますが、息子は常々、「もし、俺が死んだら友達とか世話になった人に俺の撮った写真を送ってくれ。リストにしてるから」と言っていました。
母として、息子の言葉を遺言と思って、このように郵送させていただきました。
申し訳ありませんでした」
簡素な文面だった。手紙を描き慣れてはいないのだろう。橋下の母の文章は稚拙で評価できるものではなかった。しかし、だからこそ、どうしても書かなければならなかった信念のようなものが伝わってきた。
「大学の時の友達がさ、戦場でカメラマンやってたんだ。で、そいつが最近死んだんだ」
訳がわからない顔で手紙を覗き込む加代に説明した。不吉なことを今の時期に言うなと怒られるかと思ったが、そんな様子はなかった。
「そう」
神妙な顔で俯いた。
「あなた、あまり友達のこと話さないから。珍しいよね」
「俺もびっくりしてるんだよ」
代わり映えのしない日常にバグのような報せが入ってくる。それは非日常と呼んでも差し障りがないだろう。訃報にしろ吉報にしろ、自分達だけで完結した生活に割り込んでくる報せには慣れそうにない。
手紙を封筒にしまい、写真を手に取った。
写真には日本ではない何処か、恐らくはアジア圏の少年の姿が映っていた。少年は強張った表情で下手くそに笑っていた。道着なのだろうか、酷くシミのついた薄い服を着て何か構えを取っている。
写真の右隅には小さな傷のような文字で橋下のサインと「カンフー少年」と書かれていた。タイトルのセンスのなさに溜息が漏れてしまった。
「売れないはずだ」
自由を求めて足掻き続けた橋下の面白みのない真面目さを垣間見てしまった。
写真自体も決して出来のいいものはなかった。被写体はガチガチに緊張してしまっているし、構図も凡庸。何を撮りたいのかもわからない。何よりブレてしまっている。
どうしようもない駄作とは言えないけれど、ただ切り取っただけという印象だった。
それでも橋下は俺とは違う人生を歩んだのだと突きつけられた。自分で選んで、自分で進んで、自分で死んだのだ。それが形となって俺の手のひらの中にある。
自分の人生を振り返った。
特に努力もせず、なんとなく選んだ高校に進学し、なんとなく選んだ大学に進学し、運良く入った会社で忙殺される。仕事帰りに磯丸水産でホッケとハイボールを適当に飲んで、酔って寝る毎日だ。
俺にこんな写真が撮れるんだろうか。
いや、そもそも写真を撮ろうと思い至るだろうか。橋下が何を思ってカメラを手に取ったのか。それを知りたいと思った。
橋下が動物園でバイトをしているとき、目の前で草を食むキリンやゾウ、丁寧に切り分けられた肉を貪るライオンを見て何を感じたのか。戦場を駆ける野生動物と動物園の飼いならされた動物との違いを橋下は知っていたのだろうか。俺の知っている世界よりもさらに広くまでを見渡すことができた橋下に少し嫉妬した。
爆撃の音。硝煙の臭い。家族を殺された者の慟哭。砂を舞い上げる熱い風。
そのどれもが、俺の知らないものばかりだ。
橋下は俺の知らない世界を見ていて、その風景と時間とを手のひらの小さな機械で切り取って留めていた。
その不器用な写真の中に橋下の姿を見た。
ぼやけて記憶から薄まっている橋下のことを思い出そうとした。
初めて会った時。駄目だ。思い出せない。いつからか当たり前の顔してそこにいた。サークルでの思い出。駄目だ。橋下と特に印象深い体験をした覚えはない。授業もバイトも被ることはなかった。時折、構内で見かけて、お互いの仲のいい奴らと群れている時に軽く挨拶をするくらいだった。
霧のような記憶の中、ひとつだけ濃い色をした記憶があった。
同級生の、こいつも殆ど喋ったことがない、確か堀田とかいう名前の男が、デモに参加したんだ。一時期、世間を賑わせた憲法改正反対運動に嬉々として名乗りを上げていた。
そもそも政治に興味を持たなかった俺と友人達は過激化する活動に冷めた目を送っていた。何をそこまで熱心になれるのか。何を成し遂げたいのか。何も分からなかった。堀田が自分たちとは違う生き物だと思えた。SNSで熱弁を振るう堀田のアカウントをブロックした距離を置こうとした。
連日の活動の中、堀田が逮捕された。
警備の警察官を殴ったのだ。
堀田の手には木製のプラカードがあり、警察官は不運にもその巨大な木で頭を殴られ死亡した。世間は一気に加熱した。デモ運動を非難する声。堀田を非難する声。警察官を哀れむ声。連日、ワイドショーは騒ぎ続けた。
騒ぎ続けた結果、堀田は自殺した。首を吊って死んだ。
友人達は誰も葬式に行かなかった。そもそも誰も呼ばれもしなかった。
そんな中、橋下だけが参加したことを誰かから聞いた。呼ばれもしないのに、斎場に現れ、涙を流し、線香をあげたらしい。
橋下は「友達の最期くらい誰だって行くだろう」と理由を聞かれるたびに憤りながら答えていた。人を殺した堀田のことをまだ友達と呼べるのかと不謹慎にも感心したことを覚えている。
その日は久々な快晴だった。
学割の証明をもらいに構内にいた俺はその帰りに喫煙所に寄った。そこで橋下に会った。橋下は煙草を咥えながらカメラをいじっていた。フォーカスを合わせる動きをし、灰皿の側の噴水にレンズを向けていた。その背中に声を投げた。
「お前、堀田の葬式行ったんだって?」
突然の不躾な質問に橋下は顔をしかめて振り向いた。
「えーと、福島だっけ?」
橋下は俺の顔を見て、なんとか名前を呼んだ。お互い友人の友人という不確かな関係だったので、はっきり名前を覚えられているとは思わなかった。意外だった。
「堀田の家族どうだった」
「ん……。まあ、良い顔はしなかったな、やっぱり」
押し潰されたように低く橋下は唸った。
「呼ばれてないし、何より、恥ずかしかったんだろうな」
「まあ、人殺しだしな」
俺はわざと悪い言葉を使った。その時はまだ、世間に漂う正義感ってやつに浮かされていたし、そもそも、堀田のことを嫌っていたからだ。
「そうだな。あれは良くないことだ。誤解されたくないんだけど、俺は堀田のことを肯定するつもりはないよ。過程はどうあれ、結果としてあいつは人殺しだ」
橋下は意外にも侮蔑のこもった声色でそう漏らした。俺はずっと橋下は堀田のシンパなのだと思っていた。だからこそ、葬式にも参加したし、追求されると怒ったりしたのだと思っていた。
「好奇心か?あまり褒められたもんじゃないぞ」
「うん。好奇心って言えば好奇心からだな。良くないことだとは思ってるよ。人の気持ちを考えた行動じゃなかった」
「わかってるならなんで」
「俺、写真家になりたいんだよ」
突然の言葉に俺は面食らった。
その頃橋下は大手の企業に内定を決めていたことを俺は知っていた。誰もが憧れる有名企業に入りながらそんな世迷いごとを抜かす橋下に苛立ちを覚えた。
「だったら就活なんてやらなければよかっただろう」
その言葉は100%の嫉妬を持って発せられた。痛いところを突かれたように橋下は頷いた。
「俺はそのことをどこか恥ずかしいことみたいに思ってたみたいだ。無理だ。できるはずがない。そもそも何がやりたくて目指しているのか。揺るぎない確固たるものを持ってない」
俺と橋下は仲が良かったわけではない。だからこそ、その時そんな深くまで話をしたのだろう。橋下の言葉は嘘偽りなく、剥き出しのゼリーのように繊細に本心だった。
「堀田の葬式でさ、めちゃくちゃ対応悪くてさ、まあ、もちろん当たり前の話なんだけど。それでも、俺が感じたのは実の親ですら人を殺した子供に恥を感じていたってところなんだよ。もう、それを忘れてしまいたい。なかったことにしてしまいたい。終わらせるための儀式みたいな空気が漂っていたよ」
橋下はカメラを撫でた。メタリックな黒いボディが鈍く光った。
「俺は終わらせてやんねえぞ。そう思ったね。死んだ人、殺した人、残された人。それぞれに人生とか大切な人とかたくさんあった筈だ。それを一瞬の娯楽みたいに「終わりました、はい終了」って流してたまるかよ」
射竦められるような鋭い目だった。何かを憎んでいるわけでも、何かに怒ってるわけでもない。信念に突き動かされた目だった。
「俺は消費されていく今をどうにか永遠に留めたいんだ」
ゆっくりと言葉を紡ぐように橋下は言った。自分の言葉を確かめるように、自分の中に刻み込むように。
「誰もが忘れていくんだ。どんなに悲惨な事件も勇敢な行動でも、その瞬間は大きく取り上げても、いずれは消えていく。消費されていく。そうはさせない。誰かにとっての大切な今を、そう簡単に消費させてたまるか。俺がここに留めてやる」
「……ご立派なことだが、結局は野次馬根性だろう。それに……。内定を辞退するわけでもない」
俺の言葉に橋下はうつむくようにして笑った。聞こえのいい言葉を並べ立てる橋下に嗜虐的な気持ちになった。
「そうだな。それっぽい言葉を使ってるけど、結局俺はまだそれを選択できてない」
「どうするつもりだよ」
「今は無理だな。まだそこまでの覚悟がない。ひょっとしたらこの気持ちも磨耗して消えちゃうかもしれない。でも、もし、いつか俺が会社を辞めてカメラマンになったって噂を聞いたら、福島は俺が決断をしたって思ってくれ」
憑き物が落ちたように淡々と自らの理想を語る橋下に、俺は内心焦っていた。
なんでこいつはここまで自分の意思を持っているんだ。怖くないのだろうか。自分が矮小で凡庸であることをわざわざ突きつけられにいく行為を嬉々として選択しようとしている。
「自分の人生を生きている奴を撮りたい。不条理が壊したそんな奴らの人生を刻み込んでやりたい」
橋下はどこか遠くを見つめていた。
短く切り揃えた髪の毛に何処からか飛んで来ていた蒲公英の綿毛が付いていた。
「それが俺の生き方になるといいな」
橋下は自嘲気味に言った。しかし、その表情は晴れ晴れとしていた。
「お前も撮ってみたい」
カメラを俺に向ける。銃口を突きつけられたような寒気がした。俺の人生がその場で終わってしまう、否定される気分になった。
「やめてくれ。今の俺は駄目だよ。全然駄目だ。なんにもできない」
逃げるようにしてレンズの動線から外れた。ちっぽけな自分が見透かされたようで、それが怖かった。
「じゃあ、約束だ。俺がいつかカメラマンになって、お前が自分の人生を生きているって胸張って言えるようになった時、俺はお前を撮るよ」
悪戯っぽく笑う橋下はもう既にカメラを降ろしていた。その姿に安堵と同時に期待に似た感情が産まれた。
橋下を通して、いつか未来の俺が生き生きと自分らしく過ごしている光景を見た。そうあってほしいと思えた。
「何年後の話だよ」
「さあ、数年後、数十年後、もしかしたら来ないかもしれない」
そう言って橋下は立ち上がった。煙草を吸う俺を残してその場を後にした。
「じゃあ、またな。福島。お前と話せて良かったよ」
社交辞令に過ぎない言葉だったが、橋下のその言葉がやけに嬉しかった。
固い地盤から掘り起こされる化石のようにして、橋下との会話が思い起こされていく。
なんだ、俺は橋下が写真を撮る理由を聞いていたじゃないか。ただ、忘れていただけだ。いや、もしかしたら、この記憶は今の俺が都合のいいように勝手に捏造して作り上げただけなのかもしれない。しかし、今の俺がそのように思っているということに意味がある。
橋下は消費されていく何かを留めたいとカメラを取った。ただ時間の中で磨耗し、砂となって消えるものをピンで固定するように、形にして残していきたいと。
「お前も撮ってみたい」
冗談ぽく笑う橋下の顔を思い出した。その顔はこれまでの靄のかかった淡いものではなく、ビビッドな写真のように鮮明だった。
俺はきっとまだ、橋下に撮ってもらえるようなモデルではないのだろう。あの頃と何も変わっていない。決断を自分でできず、流されていくだけの人生。そして、橋下が死んだ今、俺を撮ってくれる人間は完全にこの世界からいなくなったのだ。
涙が出た。
自分でも理由はわからないのだが、涙が出た。何度も言うが、俺は橋下と親しかった訳ではない。そもそも、彼の死を初めて聞いた時、俺はそれを囃し立てた筈だ。彼の死を娯楽として消費したのだ。それなのに、何故。
「なんでなんだろ」
俺は止めることができない涙を抑えて、嗚咽した。封筒は手のひらの汗でぐちゃぐちゃになってしまった。この世界に俺の頑張りを認めてくれる人間が誰も居なくなったと思った。
かしゃり。
スマホの撮影音が聞こえた。
加代が俺にスマホのカメラを向けていた。
「ごめん、泣いてるなんて珍しかったから」
呆気にとられながら、スマホを覗き込む加代の姿をじっと見た。
この世界で俺を撮ってくれる人間が橋下以外にいた。俺はまだ何にも決断ができていないけれど、きっとこれから先、どこかのタイミングで変わることができるのだろう。小さな変化だろうが大きな変化だろうが、それは確かに変化だ。
その瞬間を撮ってくれる誰かがいる。それだけで心強いのは錯覚だろうか。
加代の手を握る。そのまま、彼女の腹を撫でる。
「動かないな」
「まだ三ヶ月なんだから、蹴ったりしないわよ」
加代は呆れたように微笑んだ。
蹴り返してこなくとも、今、ここに俺の子供がいるのだろう。これまで少しも認めることができなかった事実がやけにすんなりと胸に入ってきた。
「子供服って、どこに売ってるんだ?」
俺の突然の言葉に加代は面食らったようだったが、しかし、すぐに破顔した。嬉しそうに俺の手を取った。
「気が早いよ。まだ男の子か女の子かもわからないのに」
吉田にメールをした。
橋下から便りが届いていなかったか、中にはどんな写真が入っていたのかを聞いた。
案の定、吉田にも封筒は届いていたらしい。
ただ、気味が悪いと封を開けずに捨てたらしかった。吉田のもとに届いた写真には何が映っていたのか。
それが無性に気になった。