わくわくアラスカ紀行

アラスカ、ばり寒い

冷たい街の、上澄みで

橋下の背は高い。

こいつはほんと、邪魔なくらい背が高くて、小柄な私と並ぶとそれが余計に強調されて、社内の先輩達に凸凹コンビって不名誉なあだ名までつけられてしまう。配属された部署の新入社員は私たち二人だけで、どうしても行動が一緒になる。それが嫌だった。

だって、私は背が低いことがコンプレックスだし、わざわざ定規みたいな橋下と並べられて、比較されるのが本当に苦痛だった。こいつ、自動販売機よりもでかいし。範馬刃牙の世界観。

だから私は橋下を見るたびに、「縮め」って心の中で願ったし、住んでるマンションの近くの神社でお参りして「橋下の背があと30cm縮みますように」って呪いまでかけた。

そこまでやってるのに、橋下の身長は縮むことなく、橋下は今日も私に要らないちょっかいをかけてくる。

たけのこの里食べる?」

昼休みにデスクでお弁当を食べてると、橋下がこっちをみながらむしゃむしゃお菓子を食べていた。会社の入っているビルの売店で買ったらしい袋の中身は全部お菓子類だ。子供か?

「食べない。話しかけてくんな。デスクトップに顔向けて食べろ」

「海老と目が合うんだ」

「あんたがデスクトップの背景を伊勢海老にしてるからでしょ。変えなよ。だいたいなんで伊勢海老なの」

「海老、美味いじゃん。喰らえ、たけのこボム」

そう言いながらたけのこの里を投げてくる。最悪。クソガキ。マジで足の小指折れろ、腹立つ。

「ちゃんと掃除してよ」

床に散乱したたけのこの里を指差す。橋下は腹立つ顔を向けながら、「違いますぅ~。そこから先はマチの領土なので、そこに落ちたものはマチのものですぅ~。治外法権ですぅ~。排他的経済水域ですぅ~」とか叫ぶ。とにかく張り倒したい。マジで。

積極的に無視してお弁当にがっつく。デスクが隣だからって昼休みにも話しかけてくる意味がわからない。こっちは極力、こいつと関わりたくないのに。

「無視するなよマチ~」

「名前で呼ぶならちゃんと発音して」

「え?出来てるじゃん。マチ、マチ、マチ。ほら」

「ダメだって」

私の名前は「真智」なのに、橋下のイントネーションだとカタカナ表記の「マチ」って感じ。直せって言っても直らない。少し上擦ったように橋下の口から飛び出す私の名前は、お父さんとお母さんが付けてくれた「本物の智慧を持った子になってほしい」っていう素敵で大好きな「真智」じゃなくて、小学生がふざけて呼ぶような馬鹿馬鹿しさが滲み出てしまう。

私は橋下を無視して、ソリティアを始める。まだ業務を覚えきれてない愚鈍な私の時間つぶしはソリティアだ。ウィンドウをできるだけ小さくして、Excelの画面で隠すようにカードを動かす。巨大な橋下が壁になって、上司にはそれが見えないのだ。

きのこの山あげる」

「いらない」

私のデスクにちょこんと置かれた4個のきのこの山を手のひらをブルトーザーみたいにして橋下のデスクへ戻す。体温で溶けたチョコが私の手のひらを汚す。ティッシュくらい敷け。

だいたいなんできのことたけのこ両方買うんだ。味、一緒だろ。こだわれよ、どっちかに。腹立つ。

私の移動させたきのこの山をポリポリ齧りつつ、橋下は午後にあるミーティングで使う資料をまとめ始めた。性格は抜きにして、橋下は仕事ができる。細やかに資料を作成するし、プレゼンも得意だ。そういうところがまたムカつくのだ。

ただでさえ一緒くたにされているのに、仕事の出来も比較されると立つ瀬がない。私はまだ慣れない環境にあわあわしているというのに。

橋下はテトリスの長い棒だ。

色んな形で組み合わさった世間の中を、ただ、落ちてくるだけでぴったりに組み合わせられる。凸凹として、誰かに向きを変えてもらわなければ収まらない私とは違って、橋下はそこにいるだけで居場所が用意されている。

橋下のデスクトップに表示される伊勢海老が呑気にピースサインをしているように見えた。

「今日の飲み会参加するの」

「しない」

「え、なんで?」

「楽しくないし。帰りたい」

「えー、じゃあ、俺と飲みに行こうよ。マチ行かないなら、俺も行かない」

「死んでも嫌」

「うげー、しんだー」

「マジで死ね」

かなりキツイ言葉なのに、橋下はヘラヘラしている。余裕ぶっこいてやがるのだ。ムカつく。イヤホンを耳奥に押し込み、Bluetoothをオンにしてサカナクションを聴いた。橋下のアホみたいな声を山口一郎のボーカルで遮ったし、私のソリティアは捗った。

昼休憩が終わると同時に橋下はプレゼン資料を持って会議室へと向かうので、イヤホンを外して、再びソリティアに興じつつExcelをカタカタとやった。

 

 

 

業務終わり、上長が「そろそろ店行くから仕事片付けろよ」とフロアに声をかけたのを見計らって、私はするりとフロアから逃げようとした。誰も私に興味を持ってないからできることだ。それなのに。

「俺、駿河さんと先に行ってきますね。店の人に人数とか伝えときたいので」

橋下は逃げる私に気が付いて、私の名前をフロア中に響き渡らせた。

「ああ、すまん。悪いな橋下。駿河もよろしく頼む」

既に立ち上がっている私を、どうやら率先して行動しようとしたのだと勘違いした上長が、申し訳なさそうに笑いかけてきた。

私はもう逃げることができなくなってしまった。橋下を睨みつけるが、彼はヘラヘラとスマホで地図を確認していた。

「痛ッ!」

エレベーターフロアで橋下の足を思い切り蹴った。橋下は倒れこみそうになりながら、数歩、跳ねた。巨大な杉の木に思えた。

「余計なことして」

「こういうとこで敵作るのは良くないぜ。円滑に行こう、円滑に」

橋下は涙目でエレベーターのボタンを押した。扉の奥でワイヤーの稼働音が微かに聞こえて、遥か下の方で開く音がした。

「いいよ、別に。嫌われたって」

私は半ば自棄になって呟く。橋下はさっきまでの笑顔の張り付いた顔を崩して、二回、まだ来ないエレベーターのボタンを押した。

「気、張りすぎなんじゃない」

その超然とした口調に私は一気に沸騰した。

「あんたに何がわかるんだ」

橋下は私とは違う。

気配りが上手く、仕事もできて、認めたくないけど、皆から愛されてる。私とは大違いだ。比べられる私の気も知らないで、偉そうに説教してんじゃねえ。

橋下は何も言わず、やってきたエレベーターにするりと乗り込んだ。私は黙ったまま不機嫌なオーラを吐き出し、わざとゆっくりエレベーターに乗り込んだ。

「疲れないの」

密閉されたエレベーターで逃げ場のない私に橋下はなおも心を踏み抜いてくる。黙ったまま下を向いて、この男が爆弾で消し飛んでくれないかなと不穏な想像を巡らせた。

会社から出て、居酒屋まで向かう道すがらも、わざとゆっくり歩く私の速度に合わせて、橋下は歩いた。前を歩く鳩に追いつけないほどの速度で私と橋下は居酒屋まで歩いた。

居酒屋の広い座敷に通されて、部署の人が来るのを待った。橋下はわざわざ私の前に座って、メニューを読んだり、座敷に置かれたレプリカ臭い陶器の底をのぞいたりしていた。

「蜘蛛の巣張ってるぞ。見てみろって」

「馬鹿じゃないの」

こういうどうにもならない空気が大嫌いで、私は会社が大嫌いになっている。橋下はなおも陶器をひっくり返したり、変な顔の鶏の描かれた掛け軸を値踏みしている。

「あんた、人生楽しそうでいいね」

嫌な口調だった。

成功している橋下の生き方を否定するように、自分を守るように告げたそんな言葉にも、橋下はけろっとした表情のまま笑っていた。

「案外、そうでもないよ」

だから、聞こえないほどの低音で橋下が零したそんな言葉は私の空耳なんだとその時は思った。

やがて、入り口から喧騒がやってきて、社内の人間がどっさり入ってきた。私は席を立ち、トイレと向かう。そんな私を橋下がじっと見ている視線に気がついていた。

 

 

駿河はしょうもない女だよ」

喧騒の中、その言葉はまっすぐと私を刺した。離れたシマの机で若手の男に囲まれた梶が嘲るようにそう言った。

私の視線に気づいたのか、こちらを見て一瞬焦った表情を浮かべるが、すぐにニヤリと笑った。

常に誰かを見下したような態度で、周りから一歩引いた梶の態度は、周囲から敬遠されていたが、飲み会のような席では後輩を周りに侍らせて、好き勝手に自分の武勇伝を語る。若手は皆、張り付いたような笑みを浮かべる。

そんな梶に一時期、言い寄られていた時期があった。

新人研修の際、指導係として私の上になった梶は事あるごとに私を誘ってきた。飲みの誘いが連日のようにメッセンジャーに届いて、「お酒飲めないので」と連絡を返しながら、家で一人、芋の水割りを飲んだ。

余りにも邪険にするものじゃないかと一度だけ付き合ったことがあったが、その際も自慢とくだらないセクハラばかりで時間の無駄オブザイヤーだった。一度飲みに付き合ったことで、図に乗ったのか、社内でもやけに積極的に接触を図ってきた。

話面白くないし、カッコよくないし、何より背がマジで小さい。

勘違いされてるのはお互いのためにならないなと、きっぱり、迷惑ですと伝えると、途端に手のひら返しだった。

周囲の人間に私からアプローチしてきた。気を持たせやがって。こっちだって迷惑なんだ。

盛んに騒ぎ立て、私は呆れた。

周囲も梶の人間性をわかっているから、本心ではそうでないことなど理解していたが、誰もわざわざ面倒なことに首を突っ込むことなどしない。腫れ物を扱うような反応になった。

別に社内に円滑な人間関係を求めているわけではなかったが、さすがに少しショックだった。

特に感情が上がり下がりすることない凪の勤務時間を過ごす日々が続いて、そうしたら、今度はアホに絡まれるようになったのだ。なんなの、マジで。橋下のボケ。

 

「でも、先輩、服くそダサいっすよね」

空気の読めないクソでかボイスが飲み会を止めた。橋下が酔った素振りで梶に向かってニヤニヤ笑いながらそう言っていた。だけど、私にはわかる。酔ってない。顔が全然赤くない。そもそも、あいつは今日、バナナジュースしか飲んでいない。刺身をバナナジュースで食っていて気持ち悪いなこいつと思ったから、確実だ。

「あ?なんなの?」

梶が怒りを剥き出しに橋下に詰め寄る。橋下は尚もヘラヘラしながら、唐揚げに箸を伸ばす。

「いや、すんません。服ダサいのになんか言ってんなって思っちゃって。あと、チビなのに」

飲み会が打って変わって、やべぇみたいな温度に変わる。

「おい、ちょっとお前来い」

梶が立ち上がって橋下を見下ろす。今にも足を出して蹴り飛ばしそうな勢いだ。顔もどす黒く醜悪に歪んでいる。

「嫌っすよ。俺、喧嘩弱いもん。殴られんのやだ」

それから一番近くの上司に助けてとばかりに身体を寄せた。この上司は橋下を特別可愛がってる変人だ。

上司は困った顔を浮かべながらも、「あー、酔ってんだな、こいつ。馬鹿だから。梶君、ごめんごめん。勘弁したげて」と橋下をフォローする。こんなの過失100で橋下の負けな案件だが、よくもまあ庇い立てするわと驚いた。

それほどまでに社内での人間関係を深められる橋下に感心すらした。

「いや、酔ってるとかじゃなくて、そいつ完全に俺に喧嘩売ってるじゃないですか」「いや、酔ってるよ、橋下は。めちゃくちゃ酒飲ませたからさっき」「そいつ飲んでるのバナナジュースじゃないですか。酔ってないんですよ」あ、バレてる。やば。「これ、チェイサーだから、チェイサー。な?橋下。な?」「はい、めっちゃチェイサーです」「やっぱ舐めてんだろ、てめぇコラ」「怖いんですけど」「ほら見ろ梶。折角の会が、ほら、酷い空気じゃん。梶さ、一回落ち着けよ」「いや、だから、なんで俺が悪い感じになってんの、そいつだろ、舐めたこと抜かしてるの」「あー、だから、そこは橋本の反省するところだな。うん、でも、今はすげえ酔ってるから仕方ない。堪えて」「だから、そいつ酔ってねえだろが!」ついに梶は橋下に手を伸ばした。だが、周囲がその動きを止めた。羽交い締めにされて、喚き散らす梶に上司は困り顔で言った。

「抑えてくれよ梶。だいたい、橋下でけえからお前負けるぞ身長差で」

この一言で堪え切れなくなった。

私は盛大に噴き出して、勢いよく背後の壁に頭をぶつけた。笑いが止まらない。

ゲラゲラと止めることのできない波が私の口から飛び出していく。

梶の顔なんて見る暇もない。

さっきまでの閉塞感の溢れる飲み屋の座敷が体育館くらいの大きさに広がったような気がした。私の笑い声に呼応してか、他の人間も笑いを漏らし始めた。梶は怒り心頭と言った感じで肩を怒らせ、店を出て行った。

「あー、めっちゃ怒ってるじゃん」「最後の一言は最高でしたね」

途端に盛り上がり始める宴席。私は抜きにして、梶の悪口が盛んに飛び交う。これがあいつの人間性で、この部署の人間性だ。

救われた気持ちよりも、うんざりした気持ちの方が先に出た。

「お前、あいつの分金出せよな。あと、俺の分」

上司が橋下の顔におしぼりをぶつけて、ニヤリと笑った。

「煙草も買いましょうか?」

「禁煙してるの知ってんだろ、ぶっ飛ばすぞ」

橋下はケラケラ笑いながら、席を立ち、私の隣にやってきた。

「恩でも売ったつもり?」

「なにが?」

私の刺々しい言葉にも橋下はどこ吹く風だ。

「俺、あいつ嫌いなんだよね」

橋下はバナナジュースを置いて、その隣にあったビールのジョッキを傾けた。時間が経ち、泡が既に消えていた。

こいつはきっとこれまでもこうだったんだろう。特に理由もなく、誰かを助けてきたし、誰かの敵になってきた。

私のように波風立てず、中庸を気取って苦しんでいく人間とは根本が違うのだ。

「奇遇だけど、私も」

だから、精一杯の反抗心で、乗ってやった。橋下のように生きようと、その瞬間だけ、中庸を辞めてみた。

「ははっ」

橋下は満足気にビールを飲んだ。

 

 

飲み会はその後、恙無く進行して、二次会に向かうもの、そのまま帰宅するものに別れた。

「ふざけんな!梶のクソ野郎。寄り目!」

「おぉ~。イイね。白熱してきたね」

何故か私はブランコを全力で漕ぎながら梶の悪口を叫び散らしていた。何がどうなってこうなったのか全くわからないが、私は橋下と二人、深夜の公園で安いバカみたいな缶チューハイをしこたま呑んで騒いでいた。

「橋下ォ~!なんでそんなでけえんだ!!」

「うおっ。飛び火だ。なんでだろな。腹弱いから牛乳も嫌いだったのに」

「先祖がキリンなのか!!!」

「首は普通だろ」

橋下は酔っ払って無茶苦茶なことを言う私に取り合わず、しゃらんとした感じで流していく。そんな態度がありがたく、そして同時に腹立たしかった。

「どけぇ!!橋下!!私が飛ぶぞ!!」

「は?ちょ、やめとけって、バカ。おいっ!」

私は手を離し、等速運動を続けるブランコから勢いよく飛び立った。視界が空を写し、それから空が遠ざかる。一瞬の浮遊感と腰に衝撃。それから鈍い痛み。口の中に血の味が広がる。息ができなくなる。

私を見下ろす橋下の心配そうな顔が見えた。しきりに繰り返す腰の痛みが酩酊状態の頭を徐々に覚醒させた。

「見るんじゃねえ」

「こんなに面白い光景をか?」

「速攻で立ち上がるから、ちょっと向こう向いてろ」

「無事ならいいんだよ無事なら」

橋下は溜息をつきながら、背中を見せた。すぐに立ち上がろうとするが、脚に力が入らない。なんとか立ち上がるが、筋肉が麻痺したように弛緩し、そのまま倒れこむ。受け身も取れず無様に顔から地面に落ちる。

その音を聞いてか、橋下が「手助けいるか?」と心配そうに尋ねてくる。苛つく。

「いいから、こっち向くなよ。こっち向いたら絶交だから」

「大して親しくないじゃない」

「うるさい」

動物特番で必ず流される産まれたてのヤギのように、ふらふらと情けなく立ち上がり、滑り台へと足を進める。

「おい、あんまり動くなよ」

「うるさい、リハビリなの」

「リハビリを滑り台から始めるな。もっと無難にいけ」

やけに細い手すりを握るが、力を込め辛いせいか、前傾姿勢になってしまう。よろよろと徘徊老人の様相で、滑り台の上に立つ。

大した高さがないくせに、見晴らしのいい坂の上の公園にあるせいか、冷たく光る街並みがやけに綺麗だった。

「エキセントリック!エキセントリック!エキセントリック少年ボウイ」

私はすべり台のてっぺんで叫んだ。アルコールで脳がどろどろに溶けている。脚を無理しない程度に上げて、さながらロカビリーだった。寒々とした風がすべり台から叫ぶ馬鹿みたいな女を吹きさらしにした。

子供の頃に観ていた「ごっつええ感じ」は時折私の頭の中に浮かんで暴れ出す。

痛みを酔いに任せて吹き飛ばしたかった。頭は思考をやめており、勝手に口が、音程の狂った浜田雅功になってしまう。別にいいけどね、浜ちゃん好きだし。

「おー、懐かしい」

「この街が悪い!全部この街が悪い。冷たすぎる。九州はこんな冷たくない!常夏だ!」

「あ、マチって九州生まれなんだ」

「鹿児島ね。火山灰ヤバいとこ」

「帰省したら焼酎よろ」

「あんたどこ出身よ」

「え、東京」

「つまんねー」

私はロカビリー状態のまま、福山雅治の「東京にもあったんだ」を熱唱する。思い切り皮肉を込めて。橋下はゲラゲラ笑いながら、私に硬貨を投げつけてきた。投げ銭ってやつか?感じ悪いぞテメェ。

「写真撮ってやろうか?」

すべり台の下で橋下はどこから出したのか一眼のカメラを構えていた。その姿がどこか様になっていた。

「やめろ」

「なんだよ」

「こんな痴態映すんじゃねえ」

「残るからいいんじゃないか。わからんな」

橋下は残念そうにカメラを鞄にしまった。絶対に残されたくない姿はなんとか撮られずに済んだ。

「誰も撮ってくれって言わないんだよな」

拗ねたように橋下は手元の鞄を弄る。

「そりゃ、あんた見るからに下手くそだからでしょ」

「失礼なこと言う奴だな。自分で言うのもなんだけど、俺は結構上手いぞ」

「指とか写りそう」

「偶にね。じゃあ、あいつもそれで撮るなって言ったのかな。自信無くすわ」

「あいつって?」

「あー、大学の、んー、友達?みたいな人。いや、友達の友達?くらいの」

橋下は考え込むようにして、唸った。中途半端な関係の人間が出てきた。

「そんな希薄な関係の奴、よく被写体に選んだね」

「なんか虚ろな感じがクールだなって、それだけ。よくわかんねーけど」

適当な奴だなと呆れた。

その友達の友達の某君は不運だ。こいつの適当に運悪く遭遇してしまって。もしかしたら、こいつの適当な言葉で人生を変えられたりしてないだろうか。

「だいたいなんなの?そんな高価そうなカメラ持ち歩いて。カメラマンにでもなるつもり?」

冗談のつもりでそう笑い飛ばした。でも、橋下からは返事が返ってこなかった。てっきり、「そうそう、こうやってすぐにスクープをな」とか薄ら寒いボケを振ってくるものだと思っていた。

街灯の光も外れ、闇の中、橋下の顔が見えない。黙ったままの橋下がどんな顔でいるのかわからない。

「ははは。まさか」

薄いプレパラートがぱきりと割れるような、乾いた笑いと、投げやりな声が聞こえた。

柔らかなゼリーに何か鋭いものを突き刺した。私の胸にはそんな感覚が残った。

空気を変えようと話題を探すが何も思い浮かばない。そんな焦りから酔いが回ったのか、突如、吐き気を催した。そのまま止めることができず、すべり台から勢いよく嘔吐した。地面を重たい流体の音が鳴らす。

「うっわ、きたねっ!」

橋下が本気の声で叫んだ。ドン引きしているらしい。介抱しようとしているらしいが、橋下はすべり台の下だ。

「ちょ、マチ。滑ってこい。ほら」

すべり台の下で手を広げているが、今、すべり台なんかしたら残りも全部ブチまけそうだ。それくらい想像しろ。

「ああ。わかった。担ぐわ」

そう言って、何故か坂の方から登って来ようとする。なんでだよ。梯子から昇れよ。案の定、自分も酔っている橋下が途中で足を滑らせ、緩やかに滑落していく。間抜けだ。遊んでんじゃねえと怒鳴りたい。

「だめだ!上がれない!救急車呼ぶか?」

「頭おかしいだろ、あんた」

橋下の思考もアルコールで停止している。結局私は、その後二度嘔吐して、公園の入り口に呼んでもらったタクシーで帰宅した。

胃の中を空にしたおかげで、酔いはある程度冷めて、ベッドの中では必要以上に苦しむことなく眠りに落ちた。

何度かの浅い目覚めののち、重い身体を無理に引き起こした。中に泥を詰め込まれたサンドバッグのようだった。

水垢の着いた鏡に写る自分の姿を見て、あまりのブスさに衝撃を受けた。化粧はドロドロになり、アイシャドウが目の周りに広がり、暴漢に殴られたと勘違いされてもしょうがない感じだ。

唇と肌はアルコールの脱水症状で乾燥して、目は澱み、クマが腫れぼったく盛り上がって出来ていた。

水死体のようだった。

「会社休も」

私は有休申請をメールで送った。頭痛いし、なんか背中も痛いし。服を脱いで熱いシャワーに突入して、部屋着に着替えた後、再びベッドへダイブした。

「橋本、泣きそうだったな」

昨夜の橋下の態度が気になったが、そんなこと考えてられない状況になった。

二度寝の後の起床時、昨夜のブランコ飛翔事件の際、思い切り打ち付けた腰、というか背中が激しく痛んでいた。立ち上がるのも困難で、結局、救急車を呼んだ。仰々しくMRIに通されて、ぐるぐる回転して診察室に通された。スケベ顔の先生が笑っていた。背骨を骨折していた。背骨の、あの出っ張ったトゲみたいなところ、横突起って部分がポキリと折れていた。

幸い、症状は痛いだけで済むし、安静にしていれば、通院も必要ないとの事だったが、やっぱめちゃくちゃ痛い。コルセットをギチギチに巻いて、次の日出社すると、橋下は涙を流しながら大笑いした。

「アホだ。アホがいる。腹痛い。やめて、顔見せないで。帰って。マジで死ぬ。腹痛い」

橋下は過呼吸になって、本当に死にそうになるほど笑っていた。一昨日のおかしな態度なんて私の頭からすぽんと抜け落ちて、橋下に蹴りを入れる。そして激痛が腰を襲う。二人してデスクに突っ伏しているところを上長に叱られた。

二週間ほど、コルセットを巻いて、ガリガリと鎮痛剤を噛み砕いていると、次第に鈍い痛みは引いていて、気がつくと私の背骨は完璧に元気になっていた。完璧元気ちゃんだった。

それでもふとしたタイミングで笑うと激痛が走ったりもしたけれど。

ブランコから離陸して、不時着後、背骨骨折。

実際は大した怪我ではなかったが、文字にするとセンセーショナルな出来事になったその事件は瞬く間に部署の中を駆け巡った。

それと同時に、私と橋下が付き合ってるなんていうひどい誤解も同様に浸透した。

年齢の近い女性の先輩にその話を聞いた私は案の定、激怒して、橋下の肩を殴った。

「なにすんだよ」

「お前のせいだ」

「何が?」

「噂!!」

「ああ……」

橋下はニヤリと笑い、ポッキーをしゃくしゃくやり始めた。

「ほっとけばいいじゃない。誤解なんだから」

橋下の指先は次から次へとポッキーを摘んで口の中に押し込んでいく。喉に刺されと思った。

「食べる?」

差し出されたポッキーを摘んで、橋下の頬に突き刺す。強度のないポッキーが情けなく摘んだ端から折れ、橋下の頬には溶けたチョコレートが付いた。

その顔がバカ丸出しで笑った。

腰が痛いのに笑いが止まらなくて死ぬかと思った。

馬鹿に殺されるかと思った。

 

 

 

コルセットが取れた頃になって、私が酔ってブランコから投身して背骨を折ったことと、橋下と私が付き合ってるという噂は社内から姿を消した。

私への興味は、所詮その程度の期間しか持続しなかった。

橋下はその間も仕事に奮闘しつつ、クソガキみたいなちょっかいをかけてきたので、クソガキみたいな対応で返した。腹が立つことに、橋下は私の対応に満足げだった。

適当にあしらっていた頃より、生き生きとチョコやらキャンディーをボムにして投下してきた。

橋下がフロアの窓際にぼーっと立っているのを見かけた。陽射しを浴びて目を細めている。

「なにやってんの」

私の問いかけに気付いて、橋下は目をぱちりとさせた。

「日向ぼっこ」

「バカじゃないの」

「なんで?普通じゃん」

「給料貰ってんだよ、恥ずかしくないの」

「ちゃんと還元してるから問題ないのよ」

自信げに胸を張る橋下を蹴り飛ばした。橋下の自慢は嫌味がないが、イラっとくる。

「マチはさ、キックボクシングとか習いに行ったら?結構いいローキック持ってる」

膝を抑えながら涙目で私を見上げてくる橋下。

何年も前から、何十年も前からこうして二人でバカな話をしていたと錯覚した。本当はまだ出会って数ヶ月で、飲みに行った回数も数えられる程度で、それでも私はこの関係に満足していた。充実していた。これから先、何年もこんなゆるい関係が続いていくのだと錯覚した。

 

 

 

橋下が梶を殴ったと聞いた。

橋下本人は決して口を割らなかったが、また、性懲りも無く梶が私の悪口をペラペラと喫煙所で話していたらしく、それを聞いた橋下が思いっきり梶の顎にアッパーカットを決めたらしい。世界戦さながらだったと目撃した先輩に聞いた。

本来なら一瞬でクビ案件だったが、幸いにも橋下は有能だった。会社的にも捨てるのは惜しいと判断されたらしい。

名古屋へと転勤になった。

辞令が出されても、ヘラヘラ笑いながら有名な味噌カツ屋を検索していて、こいつは本当、どうしようもないなと思った。脳みそがういろうなんだ、きっと。

そういう訳で、橋下は半ば、島流し気味に名古屋へと飛ばされていった。私と橋下の希薄な、しょうもない関係もそのまま終わるかに見えたが、橋下は頻繁に連絡を寄越すようになる。下手くそな、誇張された名古屋弁を電話口で得意げに見せびらかし、私を閉口させた。

「味噌味が至高だぜ。豚カツにはさ。……だぎゃあ」

「おまえ、そのバカみたいな方言二度と使うなよ、東京人が」

人で混み合う安居酒屋で私に向き合いながら、橋下はビールを飲んだ。出張や営業で東京によるタイミングで、毎回のごとく、橋下は飲みに誘って来た。飲みだけでなく、水族館やら動物園、映画にまで誘ってきて、私も断る理由もないので、バカみたいな顔を向かい合わせ、パイレーツオブカリビアンとかミズクラゲとか、キリンを観た。

なんだ、こいつ。私のこと好きなのか。と、時折、思うが、ジョニー・デップの所作で鼻水を垂らしながら号泣する姿や(全然泣ける作品ではない)や、不細工な穴子のぬいぐるみを振り回して遊ぶ姿を見るに、どうもそんな素振りはない。

単純に友達として、一緒に遊ぶのが楽しいって感じらしい。不覚にも、そう認識されていることが、嬉しかった。

何度目かの冬。

その日、午後の業務をなんとかこなす私のデスクに橋下が突然やってきた。またいつもの如く出張中らしい。フロア内の上司に「ちわーす」と軽い挨拶をして、「来やがったな」とばかりにボディーブローを受けて騒いでいた。中学生みたいなノリをいつまでもするな。

橋下は隙のないスーツ姿に、謎の配色のネクタイを締めていた。薄いすみれ色だった。

「そのネクタイ全然似合ってねー。ホスト?」

「大人っぽくない?」

「くそだせえ。そんなネクタイ捨てな」

「他にも金色とか買ったよ」

「おしまいだよ、センスが。さようなら、そういう趣味の人と会話したくありません」

「今日、何時上がり?」

「知らん。終わり次第だ」

私はパソコンに向き直る。

橋下はしばらく私の背後をうろうろして、「珈琲飲んでくる」とフロアを出た。

「終わったら連絡して」

暇つぶしで出社するんじゃねえと思いながらも、私の指はいつもより早くキーボードをタイプしていた。

 

 

 

「終わった」

「おけ」

メッセンジャーはすぐに既読になった。

会社の前で合流して、近所の飲み屋に向かった。どこでだって食べられそうな、安っぽい冷凍食品を出すような、雑な店だ。お互いに味にこだわりがない分、店選びは安さに重点が置かれている。値段の高い店にもいこうと思えば行けるが、橋下とわざわざ、そんな店に行くのもなんだか変な話だ。こいつはここで充分なんだ。

塩昆布と和えられたキャベツをしゃくしゃく齧りながら、薄いチューハイを豪快に飲んだ。橋下は水割りをゆっくり飲んでいた。

私たちの会話はしょうもない。

この前、クソでかい犬のうんこを見たとか、近道しようと知らない道を通ったら崖に出たとか、近所のラーメン屋の麺がうどんだったとか、なんの魅力もない。

ラジカセから流れる雑な会話のようだ。

こういうのが楽しいとか好きという訳でもなく、ここでもやっぱり、こいつはこれで充分だとなるのだ。

店を出ると、時間はまだ21時を回った頃だった。帰るかと駅の方へ向かおうとした私の腕を橋下が掴んだ。

「触んなよ」

「もう帰るの?」

柄にもなく粘る。いつもならば、私が帰ろうとしたらなんの執着もせずに、「ばいばーい」と手を振る橋下だ。何かあるのかと疑問に思った。

「あー、えー、どうしようかな」

歯切れが悪い。何かあるのは確定的だ。

「あ、じゃあ、こうしよう。会社戻ろう」

「なんでよ、嫌よ」

「馬鹿、仕事するわけじゃねえって。会社での酒の飲み方教えてやる」

そう言って、橋下は会社の方へと歩き始めた。振り返りざまの表情はバツが悪そうだった。

めんどくせ。

気を遣わせるんじゃないよ。

溜息をついて、いつもより背が低く見える橋下の背中を蹴り飛ばした。

蹴りたい背中』じゃん。私は、躊躇なく蹴り飛ばすけど。

会社への道中は、飲み会帰りのサラリーマンであふれていた。駅へ向かう彼らと、オフィス街へ向かう私達と。人の流れに逆らう形で、酔っ払いを避けるインベーダーゲームみたいだった。橋下が1Pで、私が2Pのインベーダーゲームは一度もゲームオーバーにならずに会社まで続いた。

会社の入るビルのエントランスフロアにある売店で橋下は迷うことなくビールを2缶買った。この売店はかなりの頻度で利用するが、アルコールの類が置いてあるとは知らなかった。

橋下はスムーズな様子で電子マネーを使おうとするが、残額が足りてなくて、財布から紙幣を取り出した。橋下らしくて、呆れた。

 

会社の屋上からの景色は、控えめに言っても絶景だった。

「いやっほぉぉぉ!!!」

売店で買ったビールの入った袋をぶらぶらさせて、橋下は叫んだ。

周囲にその音を阻害するものは何もなく、笑ってしまうくらいにその間抜けな声は響き渡った。

「恥ずかしいからやめてよ」

「いやあ、この高さだと叫んじゃうって普通。叫ばない方がおかしい」

「あんた今年で27でしょ。もう立派なアラサーだから」

私は冷たいアスファルトに腰掛けて、橋下に手を伸ばす。ヘラヘラ笑いながら橋下は私にビールを手渡す。プルタブを小気味好く開けて、バカがやたらと振り回すせいで噴き上がった炭酸に口をつけて蓋をする。

売店にお酒なんて置いてるんだ」

オフィスビルのくせにアルコールの類を置くなんて非常識だ。あの売店の店員は何を考えているのだろう。いや、買う方にも問題があるのか。

「お?さてはマチ。残業はほどほどにってタイプだな?あの売店はな、夜21時を回るとアルコールを並べるのだ。何度、世話になったか」

橋下は噴き上がる炭酸に顎を塗らせながら、自慢げに胸を張った。威張ることでもないだろう。

常夜灯が赤く定期的に点滅し、それが誰かからのSOSのサインに思えた。薄く闇で縁取られたこの街のシルエットが不思議に愛おしかった。

「仕事楽しい?」

名古屋での橋下の部署は営業だと聞いた。この軽い頭を日夜、様々な場所で上げ下げしているのだろう。想像に難くない。

「楽しいよ。だいたいタダメシだし」

「そりゃ良かった」

橋下に取って、取引先の機嫌をとることくらい食事代に比べれば当たり障りのないことらしい。

「マチは変わらんね」

嬉しそうに橋下は言った。外気に冷やされた息が白く染まって空中を漂った。

「何?バカにしてんの?」

「なんでだよ。褒めてんの」

「褒められた気がしないんだよね」

「いや、この歳になるとさ、みんな同じようになるじゃん。こうはなりたくねーって思ってたツマンナイ大人?そんな感じ。俺もそうなってんのかな、やだなって思ってたんだけど、マチ見たらなんか、安心した」

「よくそんな恥ずかしいこと堂々と言えるね」

橋下にビール缶の中身をブチまけるジェスチャーをする。

「青臭くいこうぜ」

「勝手にやってろバーカ」

私は冷たいビル風に揺られ、髪を振り乱してビールを飲んだ。沈黙が宝石箱のような都会の夜景に馴染んだ。夜の深みに音が吸い込まれて、遥か階下の車のエンジン音が高く鳴った。

「俺さ、仕事辞めるわ」

会話の流れもなく、橋下はそう言った。

特段の驚きもなく、私は「へぇ」と缶ビールを飲んだ。なんだこいつ。そんなことわざわざ報告しにきたのか。殊勝な奴。

「あれ、驚かないの」

「そこまであんたに興味ない」

「ひでー」

橋下は拍子抜けしたように肩を落とした。

「で、何するつもりなの?」

「んー、カメラマンになる」

橋下は半笑いでこちらを見た。笑っているけど、どこか試すような目だった。

「馬鹿じゃないの」

冗談だとばかり思って、突き放すように言ったが、あとの静寂から橋下が本気で言っていることがわかった。

「マジ?」

「マジマジ。大マジよ」

「え、嘘。ツテとかあんの?」

「実はちょっと前から出版社に持ち込んだりしてんの。ボロクソ言われて終わるけど、実際。でも、最近割と評価されてるんだぜ。で、ちょっと本腰入れようかなって」

橋下は自慢げに言った。だけど、それは痛々しいくらいの虚勢に見えた。破れかぶれ気味の橋下はやけに大きく笑った。

イラク行ってくるわ」

近くのコンビニに行くみたいなニュアンスで、橋下は言った。

は?

イラク

あの?

どっかんばっかんの銃撃とか地雷とかヤバイとこ?石油の国?

私の頭には不明瞭なイラクのイメージが浮かんで、それから消えた。

「紛争の写真撮ってくる」

「なんで?」

私の日本語の質問は至極当然の疑問で、外国人留学生でもきっと同じくそう質問するだろう。

「それが一番都合が良いのよ」

「は?なんだそれ。ボカしてんじゃねえぞ、アホ」

大袈裟に告白したくせに、大事なところは濁す橋下に苛立った。心配して欲しいんだろ?興味持ってほしいんだろ?私にわざわざ伝えてきたってことは、それなりに求めている言葉があるわけだろ?

ボカしてんじゃねえぞ、ドアホ。

「あー、ごめん。そんな感じになるとは思わなんだ。すまんすまん、流して。ごめん」

橋下は薮蛇を突いたとばかりにさっきまでの声色を一転させて、とり繕い始めた。その態度が私をさらに苛つかせた。

「自分だけ気持ち良くなってんじゃねえぞ。私一人納得させられないで、自分が納得できるわけないだろ、たわけ」

私は橋下をぶん殴りかねない勢いで息巻いた。実際、殴りたい衝動に駆られていた。

こいつはわざわざ、構って欲しい話題を振っておいて、直前でやっぱ辞めるわと切り上げているのだ。私じゃあ、役不足と言いたげに。

てめえ、ふざけんじゃねえぞ。

舐めてんじゃねえ。橋下は尚も黙ったままだ。ばつの悪そうに薄笑いを病的に浮かべている。

そこで、私は気付いた。

橋下も自分の中でまだ答えを出せていないのだ。

自分の選択が正しいのか、間違えているのか。そんなこともまだ判断が付いてないのだ。

「そんな気持ちならやめとけよ」

私は辛辣にそう告げた。

私の知ってる橋下は、中途半端な情けない決断を下すような奴じゃない。何も考えてないくせに、やることはどっちつかずじゃない。

私の言葉に橋下はゆっくりと顔を挙げた。

「マチはカッコイイね」

「あ?」

「俺はさ、たとえ自分の夢でさえ、簡単に話せないんだよな。わかんねえもん。正しいのか間違ってるのかも。怖いんだよ。自分のやりたかった夢が難しく、過酷な道で、今の道から逸れてまで追いかけてもいいのか。そんな不安が出てくるんだよ。それが何年も追い求めた夢でさえさ」

橋本は顔をゆがめた。何度も反芻しながら自分の考えを言葉にしようともがいていた。だけど、ここで、私の意見は変わらない。そんな風に答えを出せてすらいないのなら、わざわざ飛び出す必要なんてないのだ。所詮、その程度の夢の大きさなんだから。その程度の夢の熱量なんだから。

私は橋本をにらみつける。目をそらすと高をくくっていたが、橋本は私から視線を外さなかった。

「俺はずっと結論を出せないんだ」

橋本の目は泣きそうに滲んでいた。ビル風が勢いよく私たちの間を通り抜けていった。

「だから、もう考えるのをやめたんだよ。決意と覚悟とかそんなものは後からどうにでも誤魔化して身に着けることはできる。自分を納得させる理由なんてものも、無理やり作り出せばいいんだよ。でも、それは俺が一歩踏み出さないとできないことだと思うんだ。だから、もう俺は進むしかないんだ。間違えていても進むしかないんだよ、マチ」

それは、まぎれもなく橋本の本心だった。

でも、それは盲目的に自分の言葉に浮かされにいっているだけに思えた。間違いなく不幸に向かって邁進しているように思えた。

「駄目だよ、橋本。お前、本当、駄目。全然できてないじゃん。全然自分の姿見えてないじゃん。そんなのは駄目だって。ちゃんと自分の立ってるところ見てない。それは納得できない」

私は駄々っ子のように体を揺すった。言ってみろ。私を納得させる言葉で、お前の熱意を見せてみろ。そういいたい気持ちでいっぱいだった。だけど、そう詰め寄る理由が私にはない。そこまでする理由が、そこまで橋本を追い詰める理由が私にはない。私と橋本は同僚で、友達で、馬鹿騒ぎするだけの関係で、「ここを通りたく場私を斃してからいけ」みたいな台詞は私には言えない。そんな資格はない。

橋本は既に決断しているのだ。

何の答えもないままに無謀にも足を進めていくという選択を。そうすることでしか立ち行かなくなってしまっているのだ。

「俺はさ、俺は消費されていく今をどうにか永遠に留めたいんだ」

ゆっくりと言葉を紡ぐように橋下は言った。自分の言葉を確かめるように、自分の中に刻み込むように。

「誰もが忘れていくんだ。どんなに悲惨な事件も勇敢な行動でも、その瞬間は大きく取り上げても、いずれは消えていく。消費されていく。そうはさせない。誰かにとっての大切な今を、そう簡単に消費させてたまるか。俺がここに留めてやる」

私は橋本の言葉を黙って聞いていた。橋本の言葉はさっきまでの迷いが感じられないほどに、流ちょうに彼の口からあふれ出ていた。

「今、作ったんじゃないよ。本心。大学のころに一回本気で悩んだ時、俺はそんな気持ちだった。揺らぐはずがないってそう思っていたのよ。でも、やっぱ駄目だな。社会人生活ってのは、そんな覚悟も錆びさせんのね。理由、あんのに大声で言えねえや」

悔しそうに顔を歪ませる橋本に私は何も言えないでいた。きっと彼は苦しんできたんだ。膨れ上がり続ける自己実現の欲望と現実の生活との軋轢に、どんどんすり減ってきたのだろう。私には到底理解できない煉獄の炎のような苦しみに、橋本は苛まれていたのだろう。

何も言えない。

言えるはずがない。

私には橋本が理解できない。

そこの乖離は説得なんてものを許しはしない。ただ彼の決断を黙って聞くか、関係が潰れるほど否定して、それでも橋本を見送ることしか私には許されていない。私にはそもそも選択なんてないのだ。

これはあくまでも橋本の中だけで、橋本自身が下す決断で、その答えは既に出ているのだ。

笑っちゃうくらい長い沈黙の中、私たちはお互いを見つめ続けていた。

「私と会えなくなるぜ」

長い懊悩ののち、咄嗟に飛び出たのはそんな間抜けなセリフだった。なんだよ、「~ぜ」って。いつの時代のキャラクターだよ。震えながら、ふとすれば、崩れ落ちそうになりながら、私はつぶやいていた。

さっきまでの態度、橋下の適当な態度を詰る言葉とは真逆の言葉がすらすらと出てきた。実感が湧いてきた。この馬鹿は本当にどこかに行きかねない。冗談でなく本気で、そんな馬鹿なことを実行しようとしている。

「そんなとこ行くより、日本で、ここで、一緒にいようよ」

情けなく縋り付く言葉が溢れていく。絶対に見せたくない表情を見せてしまっている。

「なんなんだよ。紛争とか、物騒なこと言うなよ。お前、無理だよ。弱いもん。デカイだけじゃん。デカイから弾当たるって。やめなよ」

「そうかもな」

「馬鹿なこと言うなよ。向いてるよ、営業。日本にいて。日本で営業やれ。大丈夫だよ、カッコイイよ橋下。間違えてない。普通でいいんだよ。夢とかそんな高尚なことで浮かされるなよ、橋下。地に足つけてよ。どっか行かないで。いて。ここにいて」

擦り寄るように足を進めるが、足が途中で止まる。これ以上進めない。橋下を止める術が私にはない。

私はただの友達、希薄な繋がりで、橋下の人生に、夢に口出しすることなんてできなくて、それでも私は橋下にイラクになんて行って欲しくない。銃弾の雨の中を這いずり回って欲しくない。

ただの我儘だけを理由にしかできない自分があまりにも弱く、情けなかった。

そのまま、動きが止まって、溢れる涙を止められないでいた。

ぱしゃり。と、音が鳴った。

橋下がカメラを構えていた。フラッシュが焚かれ、その光の残滓がまだ少し空間に揺蕩っていた。

「撮んなよ」

自分の声が弱々しく震えていることに気が付いた。こんな声、初めて聞いた。

「時々な、こんな風に、自分でも思ってなかったものが撮れるんだ」

カメラの画面を覗き込みながら、橋下は満足げに微笑んだ。

「あー、さっきのナシ。さっきの超かっこつけたやつナシ」

橋下は恥ずかしそうに耳を掻きながら、そう言った。

「口では大層なことを言ってるかもしれないけど、やめてね、そんなしゃらくさいやつだと思わないでね、マチは。違う違う。もっと単純な話だ」

「あー」とか「うー」とか言葉にならないうなり声を何度もこぼして、橋本は言葉を紡ごうとしていた。自分の中の本心ってものを、小さな形にしようともがいているように見えた。

「夢とか本当の気持ち語るのって、やっぱ超気持ちいいの。自分が主人公にでもなっているでもさ、大人になるにつれて、そういうこと言っちゃうと、笑われるんだな。うん。笑われたくないから、まあ、なんだろ。本気だからこそきついっていうか。本気なら笑われても平気とかいう言論、本当やめてほしい。しんどいもんはしんどいよ。一番デリケートなとこだし。その予防で、綺麗事を言ってさ、いつしか本当の気持ちすら覆い隠すようにさ。その綺麗事のパテがどんどんどんどん厚くなって、自分でも息苦しくなってくる」

吹き続けていたビル風が不意に止まった。ノイズが入らなくなった橋本の言葉が鮮明に私の耳に馴染んだ。

「でも、本当の理由。俺がカメラマンになりたいってその理由は、きっと、こんな綺麗な写真が撮りたい。それだけなんだと思う」

橋下はカメラの画面を見つめた。そこには私の汚い顔面が写っているんだろう。

「なんだよ、それ。お前、ふざけんな。見せろ」

飛びかかる私を華麗に避けてみせて、橋下はカメラを高く上げた。巨大な橋下が手を伸ばせば、小さな私には手が出せない。

「マチには絶対、見せねえよ」

橋下は笑った。

いつもと変わらず、バカみたいな顔で、大きく笑ってみせた。

「うっさい。黙れ。さっさとどっか飛んでけ」

桃鉄みたいな台詞にも、橋下はツッコんでくれない。

橋下は行ってしまうだろう。

私の情けない、身を投げ出した告白めいた制止すら置いて、どこまでも進んでしまうのだろう。

それは仕方のないことだ。

橋下の言う綺麗な写真を撮りたいって欲求が、私の隣で馬鹿馬鹿しく笑ってる現在よりも魅力的に映ったというのだから。それはもう仕方のないことなのだろう。橋下と恋人になりたいわけじゃない。橋下とキスしたりセックスしたりする姿を想像すると、「おええっ」となるし、恋人同士の甘いしょうもないやりとりもしたいわけじゃない。

ただ、側にいてほしい。

間違っても、紛争地域なんかには行って欲しくない。ここで、この冷たい柔らかな街で、笑っていればいいと思う。そっちの方が幸せなのにと強く思う。

私には橋下の考えてることがわからない。

橋下の言う綺麗な写真も、事実を留めておくっていう大義名分すらも理解できない。

橋下はみんなより、少し高い場所に頭があって、その高い身長から、この冷たい街の上澄みを吸い込んで生きている。

私には理解できない。

どこまでも自分本意で、真っ直ぐ生きて、自分の生き方に自信持って進むこのバカのことが。こうやって哀れに縋る私のことを橋下は理解しているのだろうか。私の気持ちの一部だって理解せず、こいつは紛争地域に突っ込んで行くのか。

「じゃあ、そろそろ帰りますか〜」

「帰れ、帰れ。馬鹿」

「なんだよ、一緒に帰ろうよ」

「いやだ。お前なんか絶交だ死ね」

死ねという言葉がやけにリアルに響いてハッとした。しかし橋本は気にするようなそぶりも少しも見せない。わかっているんだろうか、こいつは。自分がこれからどれほど危険な道を歩むのかを。それほどまでに気分のいいものなのだろうか、夢を追うという行為は。私にはそうは思えない。ガムの包み紙に吐き捨てて、街角の灰皿や高速道路を走る車の窓から放り投げるくらいのものだとしか思えない。そうとしか思えないからこそ、私には橋本を止めることができないのだ。

「じゃあな、バカ野郎。死ぬんじゃねーぞ」

去っていく橋下の背中にビールの缶を投げつけた。見事に頭に命中し、橋下の「ふざけんな痛えな」という声に爆笑する振りをする。あのバカには私が泣いてる姿を見せてしまった。できることなら、その姿だけを忘れてほしい。このまま、バカバカしく別れて、何年か後、地続きのまま、バカをやれたらいいなと、心からそう思った。

だから、橋下。

「死ぬんじゃねーぞ」

さっきの言葉を消し去るように、祈りを込めて私は叫んだ。私の言葉が届いたのかはわからない。だけど、橋下はそのデカイ体を曲げて、頷いたように見えた。

 

 

 

橋下はそれからすぐに会社を辞めた。

堂々と「カメラマンになる」って言ってのけて、社内の失笑を買ったらしい。

あいつがベネズエラだかパキスタンだかイラクだかを飛び回ってる間に、2年経った。

私は結婚した。

夫となった人は合コンで出会った銀行マンで、橋下と違って実直な人だった。別に義理立てする必要もないし、なんなら私は振られているようなものなので、プロポーズは素直に受け入れた。

夫との生活はなんの不満もなく流れた。呆気ないくらいに平和で、単調で、幸せだった。

橋下が死んだと聞いた。

中東で現地の少年兵に蜂の巣にされたらしい。それを私はニュースで知った。

パスポート写真だろうか、ちょっと真面目風に映った浮かれ野郎の顔写真が朝食中、テレビにでかでかと映った。夫は興味なさそうに私の作った味噌汁を飲んでいた。

「あれさ」

「ん?」

「いや、今の」

「戦場カメラマン?」

夫は顔を思い出そうと顔を歪めた。橋下のことをこの人は戦場カメラマンと呼んだ。そうか、そうなんだよなとすとんと何かが身体から抜けた。

「友達なんだよね」

「え?」

「会社の同期」

夫は動きを止めて、しばらくしてから「葬式とかどうすんの」とボソリと呟いた。私は「知らねえ」と返して、味噌汁を飲んだ。なんだか無性にイラついた。ガチャガチャと食器を鳴らし、乱暴な朝食を摂る私に奇異な視線を寄越して、夫は腫れ物に触るように小さく「ごちそうさま」と言った。

夫が逃げるように家を出て、ワイドショーがいくつか切り替わっても私はしばらく立ち上がれないでいた。机の木目を眺め、ただぐらぐらと湧き上がる黒い溶岩に吐き気を催していた。

死んでんじゃねえよ、ボケ。

涙は不思議と出てこなかった。

胸の奥から湧き上がる熱い感情が涙を体内で蒸発させていた。遠い異国で穴だらけになって死んだ橋下を想像して、気分が悪くなった。それが怒りからか悲しみからか、私には判別がつかなかった。

知り合いに連絡を入れたが、葬儀の便りはどこにもきていなかった。身内だけで行うのだろう。家族もきっとバカな死に方をしたと隠し通したい気持ちなのだろう。

洗濯物を干しにベランダに出た。この部屋からは私と橋下が務めていた会社のビルが見える。あの屋上で私と橋下は別れた。あのビルの見える部屋で、私は橋下の死を知った。それも思いつく限りの滑稽な死だ。

橋下は勝手なことをして、勝手に死んだ。

そこに憐れみも嘲笑も存在しない。

だって、私と橋下は無関係なのだから。

時期的に目に見えない花粉が洗濯物に付着する。効果があるのか定かではないが、二、三度洗濯物を払って、部屋の中へと投げ込んで行く。硬いフローリングに座り込んで、洗濯物をたたんで行く。今日は午後から夕飯の買い物がある。テレビからはくだらない芸能ニュースが流れ続け、司会者が下品に笑う。

私は立ち上がれなかった。

たたみ終わった洗濯物を横目に、ただじっとそこに座り続けていた。

 

 

 

私の様子がおかしくなったことを夫は理解していたが、深くは聞いてこなかった。その心遣いがありがたかった。

食事の準備も買い物も掃除も、何もかもが手につかなかった。

一人の人間が死んだ。

たったそれだけの事象が、私の認識する世界を大きく揺らして、どこまでも波紋を広げていく。

橋下という存在が大きかったというだけではなく、突然、自分の世界が違う世界に侵食された衝撃が私を揺さぶったのだ。

泣くこともできず、ただ、無為に数日を過ごした。

そんなある午後、郵便が届いた。

小さな茶封筒だった。

差出人には橋下の名前が書かれていた。

封を切ると、橋下の母からの簡素な手紙と、一枚の写真が封入されていた。手紙には橋下が自分が死んだ際、交友関係のあった人間に指定した写真を贈るようことづけられていた旨が書かれていた。

そして、写真に写っていたのは、フラッシュが焚かれ、浮き上がった私の汚らしい泣き顔だった。紛れもなくあの夜の写真だった。橋下はこの不細工な写真のどこを見て綺麗だと納得したのだろうか。ピンボケもしてるし。やっぱりあいつは下手くそだ。

丁寧に赤いマジックで「happy wedding」と書かれている。わざわざ書いたのか。律儀なやつ。つづり間違ってないだろうな。念入りに確認する。写真をひっくり返す。

裏面にデカデカと同じ赤いマジックで「背骨折れ女」とタイトルが書かれていた。思わず写真をくしゃくしゃに丸めそうになるが、その赤の背後に消えそうに薄く鉛筆書きがあることに気づいた。

「帰る場所」

その文字群を見て、呆れ返った。肩からだらんと力が抜けた。

あの野郎。

あれだけこっ酷く人のこと振っておきながら、意外と揺れ動いていたのかよ。クソ。もうひと押ししとけばよかった、マジで。ままならないな、最後まで。それで、私が結婚したこと聞いて、上から「背骨折れ女」って書き足したのか。

ダサすぎるぞ、橋下。

バーカ。

あーあ。最後の最後で拍子抜けした。

あいつの生き方、本当めちゃくちゃだ。

やっぱ、ロクでもねえ。おしまいおしまい。さようならだ。

写真は自室の机の引き出しにしまった。誰も見つけられないように、だけど、私だけがその場所を知っているところに。

私の身長は伸びない。

今もまだ小さいままだ。

橋下が吸っていたこの冷たい街の上澄みは、きっとこれから先も吸うことができない。でも、吸わないでいいと思えた。だって、上澄みを吸ってたら、あんなバカになるから。私はこの冷たい街に脚を下ろして、ゆっくり幸せになる。

夕飯の買い物をするために玄関の扉を開く。風が冷たい冬の空気を運んできた。

上を向く。

今、真っ直ぐ前を向くと涙が落ちてしまう。

マンションの狭い廊下を上を向いて歩く私はさぞかし間抜けなことだろう。

泣いてなんてやらねえからな。

お前のために流す涙は、あの夜、あの屋上、冷たい街の上澄みの中で最後だったんだ。出し尽くしたんだよ。

ざまあみろ、バーカ。