わくわくアラスカ紀行

アラスカ、ばり寒い

遊具修理者

 


今年の夏はかつてない程の猛暑で、ジャングルジムを作るのが困難だった。

材料の鉄とニッケル、それからプラスチックの混合物が暑さで化学反応を起こし、塑性、粘性がバラバラになり、上手く形を保てなくなった。土地開発が進み、やっと重い腰を上げた自治体が、この夏多くの幼稚園を建設し始めたことで、遊具の制作依頼が山のように舞い込んだ。新しく作ることも勿論だが、修理の依頼も矢継ぎ早に事務所へやってきた。元々あった遊具がこの夏の暑さでへばり、ぐねぐねに歪んでしまったからだ。大手の遊具メーカーの仕事は迅速で安価だが、このような不測の事態に上手く対処することが難しい。そのため、私の事務所のような小さな会社に依頼が舞い込んでくる。従業員にして僅か6人の小さな会社だ。

冷房の効いた簡素な事務所にはキーボードを叩く音が反響している。単調なリズムは白い壁に吸い込まれることもせずに、狭い12畳間にこもり続ける。デザインを担当している坂木がメガネを外し、眉間をマッサージし始めた。

「そろそろひと休みいれたらどうだ」

CGで遊具の模型を作成する作業は、いまのところ坂木にしかできない。入社して5年目になるが、彼がいなければこの会社はとうの昔に経営破綻を起こしていただろう。彼以外の職員は私も含め、遊具職人としてやってきたものだから、パソコンなんてものはいじる事ができない。しかし、CGで作成した模型があるだけで作業効率は格段に上がる。この夏の忙しさを一身に引き受けているのは間違いなく坂木だ。

「や。そんな訳にはいきませんからね。ほら、まだまだ発注が山のようです」

坂木は疲れた顔に無理に笑みを浮かべた。他の職員達はみんな、外出していて、事務所内には私と坂木しかいない。

「すまんな。来年にはもう一人デザインで募集をかけるつもりだから」

「や。正直、このクソ暑い中、外で作業する皆さんに比べたら、俺なんてまだまだっスよ。社長も午後から製作ですよね。これからまだ気温上がるらしいんで、熱中症気をつけてくださいね」

坂木は気のいい人間だ。職人気質な我々を馬鹿にせず、ちゃんと敬って自分の仕事を黙々とやってくれる。だから、彼はうちの職員から可愛がられている。

「あ、これ、今日の分です」

A4の紙に印刷された今日の午後に作る分のジャングルジムの模型を手渡された。螺旋がいくつもあり、夢の中の情景のようで目が回りそうだった。

「やけにアーティスティックだな」

「そこの園長、こだわり強そうだったので」

どこかで聴いたことのある宗教法人が運営する幼稚園からの依頼だった。掲げる思想が強く、大手の遊具メーカーから敬遠され、断られてきたのだろう。

私は電子ケトルのスイッチを入れた。今日使う分の材料は既に社用車へと詰め込んでいる。後は、指定の時間までゆるりと待ち、社員の篠原と現地で合流するだけだ。彼は今、横浜にある児童公園のジャングルジムを補修している。

電子ケトルが音を立てながら湯気を吐いた。インスタントのコーヒーをマグカップへと掬い入れていく。

「お前もどうだ?」

「いただきます」

あまり味の良くないインスタントコーヒーに湯を注ぐ。事務所の入った古い雑居ビルの一階に、今時それでやっていけるのかと心配になる生活雑貨屋がある。絵画のような老夫婦が経営しており、このインスタントコーヒーはそこで購入している。味は不評だが、不思議にこのインスタントコーヒーを飲むと目が冴える。何か非合法の成分でも含有されているのではと疑いたくもなる。

坂木のデスクにマグカップを置いてやると、彼は嬉しそうに口をつけ、眉間に皺を寄せ、それから、ひょっとこのように口をすぼめた。

「相変わらず不味いっすね」

私は頬を緩め、煙草に火をつけた。狭い部屋な上に、換気扇の調子が良くないので、煙はすぐに部屋中に充満した。煙の充たされた水槽で泳いでいるような気分になる。

坂木は不味そうにコーヒーを啜り、作業に戻った。彼のデスクトップパソコンの上に置かれた小さなサボテンがキーボードのタイプに合わせて揺れた。

「そろそろ時間だ。出るよ」

「お気をつけて」

「他の連中が帰ってきたら、冷凍庫に買っておいたアイスがあると伝えといてくれ。安っぽいが美味いんだ」

流し場に置かれた灰皿には吸い殻がこんもりと積もっている。その中央へ煙草を押し付け、火を消した。フィルターの焼ける嫌な臭いがしたので、残っていたコーヒーをマグカップから注ぎいれた。煙と共に嫌な臭いは消えた。

靴を履いて嘘のように軽い事務所の扉を開いた。見送りに立った坂木に手を振り、埃の積もった暗い階段を降りていく。どんどんと大きくなる蝉の声の中を遊覧し、強い光へと飛び出した。刺すような日差しが私の身体を襲った。逃げるように社用車へと急いだ。雑居ビルの向かいにある猫の額ほどの貸し駐車場に止まった白のセダンの鍵を開けた。案の定、車の中はサウナのように蒸した。熱帯雨林が燃えると、周囲はこんな感じだろうと物騒なことを考えた。

エンジンをかけて、車内空調をつけると、駐車場でもう一度煙草に火をつけた。ぎらぎらと肌を焼き続ける日差しと、鬱陶しいほどに垂れてくる汗に苛つき、結局、殆ど吸うことなく煙草を地面に捨てた。

 

 

 

 

 

 

閑散とした住宅街の中を進んで行くと、見るからに異物のような派手な外観の建物に巡り合った。紫色に金色。赤にピンクに、青色の壁。醜悪と呼べるセンスだ。まさかここではないだろうなとうんざりしつつも、一際大きな門の前に篠原の姿を確認した。

セダンから降りると篠原がなんとも言えない顔で建物を眺め、ぎこちなく笑みを浮かべた。私からは見えないが、私の表情もきっと彼と同じようなものだろう。

「すごいですね」

「ああ」

篠原はなんとかその言葉を絞り出したようで、ほかに形容の言葉が思い浮かばないといった様子だった。

「少なくとも、ここが幼稚園だとは誰も思わんだろうな。よくて、現代美術館だ」

私の軽口に笑みを浮かべ、腕時計を確認する。

「少し早いですが、園長に会いましょう」

この場所に出入りしているところを誰かに見られたくない。篠原の提案に賛同した。

門に付けられたインターホンを押した。インターホンにはカメレオンのオブジェが付けられていた。こんなことでは驚かなくなった自分がいた。

「はい」

「山友遊具です」

「はい、承っております。どうぞ、中に」

門をくぐると子供達の笑い声が聞こえてきた。その声に安心した。外観がどうであれ、中身がしっかりと機能しているのであれば問題ない。私たちも職務を全うできる。

「広いですね」

園庭を見渡し、篠原が言った。今は園庭の開放時間ではないのだろう、子供達の姿は見えないが、たしかに園庭はかなりの広さだった。すべり台。ブランコ。うんてい。シーソー。砂場。そして充分な運動場。都内でここまで設備のある園庭も珍しい。

私たちは来客用玄関で、しばらく待った。玄関には仏像やらガネーシャ像やらキリスト像やらが雑多に並べられていた。奥の方から袈裟姿の坊主がやってきた。風貌から信じ難いが、どうやら彼が園長のようだ。

「ああ、どうも。お待たせしました」

「時間も時間ですし、早速作業に取り掛かりたいのですが」

「ええ。そうですね。では、園庭の方に」

園長について園庭へと向かった。

「今は開放時間ではないのですね」

蝉の声にかき消されないように少し声のボリュームを上げて園長に聞いた。彼は首を振った。

「この酷暑でしょう。子供達としては外で遊びたいでしょうが、親御さんから預かる身としてはこの暑さで外に出そうとは思いませんね。今年の夏は駄目でしょう。ですので、秋に間に合うよう新しく遊具を作りたいと考えたのです」

私と篠原は納得したように頷いた。篠原の顔からは「ちゃんとしているじゃないか」という安堵が伺える。

私は園長に模型のイラストを見せた。園長は満足げに「ほう」と漏らした。

「いいですね、いいですね。非現実な形ですが、これはちゃんと成り立つのですか?」

「可能です」

「それでしたらこれでお願いします」

園長はカラーコーンで囲まれた一定の区間を示した。ここに作れということだろう。私と篠原はうなずき合い、持ってきていたバケツからよく練ったパテを取り出し、勢いよく伸ばし、螺旋を描いて広げていった。長い棒の先端にくっ付いたパテは粘性を保ちながら、水飴のように長く伸びた。

「社長。土台からやりますか?」

篠原が私の伸ばすパテを眺めて尋ねてきたが、私は首を振った。

「いや、先に上から作っていこう。この暑さだ。地面の方が温度が高い」

「そうですね。では、取り掛かります」

篠原は特別製のバーナーと冷却器を取り出し、私が伸ばし、渦巻いたパテを綺麗に固め始めた。火花が散り、温度の差から陽炎が産まれた。

「はぁ。すごいもんですね」

園長が感心したように息を漏らした。私と篠原は集中してどんどんとジャングルジムの形を作っていった。夕暮れ時とは言え、まだまだ暑く、私たちはひどく汗まみれの姿だった。

作業時間はおよそ一時間に上った。いつのまにか陽は傾き、ビル街の向こうに姿を隠そうとしていた。

沈みゆく太陽に当てられ、完成したジャングルジムが歪な長い影を地面に落とした。額に浮かんだ汗を作業着の裾で拭った。園長の顔には驚くことに汗ひとつ浮かんでいない。 

「こんなものでどうでしょうか」

私は園長の顔を見た。

「ええ、ええ。文句の付け所もありません。素晴らしい出来です。あなた方に依頼して良かった」

「まだまだ接合部が緩いので、あと一週間ほどは使用できませんが、これで完成となります。気温の方も問題ない素材配合を心がけましたので、まあ、大丈夫でしょう」

私と篠原は作業に使った器具を片付け始めた。疲れがどっと押し寄せてきた。

「お疲れでしょう。どうぞ、園内へ。冷たいものでも用意します」

外観の派手さとうって変わって、内観は当たり障りのない色彩だった。ところどころ宗教を感じさせる小物が置かれていたが、それ以外は普通のどこにでもある幼稚園だった。

私たちは案内されるままに園長室へと通された。机と椅子、教育関連の本の詰まった本棚、それと小さな冷蔵庫があるだけの簡素な部屋だった。

「お茶とフルーツ牛乳どちらにしますか」

園長は冷蔵庫の扉を開けてペットボトルの烏龍茶と紙パックを掲げた。

「お茶を」

「あ、じゃあ、フルーツ牛乳を」

そう答える篠原を肘でつつく。いい大人がクライアントの前で飲むものではない。甘党の篠原は恥ずかしそうに頬をかいた。

「私は好きでしてね、この飲み物が。いやあ、良かった。どうぞ遠慮なく」

冷蔵庫の上に並べられたコップを二つ差し出され、お茶とフルーツ牛乳をそれぞれ注がれた。

「遊具を作るって仕事はとても素晴らしいものですね」

園長は私たちを労うような口調で言った。機嫌をとるために仕方なく言っている風ではなく、本心からの言葉に思えた。

「私もこういう立場ですから、よく思うのです。子供ってのは本当に宝だと」

「ええ、そう思います」

「これから先、私たちが見ることのできない距離まで未来を生きることができる。それだけで素晴らしい。私はね、今を生きる子供たちにバトンを渡したいんです。後の世界は君たちに任せるよ。そう言って死んでいきたい。その為に必要なことは沢山あります。それこそ山のように」

フルーツ牛乳を袈裟姿のまま飲む園長は傍目に異様に写った。それでも、彼の悟った顔、何かに安堵する顔は私に荘厳な印象を与えた。

「遊具は子供の想像力を豊かにします。子供たちの身体を作ります。友情を育みます。次世代の彼らの財産となるものを鍛え上げてくれるもの。そんな遊具を作るあなた方の職業は、とても素晴らしいものです。私なんかよりもよっぽど尊いものです」

園長は自分の言葉を反芻するように私たちに言い聞かせた。篠原は嬉しそうに園長の言葉に耳を傾けている。私は園長の言葉を耳にしながら、少し違うことを考えた。

遊具とは何か。

子供の想像力を育み、それでいて怪我をしないように配慮されている。園長の言葉通りではあるが、同時に遊具には子供達が失敗をしないようバレないよう陰から支える姿という点もあると思っている。

その姿はどこか親に似ている。

私は丈瑠の顔を思い浮かべた。

「またいつでもいらしてください。今度は子供たちが遊具で遊んでいる姿を是非ご覧になってくださいね」

別れ際、園長はそう言って手を振った。私たちは深く頭を下げながら、幼稚園を後にした。

「自信がつきました。自分のこれまでは無駄なものではなかったっていう」

篠原の声は嬉しそうに弾んでいた。あそこまで肯定してもらえれば、たしかに気分がいいことだろう。

「流石に教職者の言葉は重かったな」

「ですね」

すっかりと日が暮れ、一定の間隔で草臥れたサラリーマンが帰路につく住宅街を社用車がゆっくりと進んだ。名残惜しむように耳の奥に子供たちの笑い声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 


盆を過ぎ、連日の猛暑が多少和らいだ頃、千枝に呼び出され、約束の喫茶店に入った。昼時だったのでランチの客がまばらに入っていた。主婦や女子学生ばかりで、作業着姿の私は少し浮いていた。

千枝の姿はすぐにわかった。店の奥の方の席で不機嫌そうに腕を組んでいる。先月会った頃には肩まであった髪がかなり短くなっている。化粧も濃い気がする。

「若作りか?」

私の軽口に千枝はきっと鋭い目を向けた。射竦められるようにすごすごと席に着いた。彼女は猛禽に似ている。

「冗談だよ」

「何か適当に注文して。お代は私が持つから」

私を無視して一息で言葉を並べて行く。私から少しでも早く離れたいといった様子だ。

ここまで関係が冷え切ったのはいつからだろうか。結婚し、子供が生まれ、家庭を守るためにそれまで以上に熱心に仕事に取り組んだ。長年勤めた会社を退職し、独立までした。勿論、子育てにも意欲的だった筈だ。息子である丈瑠には目一杯の愛情を注いだつもりだ。

父として、経営者としてのこれまでの歳月を否定するつもりはない。しかし、どうやら私は夫としては失格だったようだ。

すれ違い、自転車のタイヤのように磨耗していく千枝との関係をついぞ修復することもできず、私たちは離婚した。子供を育む遊具を作る私が、家庭を上手く築くことができていないのはなんとも皮肉なものだと笑える。

離婚してからは、月に一度、丈瑠と会う機会を貰っている。そのスパンも私としては長すぎるもので、それだけの時間しか与えてくれない千枝に不満は募っていく。その不満はいつの頃からか、憎しみと呼べるものにまで育ってしまった。私から丈瑠を奪う千枝が憎くて憎くて仕方がない。

「食事を摂ってもいいか。まだ昼を食べていない」

「好きにしたら。要件を伝えたら私は帰るけれど」

取りつく島もないな。千枝の不愉快そうな表情を見て、彼女はどんな風に笑うんだったか思い出せないでいた。

私は店員を呼び寄せ、卵サンドとアイスコーヒーを注文した。先にアイスコーヒーがやってきた。千枝の手元にはホットコーヒーの器が置かれていたが、湯気はもうすっかりと消えてしまっていた。

私を無視し続け、押し黙ったままの千枝から目を逸らし、卵サンドを口に運ぶ。もにょもにょとした潰したゆで卵とマヨネーズ、そして粗い黒胡椒が口の中で混ざり合う。悪くはないがどこか気取った味だ。味付けはもっと雑でいい。上品な味をアイスコーヒーで流し込み、千枝に話を振る。

「で?なんの用だ?丈瑠との外出は来週の筈だろう」

「もう丈瑠と会うのやめて」

時間が止まった。

私は間抜け面でサンドイッチを口に運ぶその動きのまま、固まっていた。アイスコーヒーのグラスについた結露がゆっくりと落ち、再び、時間は流れ始めた。

「冗談だろ」

食べかけたサンドイッチをプレートに戻し、椅子に座りなおす。千枝は私の顔を見ずに溜息をついた。

「会わないでって言ってんの」

あまりにも子供っぽい物言いに頭が痛くなった。離婚の際、親権に関してごねなかったのは、千枝が月に一度必ず丈瑠と会うことを約束してくれたからの筈だ。今更、その協定を破るのは狡い。

「私さ、再婚するの。職場の上司と。で、彼も丈瑠のこと自分の息子として扱ってくれるみたいでね。だから、あなた、すごく邪魔なの。今の私たちにとって」

千枝が再婚すると聞いても少しも心が動かなかった。しかし、丈瑠に新たに父親ができるとなると倒れこみそうなほどの目眩がした。

千枝は残ったコーヒーを一気に飲み干すと、鞄から財布を取り出そうとした。このまま、言い逃げのようにして、私と連絡を断つつもりのようだ。別にそれはいい。この女が今さらどこの誰と結ばれようが、私にはなんの興味もない。それでも、丈瑠と会えなくなる、丈瑠と縁が切れてしまうとなると話は別だ。

「そんなこと許されるとでも思ってるのか」

俺の丈瑠取ってんじゃねえよ。

俺から丈瑠取るんじゃねえ。

お前は丈瑠の母親かもしれないけど、俺は丈瑠の父親だぞ。

俺から丈瑠取ってんじゃねえ。

丈瑠との関係を根こそぎ奪っていく千枝に対する怒りが膨れ上がった。私は父親としてなんら間違ったことはしていない。家事も仕事も育児も問題なくやった筈だ。夫として最悪だとしても、父親としてはなんにも間違えちゃいない。

それなのに、俺から丈瑠を取るんじゃねえ。

腹の底からどす黒い感情が湧き上がってきた。身勝手な言い分を付けつける千枝に私の身体はわなわなと震え始めた。

「もう決めたことだから」

そう言い終わると千枝は立ち上がり、紙幣を机に置いて去ろうとした。その腕を咄嗟に掴んだが、大きく振り払われた。

「触らないで」

汚らしいものでも触ったように私の触れた腕を払う。大きく舌打ちをして私を睨みつけた。

「一方的すぎるだろう。俺の気持ちも考えてくれ」

「考えたくもないわ」

必死に絞り出した言葉を千枝は嘲笑うようにして一蹴した。私が千枝に憎しみを感じるように、千枝もまた私に憎しみを抱くようになっていたらしい。知らぬ間に関係は取り返しのつかないまでに悪化していた。

「ふざけるなよ。そちらの都合ばかり押し付けられて、納得なんてできるはずがないだろう」

私の大声に店内の客が好奇の目をこちらに向けた。千枝は不快そうに周りを睨みつけ、舌打ちをした。私はこの女のどこに惚れたと言うのだろうか。

「いい加減にしてよ。私たち幸せになろうとしてるんじゃない。丈瑠だって、それを望んでる筈でしょ。丈瑠のこと考えてよ」

私は声を上げようとして、そして、結局そうすることはなかった。

《丈瑠のことを考えて》

この女が最後に発する言葉はいつもそれだ。子供のことを考えろ。親の都合で振り回される子供が不憫だ。そういう含意があるのだろうが、この場合、その親に自分は当てはまっていない。私と千枝の問題のはずなのに、いつのまにかこの女は責任を私にだけ当てはめるようになった。あたかも自分は丈瑠の側だとでも言いたげにだ。

私は常々、丈瑠のことを考えて生きている。この不快な女と違って、丈瑠は私の血の通った息子だ。我が子だ。何故、お前だけが丈瑠の側にいるんだ。

「わかった。そうすればいいさ」

話しても無駄だということは10年ほどの付き合いから分かっている。この女はこうと決めたら絶対に譲らない。自分が正義だと、間違えることはないと傲慢にも思っている。

この女がその提案をしてきた段階で、いくつかの法律が味方をしないと、私に勝ち目はない。それには準備が必要だ。日本が法治国家ではないのならば、いっそのこと殴り殺してしまいたい。

「そう。納得してもらえて何よりだわ。じゃあ、ここは私が持ちますから」

「ただ、来週の外出だけはちゃんとやってもらう。丈瑠とこれで会えなくなると言うなら、最後にきちんと会っておきたい」

私の最大限の譲歩ですら、千枝は煩わしそうに顔をしかめた。どこまでつけあがるつもりなんだろう、この女は。私は無言で千枝を睨みつけた。千枝は大きく舌打ちをした。

「わかったわ。じゃあ、来週以降、二度と私たちに関わらないでちょうだい。それでいいでしょう」

それだけ言ってのけると、千枝は一度も振り返ることなく早足で店を後にした。喉の奥に酸っぱいものがせり上がってくるのを感じて、煙草を吸おうとしたが、店内は禁煙だった。それを見越して千枝はここを指定したのだろう。あの女はどこまでも私に嫌がらせをしたいらしい。

頭痛がした。

酷く惨めな気分だった。

いっそのこと今ここで殺された方がマシだとも思えた。自分の身体の一部を無理矢理に引きちぎられる激痛を思った。それほどまでに私は丈瑠を愛しているのだと、全世界に叫び散らしたかった。

店員が気まずそうにこちらをチラチラと見てくるが、どうでもいい。しばらく立ち上がれそうもない。千枝のいた位置のテーブルに彼女がこぼしたであろうコーヒーの染みが残っていた。その染みにすら、憎悪が湧いてきたので、おしぼりを染みに投げて覆い隠した。

 

 

 

 

 

 

「パパ」

駅の改札を元気よく抜けて、丈瑠が駆け寄ってきた。ハーフパンツから伸びる細い脚の先には先月買ってやったスニーカーが履かれていた。千枝に捨てられているとばかり思っていたが、丈瑠が私のあげた物を身につけているのを見て、言いようのない喜びが身体を満たした。

「おいおい。一人で電車に乗ったのか?」

「そうだよ。ママは付いてくるってうるさかったけど、僕もう9歳だからね。一人で電車くらい乗れるよ」

丈瑠は自慢げに私の顔を見上げる。約束の時間を少しオーバーしていたのは、丈瑠が迷いながら乗り換えをしたからだろう。そのいじらしさが無性に愛しかった。

私はくしゃくしゃと丈瑠の頭を撫でた。汗で濡れた髪は不思議にサラサラとしていた。くすぐったそうに身体をよじる丈瑠を抱え上げ、駐車場へと向かった。

車の助手席に乗り込んだ丈瑠は慣れた様子でシートベルトを締める。リュックサックを抱え、大人ぶった顔つきでサイドミラーを見ている。エンジンをかけ、動物園へと車を進めた。

「学校の宿題はどうだ?」

「そんなのもうとっくに終わらせてるよ」

「そうか。パパは最後までやらない派だったな」

「駄目だよ。《けーかくせー》がないなあ」

「難しい言葉知ってるな」

「こんなの《じょーしき》だよ」

使い慣れず、平仮名で表記されそうな舌ったらずな口調で丈瑠は話し続けた。私に最近の出来事を話したくてたまらないといった様子で、それが無性に嬉しかった。丈瑠の話をよく聞くためにカーステレオのボリュームを最小にした。

「今日は動物園に行くけど、それでもいいか?」

「楽しみだよ。ゾウ見たい、ゾウ」

無邪気にはしゃぐ丈瑠は今日以降会うことがないと千枝から聞かされているのだろうか。いや、聞かされていて、このはしゃぎようはおかしい。わざわざ、最後だと聞いて、浮かない顔の丈瑠なんか見たくなかったし、それはそれで良かった。

しばらくすると車は動物園に着いた。夏休み期間であるし、賑わいを見越していたが、どうにも駐車場には隙間が多い。この猛暑だ。わざわざ、屋外に家族で来る人間の方が奇特なのかもしれない。見ると、木陰にブルーシートを敷いてぐったりとした子供が父親に恨みがましい目を向けている。父親の方は、死んだような顔でチビチビとスポーツドリンクを飲んでいる。

動物園に入って、しばらくの間動物を眺めた。しかし、動物達も暑さでバテているのか、ほとんど木陰から出てくることがなかった。

キリンだけが大きすぎる自分の姿を隠すことができずにじりじりと焼かれていた。若いカップルだろうか、キリンの前で写真を撮っている。あんな時代が私と千枝にもあったのだろうか。

動物園を出て、車へと向かう。並んで歩く丈瑠の歩幅が少し遅れていることに気づいた。どことなく元気がないようにも思える。疲れたのだろうか。それとも退屈だっただろうか。かつて千枝とのデートの時もこんな風に彼女の顔つきから想像し、あたふたとしたものだ。

「楽しくなかったか?動物園」

「楽しかったけど、暑かった」

暑かった。当然の事だ。やはり無理をさせていたようだ。そんなことにも気が回らなかった自分が恥ずかしかった。

「そうだな。それもそうだ。どこかで冷たいものでも食べるか」

「アイス。アイスが食べたい」

丈瑠は目を輝かせていた。

「アイスか。どこで食べられるんだろうな」

私は携帯を駆使して、近所でアイスクリームが食べられる店を探した。売店やコンビニを除くと、アイスクリームが食べられる店は多くはない。チェーン店のカフェにパフェがあることに思い至り、車を走らせた。

 

 

 

 

 

 

茶店を出て、丈瑠に次の行き先を訪ねた。どこか高いレストランにでも行こうと思っていた。

「パパのジャングルジムで遊びたい」

丈瑠の言葉にハンドルを握る手が強張った。思いもよらない回答だった。

「ええ?なんだ、本当にそんなのでいいのか?遊園地でも美味い飯屋でも、映画館だって連れてってやるぞ」

「ううん。パパの作った遊具で遊びたい」

丈瑠は真っ直ぐと私の目を見た。少し潤んで見えた。日光で焼けたのか目は赤く充血し、今にも泣き出しそうだった。

その視線に気圧された。その目を見つめ続けていると、言葉が詰まり、身動きが取れなくなっていた。

「わかった。じゃあ、ちょっとお願いしてみる」

本来ならあり得ないことだが、私は先日の幼稚園にコールした。息子のために園庭のジャングルジムをお貸しください。こんな私的なお願いをするのは勿論タブーであるし、そもそも常識はずれである。

電話口の声は意外にも園長のものだった。受付のような人がいるものだと思っていた。突然の電話に園長は驚いていたが、それでもその声色には歓迎の意が滲み出ていた。

「勿論。大歓迎ですよ。お待ちしています」

手身近に要件を伝えると園長は快諾してくれた。許諾されたことに驚きはあったが、あの園長なら許してくれるだろうという確信めいたものもあった。だからこそ彼に電話をしたのだ。

一週間ほど前の曖昧な記憶を頼りに住宅街を走らせた。少し眠たいような柔らかな疲労感があった。

「この間の絵の大会でね、僕の絵が銀賞を取ったんだ。蝉がたくさんいる大きな木の絵なんだけど、色ぬりにこだわったんだ。木の皮なんか写真と見間違うくらいに上手く塗れたんだよ。だから、本当は金賞だって取れたはずなんだけど、多分ね、審査員の人が蝉嫌いだったんだと思う。カブトムシを描けばよかったかな」

丈瑠は調子を取り戻していた。いつもと変わらぬ様子で自慢げに最近の話をしてくれる。私は相槌をうちながら、大きくなった彼の背丈を横目に味わった。

幼稚園に着いたのは午後4時を少し回ったくらいの時間だった。日差しは弱まる様子を見せないまま、私たちを刺した。

丈瑠は幼稚園の外観に目を奪われていた。悪趣味な配色も彼にとってはおもちゃ箱のようで親しみが持てたのかもしれない。目を輝かせて感嘆の声を上げている。

「ああ、いらっしゃい。お久しぶりです」

「本日は私的な連絡を入れてしまい、本当に申し訳ありません」

「いえいえ、構いませんよ。是非、遊んでいってください」

インターホンを鳴らし、出てきた園長にお礼を言った。丈瑠も私の真似をして頭を下げた。園長が目を細めて丈瑠を撫でた。

「お父さんの仕事を見学したかったんだね」

「……うん」

「思い切り遊んでくるといい」

園長の言葉を聞くと、丈瑠は勢いよく園庭へと駆けていった。園庭には誰もいなかった。

「今は歌の時間です」

教室からは賛美歌のような調子をしたピアノの伴奏が響いた。その後で、精密な音程とは程遠い叫び声に似た歌が賑やかに聞こえてきた。

「今日でね、丈瑠と会うのは最後なんですよ」

園長は私の言葉に小さく息を呑み、それから複雑な表情になった。私の顔を見つめ、それから小さくうなずいた。

「最期とわかっていて会うというのは、突然の別れよりもきっと辛いことでしょう」

「本当はあいつがでかくなるまで見ていたかった。色んな話を聞いてやりたかった。だけど、駄目なんですよ。もう今日しか残っていない。私はあいつに何を残してやれるんだろう」

「あなたが作ったもの、あなたがやっている仕事を見せる。それがどれだけあの子の心に残るか。時間は少ないかもしれませんが、伝わることはあると思いますよ」

園長はそう言うと私に丈瑠の下に向かうよう合図をした。それから、園内へと戻っていった。

ジャングルジムに登る丈瑠の姿が風景画のようで、その背後の夕焼けが目に焼き付いた。

「当たり前のようにある遊具だろ」

私は自虐的に呟いた。いくら拘りを持とうとも、結局のところ、ジャングルジムは遊具だ。世の中にありふれて、溢れかえる。こんなものを作っている父に子供は憧れなどしない。

「でも、このジャングルジム変な形だよ。こんなの見たことない」

「まあ、そうなんだけどな。でも、それだけだ」

丈瑠はジャングルジムを下りて、私に近づいてきた。言いたいことがありそうに、しかし、その言葉を見つけられないでいた。

「すごいよ。すごい」

語彙はなく、感嘆の形容詞だけの言葉が、嬉しくもあったが無性に情けなくなった。こんな時、自分がパイロットだったら、野球選手だったら、息子はもっと具体的に感想をくれる筈だ。

「ジャングルジムがないと、高鬼ごっこがつまらなくなるよ。それに、えーっと、山登りごっこもできない」

丈瑠は言葉を探すように目を左右に動かした。その姿が愛おしく、頭を優しく撫でた。

「僕はパパの仕事、すごいと思うよ」

丈瑠はそれだけ言うと再びジャングルジムに登り始めた。それから、私の上から最近あった事をまた話し始めた。私は相槌を打ちながら、丈瑠の姿をしっかりと刻みつけた。

「ねぇ、パパ」

ジャングルジムのてっぺんから私を見下ろし、丈瑠が小さく呟いた。オレンジ色の陽が逆光で、丈瑠の顔を見えなくしていた。

「パパはいつまでも僕のパパだよね」

ジャングルジムを握る手のひらに力がこもった。はっとして、丈瑠の表情を覗き見ようとしたが、丈瑠の顔は逆光で黒い影法師のような姿になっていた。

「パパのことは大好きだよ。でも、ママのことも僕は大好きなんだ。パパもママもどっちも好きで、どっちが好きなんて僕には選べないんだけど、それでももう僕はパパと会っちゃいけないんだって」

やはり千枝は丈瑠に会うのは今日で最後だと伝えていたのだ。私の胸に沸き起こったのは、千枝への怒りではなく、丈瑠への申し訳なさだった。丈瑠は今日が最期と知りながら、私に気を遣って知らないふりをしていたのだ。

「僕、やだなあ。パパと会えなくなるの、僕、やだなあ」

丈瑠はジャングルジムのてっぺんにしゃがみこみ、すすり泣いていた。私は丈瑠に手を伸ばすことができないでいた。ただ泣き続ける息子を眺め、立ち尽くすだけであった。

私は何をやっているんだろう。

ジャングルジムが親に似ているだと、おこがましいにも程がある。私たちの関係が潰れないように、憎みあわないように、自分の気持ちを押し込めて耐えていたのは丈瑠だ。ぐちゃぐちゃに絡み合った利害と権利のジャングルジムの中を縫うように動き回っているのは子供達だ。

私は一体、何をやっているんだろう。

夕暮れが落ちて、薄闇がゆっくりとなだれ落ちて、丈瑠のすすり泣く声が響き渡るように聞こえた。蝉も子供達の声も、何もかもがなくなったように、住宅街は静かだった。

 

 

 

 

 

 

泣き疲れて眠ってしまった丈瑠を助手席に載せて、千枝の下まで送り届けるため車を走らせた。いっそのこと、このままどこか遠いところに車を走らせてやろうかと思った。遠い町で丈瑠と二人、暮らしていくことができれば、どれだけ幸せなことだろう。しかし、同時に私は気付いていた。そんなことを丈瑠は望んでいるわけではない。丈瑠が望んでいるのは、私と千枝がもう一度丈瑠のもとに戻ってくることだけだ。そしてそれは、決してありえないことだった。

約束の駅前に千枝は不機嫌そうに立っていた。私から眠る丈瑠を受け取ると、「じゃあ」とだけ言って改札へ消えていった。その後ろ姿をしばらくの間、眺め続けていた。

 

 

 

 

 

 

朝、目が覚めてテレビの電源を入れた。休日の朝は何もやることがない。冷蔵庫を開いてビールを取り出した。テレビからは天気予報が流れてくる。週明けからこの暑さは引いて、次第に秋の気候へと移るらしい。

天気予報士は「いざ秋になると思うと、少し物寂しいものですね」と名残惜しそうに言った。

全くもってその通りだとよく冷えたビールを飲んだ。パッケージには紅葉の絵が描かれていた。夏が終わった。